第16話『凱旋と新たな布石』
岩陰に身を潜め、荒い息を繰り返す俺に、エリスさんが冷静な声で告げた。
「……上空のワイバーンの反応が消えました。渓谷の奥へ去ったようです」
その言葉に、俺の全身からどっと力が抜けた。
助かった。本当に、生き残ったんだ。
「……私の計算外の事態が発生しましたが、あなたの機転がそれを補いました。最後のソニック・グレネードの使い方は、見事でしたね。評価します、アッシュさん」
淡々とした口調。だが、エリスさんから初めて、明確な称賛の言葉を貰った。
素直に、嬉しかった。
「あんたの魔道具がなきゃ、とっくに死んでたよ。……礼を言う」
「当然です。私は、私の投資対象の価値を最大化する義務がありますから」
彼女はいつも通りのクールな表情に戻ると、立ち上がった。
「動けますか? 長居は無用です。渓谷を離脱します」
「……ああ」
俺は、まだ痛む体に鞭を打ち、ゆっくりと立ち上がった。
背嚢の中の、ワイバーンの卵がずしりと重い。だが、その重さは、確かな達成感を俺に与えてくれていた。
『フン。我が乗り物だ。あの程度の機転、当然よ』
イグニールが、どこか得意げに、俺の肩の上で胸を張った。
◇◇◇
魔導蒸気車での帰り道、俺は泥のように眠っていた。
極度の疲労と緊張から解放され、意識を保っているのがやっとだったのだ。
俺の隣で、エリスさんは水晶のパネルを操作し、今回の戦闘で得られたデータを分析していた。
時折、彼女の視線が、眠っている俺の顔に向けられる。
その紫色の瞳にどんな感情が浮かんでいたのか、今の俺には知る由もなかった。
◇◇◇
工房都市アストラル・ギアに帰還した俺たちは、その足で冒険者ギルドへと向かった。
カウンターにいた受付嬢は、満身創痍の俺の姿を見てぎょっとした顔をしたが、俺がカウンターに置いたものを見て、さらに目を見開いた。
ずしりと重い、まだら模様の卵。
そして、Bランクの依頼書。
「……い、依頼達成、確認……! Bランク依頼、『ワイバーンの卵の採取』、ソロでの達成です!」
受付嬢の裏返った声が、ギルドホールに響き渡った。
その瞬間、それまで騒がしかったホールが、水を打ったように静まりかえる。
そして、次の瞬間、爆発したかのような喧騒が渦を巻いた。
「嘘だろ!? あのFランクが、今度はBランクをソロで!?」
「Cランク達成から、まだ数日しか経ってないぞ!」
「もう奇跡じゃない……あいつは、本物だ!」
「『彗星』のアッシュ……とんでもない新人が現れたもんだ……!」
賞賛、驚愕、嫉妬。
様々な視線が、俺に突き刺さる。
だが、以前感じたような居心地の悪さだけではなかった。
偽りの中に、確かに生まれた、ほんの少しの「真実」。それが、俺に前を向かせた。
その喧騒を、ギルドの二階、ギルドマスター室の窓から、ドナ・カッツェが静かに見下ろしていた。
その口元には、楽しげな笑みが浮かんでいる。
「……ほう。本当に、化けやがったねぇ」
◇◇◇
金貨30枚。
Cランク依頼の三倍という大金は、俺の手にはあまりにも重すぎた。
俺はその金で、さらに質の良い薬を数ヶ月分と、リリのための温かい服や栄養のある食材を山ほど買った。
「兄さん、お帰りなさい! 心配したんだよ!」
家に帰ると、リリが泣きそうな顔で俺に抱きついてきた。
「ごめんな、心配かけた。でも、ほら。ちゃんと、無事に帰ってきただろ?」
「うん……うん……!」
「それに、仕事も大成功だったんだ」
俺は、今度こそ、胸を張ってそう言えた。
偽りの英雄の仮面の下に隠した、確かな誇りを胸に。
その夜、エリスさんの工房で、俺たちはささやかな祝杯をあげた(俺はジュースだったが)。
「これで、あなたの名はギルド内で確固たるものになりました。噂は、もはや伝説になりつつあります」
エリスさんは、ワイングラスを傾けながら、満足げに言った。
「計画の第一段階は、成功と言っていいでしょう」
「第一段階?」
俺が聞き返すと、エリスさんは不敵に微笑んだ。
「ええ。そろそろ、計画の第二段階へ移行します」
「第二段階って……次は、何をさせられるんだ?」
俺の問いに、エリスさんはゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がるアストラル・ギアの夜景を見つめた。
「英雄には、その名声にふさわしい『舞台』が必要です」
彼女は、何かとてつもないことを企んでいる、悪役のような顔で、言った。
「あなたに、この都市で最も注目される舞台をご用意しますよ―――パートナー」




