第15話『Fランクの意地』
崖を駆け下りる俺の背後で、ワイバーンの鋭い鉤爪が岩肌を抉る音がした。
光学迷彩ポーションの効果は、もう完全に切れている。
「クソっ……!」
俺は悪態をつきながら、ほとんど落下に近い速度で崖を滑り降りていく。
熱を帯びた岩がグローブを突き破り、手のひらの皮が焼ける匂いがした。
スキル【危険感知】が、次に足を置くべき場所、掴むべき岩のわずかな突起を、脳内で点滅させて教えてくれる。それがなければ、俺はとっくにバランスを崩し、谷底へ叩きつけられていただろう。
『GYAAAAAAAAA!』
背後から、怒り狂った咆哮が鼓膜を叩く。
振り返らなくても分かる。二匹目のワイバーンが、俺を追って巣から飛び出したのだ。
巨大な翼が風を巻き起こし、俺の小さな体を崖から引き剥がそうとする。
『もう終わりだ、小僧!潔く我が力を乞え!』
イグニールの声が、焦りと苛立ちを滲ませて響く。
そうだ、こいつの力を使えば、この状況は一瞬で終わる。
だが、俺は歯を食いしばった。
(ここで使ったら……今までの全部が、無駄になる……!)
エリスさんの作戦も、俺自身の覚悟も。
何より、イグニールの力に頼ることを、当たり前にしたくなかった。
それは、俺が俺でなくなることと同じだからだ。
「俺は……まだ、やれる!」
ワイバーンが、俺の頭上から鉤爪を振り下ろす。
【危険感知】が、死の軌道を予測した。
俺は掴んでいた岩から手を離し、体を横へ投げ出すようにして跳んだ。
鉤爪は、俺がさっきまでいた場所の岩壁を、豆腐のように砕く。
俺は別の岩の突起に指をかけ、体勢を立て直す。
だが、休む暇はない。
ワイバーンが、今度はその巨大な顎を開き、俺を丸呑みにせんと迫ってきた。
(ここまでか―――!)
死を覚悟した、その瞬間。
―――閃光。
谷底の方角から、眩い光の矢が放たれ、ワイバーンの顔面に着弾した。
『GUO!?』
それは、致命傷には程遠い。だが、目眩ましには十分だった。
ワイバーンが怯んだ、ほんの一瞬の隙。
『アッシュさん! こちらへ!』
インカムから、エリスさんの声が飛ぶ。
見れば、谷底の巨大な岩陰で、彼女が銃槍を構えているのが見えた。
さっきの光は、彼女の援護射撃だったのだ。
「エリスさん……!」
希望が見えた。
俺は最後の力を振り絞り、地面に向かって最後の跳躍をする。
数メートルを落下し、砂利の地面に受け身も取れずに転がった。
「ぐっ……!」
全身を強打し、息が詰まる。
だが、生きている。
俺は、ふらつく足で立ち上がると、エリスさんのいる岩陰に向かって走り出した。
空では、二匹のワイバーンが合流し、怒りの咆哮を上げながら俺たちを探している。
だが、入り組んだ岩場では、その巨体は思うように動けないようだった。
「……やった、のか……?」
岩陰に滑り込み、俺はその場に倒れ込んだ。
背嚢の中の、ワイバーンの卵が、ずしりと重い。
「……計算では、成功率87%。あなたは、その確率を見事に引き寄せた、というわけですね」
エリスさんは、冷静な口調でそう言うと、俺に回復ポーションを手渡してくれた。
その横顔は、いつも通りクールだったが、ほんの少しだけ、安堵の色が浮かんでいるように見えた。
俺はポーションを一気に飲み干し、荒い息を繰り返す。
全身が痛くて、指一本動かせそうにない。
だが、俺は勝ったのだ。
イグニールの力に頼らず、Fランクの俺自身の、意地と、機転と、そして仲間との連携で。
『……フン。まあ、よしとしてやろう』
イグニールの声が、どこか不満げに、でも、ほんの少しだけ、俺を認めるかのように響いた。
それは、ほんの小さな一歩だったかもしれない。
だが、俺にとって、それは紛れもなく、英雄への、大きな大きな一歩だった。




