第20話『道化の演武』
工房都市アストラル・ギアが、年に一度、最も熱く燃え上がる日が来た。
巨大な円形闘技場は、都市の全住民が押し寄せたかのような熱気と喧騒に満ちている。魔導技術の粋を集めた巨大なスクリーンには、これから始まる死闘に身を投じる選手たちの姿が映し出され、そのたびに地鳴りのような歓声が沸き起こった。
『アストラル・ギア武闘大会』。
その開会式が、今まさに始まろうとしていた。
そして、その闘技場の地下にある薄暗い選手控え室の隅で、俺は膝を抱えて自分の無力さを呪っていた。
「……うっぷ。吐きそうだ……」
周りには、俺と同じ出場選手たちがひしめき合っている。
歴戦の傷跡が刻まれた巨漢の戦士。魔力で揺らめくローブをまとった魔術師。精悍な顔つきの獣人の剣士。誰もが、俺とは別世界の住人のような、歴戦の強者のオーラを放っていた。
そんな中にぽつんと一人、使い古した革鎧を着た、貧相な黒髪の少年。それが俺だ。
「おい、見ろよ。あいつが噂のFランクだぜ」
「マジかよ。場違いにもほどがあるだろ」
「記念参加ってやつか? 一回戦で死ななきゃいいがな、ククク……」
周囲から投げかけられる、侮蔑と好奇の視線が、針のように俺の全身に突き刺さる。
心臓は早鐘のように鳴り響き、手足は氷のように冷たい。今すぐ、ここから逃げ出したかった。
『―――落ち着きなさい、アッシュさん』
その時、耳に装着したインカム型の小型魔道具から、エリスさんの冷静な声が響いた。まるで、俺の心臓の音まで聞こえているかのような、的確なタイミングだった。
『全ては脚本通りです。あなたは、役者。観客も、対戦相手も、全てがあなたの舞台装置にすぎません。深呼吸をして、私の指示だけを聞くことに集中してください』
「……脚本、か」
そうだ。俺は、俺自身の意志で戦うわけじゃない。
エリスさんという天才演出家が描いた、英雄譚の主人公を演じるだけだ。そう思うと、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
『フン。小物がいくら集まろうと、我が指先一つで塵芥よ。何を緊張する必要がある』
肩の上では、イグニールが尊大にふんぞり返っていた。その金色の瞳は、初めて見る祭りの光景に、好奇心で爛々と輝いている。こいつはこいつで、この状況を心底楽しんでいるようだった。
やがて、ファンファーレが高らかに鳴り響き、出場選手たちの名が一人、また一人と呼び上げられていく。
そして、ついに、俺の番が来た。
『第一試合! "剛腕"の異名を持つ、豪快なる破壊者! Cランク冒険者、バルガス!』
ウオオオオオオッ!という雄叫びと共に、巨大な戦斧を肩に担いだ、熊のような大男が通路へと進んでいく。観客のボルテージが一気に跳ね上がったのが、ここまで伝わってきた。
『対するは、今大会最大のミステリー! ギルド史上初、Fランクにしてこの舞台に立つ、謎の挑戦者! 所属不明、二つ名は"彗星"! アッシュ!』
「彗星」などという、気恥ずかしい二つ名で呼ばれ、俺は重い足取りで通路へと歩を進めた。
光の中へ。
俺の、処刑台とも言うべき、最初の舞台へ。
◇◇◇
灼熱の太陽が照りつける、円形の闘技場。
俺が足を踏み入れた瞬間、観客席からどっと失笑が漏れたのが分かった。
それもそのはずだ。対戦相手のバルガスが、ミスリル銀で装飾された重厚な金属鎧に身を包んでいるのに対し、俺は使い古した革鎧と、刃こぼれしたショートソード一本。誰がどう見ても、勝負にすらならない。
「おいおい、なんだあのガキは!」
「本当にFランクじゃないか! 話のタネにもなりゃしねえ!」
「さっさと終わらせろー!」
容赦ない野次が、四方八方から降り注ぐ。
バルガスは、そんな俺を鼻で笑うと、巨大な戦斧を軽々と片手で振り回した。
「ケッ! オイラの相手が、こんなヒョロガキたぁな。運のねえ野郎だ。ま、一撃で楽にしてやるから、泣くんじゃねえぞ!」
完全に、俺を舐めきっている。
だが、それこそが、エリスさんの狙いだった。
やがて、試合開始を告げる重々しいゴングが、闘技場に響き渡った。
「死ねやあああああっ!」
バルガスは、ゴングと同時に雄叫びを上げ、一直線に俺へと突進してきた。そして、大上段から、闘技場の石畳ごと俺を叩き割るかのような勢いで、戦斧を振り下ろす。
『―――右に、二歩』
インカムから、エリスさんの氷のように冷静な声が届く。
俺は、その声と、【危険感知】が示す未来予測に、全ての意識を集中させた。
―――右に、二歩。
俺が、まるで散歩でもするかのように、と、と、と二歩横にずれる。
その直後、俺がさっきまで立っていた場所で、轟音と共に石畳が砕け散った。
「なっ!?」
バルガスが、驚きに目を見開く。
観客席からも、「お?」という声がいくつか漏れた。
「ちょこまかと、うっとうしいぜ!」
バルガスは苛立ちを露わに、さらに攻撃を仕掛けてくる。横薙ぎ、突き上げ、回転斬り。力任せの、しかし一撃でも当たれば即死は免れない、嵐のような猛攻。
『次は足元への薙ぎ払い。小さく、跳びなさい』
『彼の呼吸が乱れてきました。あと三回、攻撃を誘いなさい』
『左肩が下がっている。次の攻撃は、左からの振り下ろし。半歩、後ろへ』
俺は、エリスさんの指示通りに、ただ動いた。
まるで、あらかじめ決められた振り付けを踊るように。
バルガスの戦斧が、俺の服を、髪を、何度もかすめていく。だが、決して、届かない。
その光景は、あまりに異様だった。
最初は俺を嘲笑っていた観客たちも、次第にその異様さに気づき、ざわめき始めていた。
「おい……なんだ、あれ……」
「まぐれか? まぐれにしちゃあ、続きすぎじゃねえか?」
「違う……見ろ、あいつの動きを。最小限だ。まるで、相手の攻撃が全て見えているみてえだ……!」
野次は、いつしか、困惑と、畏怖の入り混じったどよめきに変わっていた。
バルガスは、攻撃が全く当たらないことに、焦りと疲労の色を濃くしていく。その呼吸は荒く、額には脂汗が滲んでいた。
「ぜぇっ、はぁっ……! き、貴様、なぜだ! なぜ、当たらん!」
彼の動きが、さらに大振りになり、致命的な隙が生まれる。
その、瞬間。
『―――今です!』
エリスさんの、勝利を確信する声が、俺の耳に響いた。
◇◇◇
「こ、これで、終わりだああああっ!」
バルガスが、残った全ての力を振り絞り、渾身の一撃を叩きつけてきた。
闘技場の地面が大きく陥没し、凄まじい土煙が舞い上がる。
観客席の誰もが、今度こそ決着がついたと、息を呑んだ。
だが―――。
土煙が、ゆっくりと晴れていく。
そこに立っていたのは、無傷の、俺だった。
俺は、バルガスの最後の踏み込みに合わせて、その懐深くに潜り込んでいた。
そして、エリスさんに指示された通り、彼の軸足である右足の、くるぶしの少し上。鎧の隙間からわずかに覗く、急所の一点。
そこに、ショートソードの柄頭を、こつん、と軽く、しかし的確に、叩きつけていた。
「―――あ?」
バルガスが、間抜けな声を上げる。
渾身の力で突進した勢いと、体の軸を支える急所を的確に破壊された衝撃で、彼の巨大な体躯は、あっけなくバランスを失った。
「お、おお……?」
巨体は、前のめりに、まるでスローモーションのように、ゆっくりと傾いでいく。
そして、派手な音を立てて、顔面から地面に激突した。
打ちどころが悪かったのか、バルガスはピクリとも動かなくなり、やがて、大きないびきをかき始めた。
闘技場が、一瞬の、完璧な静寂に包まれた。
観客も、審判も、何が起こったのか、まるで理解できていない。
やがて、審判が恐る恐るバルガスに近づき、彼が完全に戦闘不能であることを確認すると、震える声で、勝者の名を告げた。
「しょ、勝者、アッシュ―――ッ!!」
静寂の後。
闘技場は、これまでの比ではない、爆発的な大歓声と、地鳴りのようなどよめきに包まれた。
「な、何が起きたんだ!?」
「Fランクが、"剛腕"のバルガスに勝ったぞ!」
「信じられない! 魔法も使わず、剣も振るわず、たった一撃で……!」
「あれは達人の技だ! 間違いねえ!」
「『彗星』は、本物だったんだ!」
俺は、その熱狂の渦の中心で、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
脚本通りにいった、という安堵。
そして、自分がとんでもないことをしでかしてしまった、という、途方もない実感。
全てが、現実とは思えなかった。
観客席の片隅。
聖騎士カイン・ウォルフォードが、その光景を、厳しい目で、しかし、それ以上に、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「……まぐれではない。あの動き、そして最後の的確すぎる一撃。あれは、千の修羅場を越えた者にしかできない、極致の『後の先』。だが、彼の魔力は微弱。身体能力も、並以下のはず。一体、どういうカラクリだ……? アッシュ……。お前は、やはり……」
彼の疑念は、もはや、確信に近いものへと変わりつつあった。
ギルドマスター室では、ドナ・カッツェが魔導スクリーンに映る俺の姿を見て、腹を抱えて笑っていた。
「ハッ、面白い! 面白いじゃないか、あの小僧! まさか、ここまでやるとはねぇ! 本当に、化けやがった!」
控え室へと続く通路を、俺はふらふらと歩いていた。
『完璧でした、パートナー。誤差修正の必要もない、完璧な演武です。これで『彗星のアッシュ』の伝説は、確固たるものになりました』
エリスさんの、冷静で、しかし、どこか満足げな声が、インカムから聞こえてくる。
「……心臓に悪いにも、ほどがある……」
俺は、通路の壁に寄りかかり、ずるずると座り込んだ。
だが、その顔には、疲労困憊の中にも、確かな達成感が浮かんでいた。
一回戦突破。
信じられない現実を、俺は、噛み締めていた。




