第2話『滅びの竜王と魂の契約』
―――死ぬ。
足を踏み入れた瞬間、俺の固有スキル【危険感知】が、壊れるほどの警告を脳内で絶叫していた。
それは、罠があるとか、強い魔物がいるとか、そういう次元の話じゃない。
もっと根源的で、抗いようのない、絶対的な『滅び』そのものが、この遺跡の奥で待ち構えているのだと、本能の全てが告げていた。
「……っ、はぁ、はぁ……!」
あまりの恐怖に、俺はその場に膝をつきそうになる。
冷や汗が滝のように流れ落ち、心臓が肋骨を叩き割るのではないかと思うほど激しく鼓動した。
帰れ。今すぐ引き返せ。
スキルも、理性も、そう叫んでいる。
だが―――。
『兄さん……無理、してない?』
脳裏に、リリの心配そうな顔が浮かんだ。
あの子の命の灯火は、日に日に弱くなっている。俺が稼ぐ薬代だけが、あの子をこの世に繋ぎ止めている唯一の綱だ。
金貨100枚。
それがあれば、リリは……。
「……行くしか、ないだろ……!」
俺は奥歯を噛み締め、震える足を無理やり前に進めた。
一歩、また一歩と、死の気配が満ちる闇の中へ。
リリを救えるなら、俺の命など、くれてやる。
その覚悟だけが、今の俺を支える唯一の光だった。
◇◇◇
遺跡の内部は、湿った空気とカビの匂いが充満していた。
壁からは不気味な青白い光を放つ苔が垂れ下がり、足元にはいつ崩れてもおかしくない亀裂が無数に走っている。
【危険感知】が、絶えず脳に警鐘を鳴らし続ける。
『左だ!』
『床が抜けるぞ!』
『上から何か来る!』
その微弱な警告のおかげで、かろうじて床の抜け穴や、壁から飛び出す毒矢といった原始的な罠を回避できてはいたが、精神はすり減る一方だった。
「はぁっ、はぁっ……!」
数えきれないほどの罠をくぐり抜け、時折現れる小型の魔物を辛うじて撃退し、俺は満身創痍で遺跡の中層までたどり着いていた。
持ってきたポーションはとうに尽き、鎧はひび割れ、体中が血と泥にまみれている。
その時だった。
背後の暗闇から、複数の甲高い鳴き声が響いた。
しまった、と振り返るが、もう遅い。
暗闇から現れたのは、巨大な狼型の魔物―――『グレイブ・ハウンド』の群れ。Dランク冒険者でもパーティで挑むべき相手だ。
それが、五体も。
「くそっ……!」
逃げ場はない。
俺は覚悟を決め、ショートソードを握りしめた。
一匹が、俺の喉笛めがけて飛びかかってくる。
剣で受け止めようとするが、あまりの膂力に腕がしびれ、体勢を崩される。
その隙を、他の四匹が見逃すはずもなかった。
牙が、爪が、俺の体を容赦なく引き裂いていく。
「ぐっ……あぁっ……!」
激痛が全身を走り、視界が赤く染まる。
革鎧は紙のように破られ、肉が抉れる生々しい感触。
遠のいていく意識の中で、俺はリリの顔を思い浮かべた。
(ごめんな、リリ……兄ちゃん、約束……守れそうにないや……)
せめて、お前の笑顔をもう一度、見たかった。
俺の体が、冷たい石の床に叩きつけられる。狼たちの荒い息遣いと、血の匂い。
―――死。
その二文字が、脳裏をよぎった、瞬間。
『―――小僧、死にたいか?』
頭の中に、直接声が響いた。
それは、地殻の底から響いてくるような、低く、重く、そして圧倒的な威厳に満ちた声だった。
(だれだ……?)
声の主を探そうにも、指一本動かせない。
狼たちが、とどめを刺そうと俺の首筋に牙を向けようとしていた。
『我は問うている。その命、ここで潰えることを是とするか?』
その声は、まるで死にゆく俺を嘲笑うかのようだった。
(嫌だ……!)
心の内で絶叫する。
(死にたくない……! リリを……妹を、治してやるまでは……死ねるか……ッ!)
その渇望が、最後の引き金を引いた。
『―――良かろう。その渇望、気に入った。ならば契約だ』
声が響くと同時に、俺の足元から、眩いばかりの金色の光が溢れ出した。
魔法陣だ。複雑で、荘厳な紋様が床一面に広がり、グレイブ・ハウンドたちが怯えたように後ずさる。
光の中心から、ゆっくりと何かが立ち上る。
それは、半透明の、人型の影。
しかし、その背には巨大な翼が生え、頭部にはねじれた角が天を衝いていた。
黄金に輝く瞳は、まるで溶かした金属のようだ。
影でありながら、そこにいるだけで空間そのものが歪むような、絶対的な存在感。
『我が名はイグニール。かつて、〝滅びの竜王〟と呼ばれた者だ』
竜王。
その言葉に、全身の血が凍り付いた。
〝滅びの竜王〟イグニール。
数千年前、世界を焼き、大地を引き裂き、人類を滅亡寸前まで追い込んだとされる、伝説の厄災。神話の中の存在。
なぜ、そんなものが、こんな場所に。
狼たちが、恐怖を乗り越えて一斉にその魂魄へと襲いかかった。
だが、
『―――塵芥が』
イグニールが、億劫そうに指を振るう。
それだけだった。
次の瞬間、グレイブ・ハウンドたちは声もなく、その姿を構成する粒子の一片まで残さずに、完全に「消滅」した。
魔法でも、物理攻撃でもない。
ただ、存在そのものが「無かった」ことにされたかのような、理不尽なまでの力の行使。
俺は、あまりの光景に声も出せず、ただその場に呆然と立ち尽くす。
魂魄の竜王は、ゆっくりと俺に視線を向けた。その瞳に見つめられただけで、魂が根こそぎ吸い取られるような感覚に陥る。
『小僧。お前の願いを言え。お前の魂を対価とするならば、我が力を貸し与えてやろう』
「おれの……魂……?」
『そうだ。そのひ弱な魂を我に捧げ、我が手足となって動け。さすれば、お前が望むもの―――病の妹を救う力も、世界を覆す富も、全てくれてやる』
悪魔の囁き。
だが、その声には抗いがたい魅力があった。
リリを救える。
その一言が、俺の恐怖を、迷いを、全て吹き飛ばした。
「……契約する」
俺は、絞り出すような声で答えた。
「俺の魂がお前のものになるのなら、くれてやる! だから、力を貸せ! リリを救うための力が欲しい!」
その言葉に、イグニールは満足げに口の端を吊り上げた。
『ククク……ハッハッハ! その瞳、その欲望、実に良い! 我の乗り物として、不足はない!』
イグニールが高らかに笑うと、その魂魄が金色の光の粒子となって、俺の体へと殺到した。
「ぐ、あああああああああああああああっ!」
灼熱の鉄を全身に流し込まれるような、凄まじい激痛。
体中の血管が、骨が、悲鳴を上げる。
意識が焼切れそうになる中、俺は自分の右腕に、黒い紋様が浮かび上がっていくのを見た。
それは、角と翼を持つ竜を模した、複雑で禍々しい紋様だった。
紋様が完成した瞬間、痛みが嘘のように引いていく。
同時に、今まで感じたことのない、途方もない力が全身に満ち溢れるのを感じた。世界の全てが、自分の手の内にあるかのような、全能感。
『契約は成立した、我が乗り物よ』
イグニールの声が、今度は俺自身の内側から響く。
見れば、あれほど深かった傷は全て塞がり、血の痕すら消えていた。
「これが……竜王の力……」
俺は自分の手を見つめ、呆然と呟いた。
だが、すぐに我に返る。
「そうだ、依頼……動力炉心を探さないと……」
報酬を得なければ、意味がない。
俺はふらつく足で立ち上がり、部屋の奥へと進んだ。
そこは、広大な空洞になっていた。
天井には巨大な水晶が埋め込まれ、淡い光を放っている。
そして、その中央。祭壇のような場所に、青白い光を放つ球体―――動力炉心が安置されていた。
あった!
だが、その手前で、一人の男が倒れているのが見えた。
豪奢なローブをまとった、魔術師風の男。胸には大きな風穴が空いており、すでに息はなかった。
この男が、今回の依頼主だろうか。
『フン。我を目覚めさせようとした愚か者の末路よ。我が魂を御しきれず、自滅したわ』
イグニールの声は、どこまでも冷たい。
どうやらこの男が、イグニールを復活させようとして失敗し、その魂だけがこの場に留まっていたらしい。そして、死ぬ間際に、誰かが動力炉心を回収してくれるようにと、ギルドに依頼を出したのだろう。
「……なんてことだ」
依頼主は死亡。
これでは、報酬の金貨100枚が支払われることはない。
俺の努力は、俺の覚悟は、全て水の泡になった。
絶望が、再び俺の心を黒く塗りつぶしていく。
その時だった。
『何をうろたえている、小僧』
内なるイグニールが、楽しげに言った。
『金が欲しいのだろう? ならば、くれてやる』




