第12話『死線上の潜入』
灼熱渓谷は、その名の通り、地獄の釜のように煮え滾っていた。
足元の岩はフライパンのように熱く、ブーツ越しに熱が伝わってくる。陽炎が視界を歪ませ、呼吸をするだけで肺が焼けるようだ。
「……ここが、作戦ポイントです」
巨大な岩の陰で、エリスさんが息を潜めて言った。
彼女の額にも、玉の汗が浮かんでいる。
ここからなら、崖の中腹にあるワイバーンの巣が、辛うじて見えた。
「これより、作戦を開始します。ソニック・グレネードの投擲後、親ワイバーンが巣を離れたのを確認次第、あなたは崖を登り、巣へ侵入してください。制限時間は、五分。それ以上は、親が戻ってくる危険性が高まります」
「……ごふん」
あまりの短さに、乾いた喉からかすれた声が漏れた。
エリスさんは、そんな俺の様子を気にも留めず、銃槍に似た投擲用の魔道具を構えた。先端には、ソニック・グレネードが装填されている。
彼女は慎重に狙いを定めると、引き金を引いた。
グレネードは、放物線を描いて、ワイバーンの巣の遥か上空へと飛んでいく。
そして、炸裂した。
―――キィィィィィィィィィィィィン!
音が、なかった。
いや、違う。人間には聞こえない、超高周波の音が、空間そのものを震わせているのだ。
頭が割れるような不快感に、俺は思わず耳を塞いだ。
直後、崖の上の巣から、凄まじい怒号が響き渡った。
『GYAAAAAAAAAAOOOOOOOOS!』
空気を震わせる咆哮と共に、巨大な影が巣から飛び立った。
翼を広げれば、家一軒分はあろうかという巨体。全身を覆う、赤黒い鱗。紛れもない、成体のワイバーンだ。
ワイバーンは、音の発生源である上空を警戒し、苛立ったように旋回しながら、巣から遠ざかっていく。
「今です、アッシュさん! 行って!」
エリスさんの声に、俺は弾かれたように岩陰から飛び出した。
崖までは、遮蔽物のない岩場を駆け抜けなければならない。
「うおおおおっ!」
心臓が、喉から飛び出しそうだった。
上空のワイバーンに見つかるな、と祈りながら、俺は全力で崖へと走る。
幸い、ワイバーンはソニック・グレネードの不快音に完全に気を取られているようだった。
崖の麓にたどり着いた俺は、すぐさま岩肌に取り付いた。
幸い、ごつごつとした岩肌は、手足をかける場所には困らない。だが、灼熱の岩は、素手で触れば火傷するほどの熱を持っている。グローブをはめていても、じりじりと熱が伝わってきた。
「くそっ……熱い……!」
俺は歯を食いしばり、ひたすら上を目指す。
スキル【危険感知】が、脆くて崩れやすい岩や、足を滑らせやすい場所を教えてくれる。それがなければ、とっくに俺は落下していただろう。
『遅い! その亀のような速度では、日が暮れてしまうぞ!』
「黙ってろ! こっちは命がけなんだよ!」
イグニールの野次を背中に受けながら、俺は必死に腕を動かした。
数分が、永遠のように感じられる。
やがて、俺の目の前に、巨大な洞穴の入り口が見えてきた。
―――ワイバーンの巣だ。
中からは、獣の糞尿と、硫黄が混じったような、強烈な悪臭が漂ってくる。
俺は慎重に巣の中へと足を踏み入れた。
巣の内部は、思ったよりも広かった。
地面には、動物の骨や、消化しきれなかった獲物の残骸が散らばっている。
そして、その中央。
枯れ草や木の枝で組まれた、巨大な寝床のような場所に、それはあった。
赤ん坊の頭ほどもある、まだら模様の卵。
それが、三つ。
「……あった」
俺は、慎重に卵に近づいた。
目的は、一つでいい。俺は一番手前にあった卵に、そっと手を伸ばした。
卵は、ほんのりと温かい。命の温もりを感じて、俺の心に一瞬、罪悪感がよぎる。
(……ごめんな)
俺は心の中で謝罪すると、卵を慎重に持ち上げ、衝撃を吸収する特殊な素材で作られた背嚢へと収めた。
―――任務、完了。
あとは、ここから無事に脱出するだけだ。
俺が、安堵の息をつきかけた、その時だった。
【危険感知】が、今までにないほどの、絶叫に近い警告を脳内で発した。
『―――逃げろ! 後ろだ! 死ぬぞ!』
振り返るよりも早く、俺は反射的に横へ転がっていた。
直後、俺がさっきまで立っていた場所を、巨大な鉤爪が薙ぎ払った。
ゴウッ、と風を切る音。
そして、地の底から響くような、低い唸り声。
「な……!」
俺は、信じられない光景に、目を疑った。
巣の奥の暗闇から、ぬっと現れた、もう一体のワイバーン。
最初に飛び立っていった個体よりも、一回り大きい。おそらく、番の片割れだろう。
―――巣には、もう一匹、残っていたのだ。
エリスさんの計算では、成功率87%。
どうやら俺は、残りの最悪な13%を、見事に引き当ててしまったらしい。




