第21話『熱狂の代償』
控え室に戻るまでの通路は、闘技場の熱狂が嘘のように、ひんやりと静まり返っていた。
俺は壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。アドレナリンが切れ、全身の骨が軋むような、凄まじい疲労感が全身を襲った。
「……はぁ、はぁ……」
ショートソードを握っていた右手は、まだ小刻みに震えている。
脚本通りだった。完璧な、演武。
だが、一歩間違えれば、俺はバルガスの戦斧で肉塊になっていた。その恐怖の残滓が、まだ全身にこびりついて離れない。
『フン。案ずるな。万が一の時は、我が貴様の骨くらいは拾ってやったわ』
「……頼むから、黙っててくれ……」
イグニールの軽口に返事をする気力もなかった。
俺は、ただ目を閉じ、荒い呼吸を整えることだけに集中した。
やがて、控え室の扉が開き、中から次の試合に出るであろう、屈強な冒険者たちが出てきた。
彼らは、通路の隅で座り込んでいる俺の姿を認めると、ぎょっとしたように足を止め、そして、まるで何か得体の知れないものを見るかのように、距離を取って俺の横を通り過ぎていった。
以前の嘲笑や侮蔑は、もうどこにもない。
代わりに向けられるのは、畏怖と、警戒心と、そして、理解できないものに対する、わずかな敵意。
俺は、もう、ただのFランク冒-険者ではいられなくなってしまった。
その事実が、ずしりと重く、俺の肩にのしかかる。
「―――お疲れ様でした、パートナー」
声のした方を見ると、通路の奥からエリスさんが歩いてくるところだった。
彼女はいつも通りの無表情で、俺の前に立つと、小さな小瓶を手渡した。
「最高級の魔力回復薬です。まずは、消耗した体力を回復させてください」
「……ああ、どうも」
俺はそれを受け取ると、一気に飲み干した。清涼な液体が喉を通り過ぎ、疲弊した体にじんわりと染み渡っていくのが分かる。
「完璧でした。私の計算していたタイムと、寸分の狂いもない、完璧な演武です。これで『彗星のアッシュ』の伝説は、確固たるものになりました」
エリスさんは、冷静に、しかし、どこか満足げに言った。
「……心臓に悪いにも、ほどがある」
「英雄への道とは、常に死と隣り合わせのものです。覚悟は、できていたはずでしょう?」
彼女の言葉に、俺は何も言い返せなかった。
そうだ。俺は、自分でこの道を選んだのだから。
◇◇◇
その日の夜。
武闘大会の初日は終わり、街は祭りの熱気と興奮に包まれていた。
酒場では、今日の試合の結果を肴に、冒険者たちが大いに盛り上がっている。その話題の中心が、俺であることは言うまでもない。
俺は、そんな喧騒を避けるようにして、下層区の我が家へと急いでいた。
手には、今日の報酬として支払われた金貨と、リリのために買った、甘い蜜がたっぷりかかった焼き菓子を握りしめている。
家の扉を開けると、リリが駆け寄ってきた。
その瞳は、キラキラと輝いている。
「兄さん、お帰りなさい! すごい、すごいよ、兄さん!」
「……見てたのか?」
「うん! 中層区の広場にある、大きな魔導スクリーンで見てた! 兄さん、すっごくかっこよかった!」
リリは、興奮した様子で、俺が見せた偽りの演武を身振り手振りで再現してみせる。
その無邪気な笑顔を見ていると、俺の心の中に渦巻いていた罪悪感が、少しだけ、和らぐ気がした。
「これ、お土産だ」
俺が焼き菓子を差し出すと、リリは嬉しそうにそれを受け取った。
「ありがとう! ……でも、兄さん、怪我は? 大丈夫だった?」
「ああ、見ての通り、かすり傷一つないさ」
俺がそう言って笑うと、リリは心底、安心したように息を吐いた。
そうだ。この笑顔だ。
俺が、この地獄のような舞台に立つ理由は、全て、この笑顔のためなのだ。
そう思うと、不思議と、また力が湧いてくる気がした。
その夜、俺はリリの寝顔を見ながら、静かに拳を握りしめた。
明日も、戦おう。
この子の未来のために。
◇◇◇
翌日。エリスさんの工房で、俺は次の対戦相手のデータを見せられていた。
二回戦の相手。
それは、俺の予想を遥かに超える、最悪の相手だった。
「"影舞"のシルヴィア……?」
そこに記されていたのは、Bランクの斥候職、猫の獣人の女性だった。
写真に映る彼女は、しなやかな体つきで、腰には二本の短剣を差している。その瞳は、獲物を狙う肉食獣のように、鋭く、そしてどこか妖艶だった。
「Cランクのバルガスとは、全ての面で対極にいる相手です」
エリスさんは、淡々と分析結果を述べる。
「彼女の武器は、力ではなく、速度と技術。その俊敏さは、並の冒険者では目で追うことすらできません。バルガスのように、大振りな攻撃を誘ってカウンターを狙う、という前回の脚本は、彼女には一切通用しません」
「……じゃあ、どうするんだよ」
俺の問いに、エリスさんは、にやりと、悪役のように笑った。
「だからこそ、面白いのです。彼女のような相手を打ち破ってこそ、あなたの『伝説』はさらに輝きを増す」
彼女は、新しい設計図の束をテーブルに広げた。
そこには、俺には理解できない、無数の数式と魔法陣がびっしりと書き込まれている。
「彼女を倒すための、新しい『脚本』です。ですが、今回の脚本は、前回よりも遥かに難易度が高い。あなたの回避能力と、そして、ほんのわずかな『アドリブ』が、成功の鍵となります」
「アドリブ……?」
「ええ。全てが脚本通りにいくほど、Bランクの斥候は甘くありません。私が作り出す『舞台』の上で、あなたが、あなた自身の力で、最後のワンシーンを演じきる必要があるのです」
エリスさんの瞳は、本気だった。
彼女は、俺をただの操り人形にするつもりはない。
俺自身の、Fランクの、最弱の冒険者としての、意地と機転を、試そうとしているのだ。
俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
次の戦いは、ただの演武では終わらない。
本当の意味で、俺の力が試される、真の戦いが始まろうとしていた。




