第1話『最弱の覚悟と死地の依頼』
「……げほっ、げほっ……兄さん……?」
軋むベッドの上で、か細い声が俺を呼んだ。
この声を聞くたびに、俺の心はナイフで抉られるような痛みに襲われる。
「大丈夫か、リリ。水、飲むか?」
駆け寄ると、唯一の家族である妹のリリが、薄汚れた毛布から白い顔をのぞかせた。俺と同じ黒い髪は艶を失い、血の気の引いた頬は痛々しいほどに痩けている。
「ううん、大丈夫……。それより、お仕事、終わったの?」
リリは力なく首を横に振る。
その気遣いが、また俺の胸を締め付けた。
「ああ。今日のノルマはきっちりこなしてきたさ」
俺は努めて明るい声で嘘をついた。
壁に立てかけてある、刃こぼれだらけのショートソードから目を逸らしながら。
俺の名前はアッシュ。冒険者ギルド所属、ランクは万年F。
冒険者とは名ばかりで、Fランクの仕事なんてものは、下水道に湧いた魔鼠の駆除や、中層区から出た産業廃棄物の仕分けが関の山。それですら、俺はいつも生傷をこさえて帰ってくるのがやっとだった。
「兄さん……無理、してない?」
潤んだ瞳が、俺の嘘を見透かしているようで、胸がちくりと痛んだ。
「してないさ。俺は頑丈なのが取り柄だからな」
リリの頭を優しく撫でる。その手は、自分でも情けなくなるくらい、小さく震えていた。
リリは、『魔力枯渇症』という不治の病に侵されている。
体内の生命活動の源となる魔力を自ら生成することができず、日に日に命の灯火が消えかけているのだ。
病の進行をわずかに遅らせるだけの薬が、驚くほど高い。
俺の稼ぎでは、次の薬代を稼ぐのでもう精一杯だった。
『完治させる方法は、伝承の中にしか存在しません』
医者は、憐れむような目でそう言った。
『あらゆる病を癒し、死者すら蘇らせるとされる、万能の霊薬―――』
―――『竜の心臓』。
そんなお伽話に出てくるような代物、手に入れられる可能性など万に一つもない。
だが、俺は諦めるわけにはいかなかった。この世でたった一人の、俺の家族。リリの微笑みを失うことだけは、絶対に耐えられないのだから。
「今日は、ギルドで面白い話を聞いたんだ。昔、空を飛ぶ金色の魚がいたんだってさ。それを捕まえると……」
リリが穏やかな眠りに落ちるまで、他愛のない作り話を続ける。
部屋の明かりは、壁の隙間から漏れ入る中層区の魔導灯の光だけ。
その薄明りの中、リリの穏やかな寝息を聞きながら、俺は静かに、そして強く、決意を固める。
―――どんな汚い手を使っても、どんな危険な橋を渡ってでも。必ず『竜の心臓』を手に入れてみせる。
その誓いが、俺を地獄の入り口へと導くことになるなど、この時の俺はまだ知らない。
◇◇◇
翌日。冒険者ギルド中層区支部の重い扉を開けると、酒と汗の匂い、そして冒険者たちの熱気が渦を巻いて俺を出迎えた。
「よぉ、万年Fランクのアッシュじゃないか。まだ生きてたのか?」
背後から投げかけられた嘲りの声に、俺は肩をすくめる。
振り向けば、案の定、Dランクパーティ『鉄の爪』の連中が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。
「おかげさまで、な」
「どうせまたネズミ退治か? ギャハハ、お前にはお似合いの仕事だぜ!」
リーダー格の男が、俺の肩をわざと強く突く。俺はよろめきながらも、ぐっと拳を握りしめて耐えた。
ここで騒ぎを起こしても、面倒が増えるだけだ。最弱のFランクに人権はない。それがこのギルドの不文律だった。
彼らを無視して、俺は依頼掲示板へと向かう。
目当ては、日払いの、報酬が良い依頼。
だが、Fランク向けの依頼は、どれも雀の涙ほどの報酬しかない。リリの薬代には、到底足りない。
(くそっ……どうする……!)
焦燥感が、じりじりと胸を焼く。薬のストックは、あと三日分しかないのだ。
Dランク、Cランクの依頼に手を伸ばそうとしても、実績ゼロの俺を雇ってくれる酔狂なパーティなど、どこにもいなかった。
八方塞がり。
絶望に心が支配されかけた、その時だった。
掲示板の最下層、その隅に、一枚だけ古びた羊皮紙が貼られているのが目に入った。
依頼主は『個人』。ランク指定は『不問』。
そして、その内容と報酬額に、俺は息を呑んだ。
【依頼】古代魔導文明遺跡『嘆きの螺旋』の未踏区画調査
【内容】内部に存在する『動力炉心』の回収
【報酬】金貨100枚
「き、金貨……ひゃくまい……?」
思わず声が漏れた。
周囲にいた冒険者たちが、俺の視線の先に気づき、ざわめき立つ。
「おい、あの依頼書、まだ残ってたのか」
「当たり前だろ。あんなの、死にに行くようなもんだぜ」
「『嘆きの螺旋』だぞ? 高ランクパーティですら、何組も帰ってこなかったっていう死地じゃないか」
「ランク不問ってのがミソだよな。『死んでも文句言うな』ってことだ」
金貨100枚。
Fランクの依頼を1000回こなしても届かない、夢のような金額だ。
これさえあれば、リリの薬が一年分は買える。いや、もっと質の良い治療を受けさせてやれるかもしれない。上層区の名医にだって診せられる。
だが、それは己の命と引き換えの、悪魔の取引に等しかった。
どうする?
この依頼を受ければ、九分九厘、死ぬだろう。
だが、このまま何もしなければ、リリがゆっくりと死んでいくのを、ただ指をくわえて見ているだけだ。
―――どっちの地獄が、マシだ?
脳裏に、日に日に弱っていくリリの顔が浮かんだ。
あの笑顔を守れるなら、俺の命なんて、安いものだ。
―――ごぷっ。
誰かが固唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。
気づけば、俺はその依頼書を、掲示板から引き剥がしていた。
「おいおい、マジかよ……」
「Fランクのアッシュが、あの依頼を……!?」
「死ぬ気か、あいつ!」
周囲の冒険者たちが、信じられないものを見るような、あるいは愚か者を憐れむような目で俺を見ている。
俺は彼らの視線から逃れるように、受付カウンターへと、震える足で向かった。
カウンターの向こうで、一人の女性が顔を上げる。
銀色の長い髪を機能的にまとめ、理知的な光を宿す紫色の瞳が、知性の証である眼鏡の奥から俺を射抜いた。
ギルドの受付嬢、エリスさん。
「……アッシュさん。正気ですか?」
俺が差し出した依頼書を見て、彼女は柳眉をひそめた。その声には、侮蔑ではなく、純粋な懸念が滲んでいる。
「あなたの腕では、遺跡の入り口で野犬に食われるのがオチです。この依頼は、あなたには絶対に不可能だ」
「それでも、俺にはこれしかないんだ」
「……妹さんのため、ですか」
彼女は、俺の事情を知っていた。図星を突かれ、俺は言葉に詰まる。
エリスさんは、小さく、誰にも聞こえないようなため息をつくと、事務的な口調に戻った。
「……そうですか。規則上、依頼の受注を我々が拒否することはできません。ですが、忠告はしました。遺書の用意は済んでいますか?」
「縁起でもないことを言うな」
「現実です。では、ここにサインを」
差し出された契約書に、俺は自分の名前を書き込んだ。
インクが乾くのを待つ間、エリスさんが静かに告げる。
「依頼主からの伝言です。『遺跡の最深部、"竜の寝床"と呼ばれる場所で待つ』、と」
竜の寝床。
その不吉な響きだけが、やけに耳に残った。
◇◇◇
工房都市アストラル・ギアのはるか下層。
瘴気が漂う大地の裂け目に、その遺跡―――『嘆きの螺旋』は、巨大な口を開けていた。
古代の魔導文明が遺した巨大な建造物は、その名の通り、大地を穿つ螺旋を描いて地下深くへと続いている。
「…………ひっ」
入り口に立っただけで、全身の産毛が逆立った。
中から吹き付けてくる風は、カビと腐臭、そして死の匂いが混じり合って、吐き気を催させる。
俺の固有スキル【危険感知 LV.1】が、脳の中でけたたましく警鐘を鳴らし続けていた。
『行くな』
『ここはお前の来るところじゃない』
『入れば死ぬぞ』
スキルが、本能が、そう絶叫している。
だが、俺はもう、引き返せない。
リリの笑顔が、脳裏をよぎる。
「……行くしかない、だろ」
震える足に、無理やり力を込める。
ショートソードの柄を強く握りしめ、覚悟を決めて、遺跡の中へと―――一歩、足を踏み出した。
その、瞬間。
―――ピリッ!!!!
今まで感じたことのない、鋭い痛みが脳天を貫いた。
【危険感知】が、壊れてしまうのではないかと思うほどの、最大級の警告。
それは、危険を知らせる、というレベルを遥かに超えていた。
ただ一言、死を宣告する、絶対的な予言。
(―――死ぬ)
直感が、告げていた。
この先に待っているのは、ただのモンスターや罠ではない。
もっと根源的で、抗いようのない、絶対的な『滅び』そのものだと。




