2階(2)
————冷たい。
気付いた時には口の中に、何か液体が注がれていた。
「ッ……」
吐き出そうとしたその瞬間。
ユウリは虚ろな目で俺のアゴをぐっと抑えつけた。
「ウッ」
抑えつけられた衝撃で、液体が喉の奥へと滑り込んでいく。
————不快な、甘い香りが広がる。
抑えつけられた手が離れる。
「ユウリ……一体、何を」
ドクン————、と途端、心臓が跳ねた。
視界がグラグラしたかと思うと、その景色は歪んでいく。
左足に————いや、右足にも力が入らない。
天井だと思っていたものが、今は————。
————自分がどこにいるのか、平衡感覚を失っていく。
「……ぁ」
ドサッと音がして、自身の身体が地面に打ち付けられた。
どうやら倒れた。
その程度の認識に陥るほどには、右も左も、上も下も、わからなくなっていた。
「ルイ……おねがい」
頭上で声がした。
「……!」
次に視界に飛び込んできたのは————巨大な緑の物体だった。
視界一面が緑に閉ざされたかと思った、その瞬間。
俺は宙を飛んでいた。
凄まじい衝撃————が背中に走った。
「……ガハッ」
全身に強い刺激が伝わり、気づけばまた地面に突っ伏した。
どうやら城の壁に背中を強く打ち付けたようだ。
「……ッ」
————やっとの思いで、目を開ける。
随分、距離の離れた遠くにユウリの姿。そして隣には巨大化したルイがいた。
吹っ飛ばされた原因は、おそらくルイの尻尾といった所だろうか。
————ユウリは、本気だ。
それから、ユウリはこちらに少しずつ歩み始める。
視界は歪んで見えるが、それでもユウリの瞳は俺を捉えていないかのように見えた。
その感覚に、俺は一抹の恐怖を覚える。
————しかし、ここでユウリに負けるわけにいかない。
俺はなんとか両手に力を籠めると身体をくねらせて全身を起こした。
「……まだ、動けるの?」
————視界の右端に緑が映る。
「……ッ!」
俺は右腕を必死の思いで挙げる。
ガッとその腕に衝撃が走る。
————しかし、力の籠め方が足りなかった。
ルイの尻尾を受け止めきれずに俺は————2度目の宙を舞った。
もう一度、背中を叩きつけられる。
「ウッ……」
俺は地面に突っ伏した。
視界が闇に染まる。
2度の衝撃で顔を上げられない。
コツ、コツ、と地面を踏む小さな足音が、次第に大きくなって聞こえてくる。
そして、ピタリと音が止んだ。
「……おにぃは、最後のつもりだったのに」
俺の左手首がゆっくりと持ち上げられた。
「……!」
しかし、すぐに俺の左腕は地面にドサリと叩き落とされた。
「おにぃ……石は……?」
そう、俺の左腕に石はない。
俺は必死の思いでなんとか顔を上げると、ユウリの顔は強張っていた。
どうやら今、その事実を知ったようだった。
「……ギルバートに……盗られた」
そう告げると、ユウリは一度驚いた顔を見せたが、そのまましばらく虚空を眺めていた。
それから、やがてくるりと俺に背中を向けた。
————歩き出してしまう。
「……待って、くれ」
俺は這いつくばる姿勢で————ユウリの右足を、掴んだ。
だが————その手に、力が入らない。
「……離して」
するとユウリは、思いっきり右足を振り上げる。
その衝撃で、俺の掴んだ手はいとも簡単に引き剥がされてしまう。
そして今度は後ろを振り返ることなく、歩き出してしまう。
————ユウリが、ギルバートの元へと行ってしまう。
今の俺の状態じゃユウリを止められない。
全身に力が入らない。
(……こう、するしかない)
俺はありったけの力を両足に込めると、全身を何とか起こした。
そして、もつれる足でユウリの背中を追うと、そのまま————。
ユウリを潰すように、前のめりに一緒に倒れた。
俺はユウリを敷くように覆いかぶさった状態となった。
「……!」
ユウリは俺の下でもぞもぞ、と全身を動かす。
しかし予想通り、その小さな身体では俺の体重を押し上げられないようだった。
「ルイ……!」
ユウリがルイを呼ぶ。俺は慌てて視界を見渡す。
————しかし、そこにいたのは、いつもの愛らしいルイの姿だった。
おそらく時間経過が過ぎたのか、巨大化が収まっていた。
ルイは主人を助けようと、傍に駆け寄ると、俺の脇腹をペチペチと尻尾で叩きはじめる。
「ユウリ……! 頼む、話を聞いてくれ」
しかし、それでもユウリは返答をせず、全身をもぞもぞと懸命に動かしている。
————俺の声は、耳にまるで届いていないようだった。
(……どうすれば)
この体制では、顔を叩くことも顔を向かい合わせることもろくにできない。
————しかし、俺がユウリの上からどけば、間違いなく逃げられるだろう。
————その時、俺にある考えが過った。
俺はユウリの右耳にふっ……と息を、小さく吹きかけた。
「ひゃぅン……!」
するとユウリはビクリと肩を震わせて、全身を硬直させた。
みるみると耳が真っ赤————になり、そして顔が染まっていく。
そして俺の下で、顔をこちらに何とか向け、キッと睨んだ。
その瞳には————先ほどにはない、光が宿っていた。
「……おにぃのバカ! きらい!! ばか!!! ……ん~!!! ……きらい!!!」
ユウリはありったけの大声で叫んだ。
しかし、直ぐに顔を地面に伏せると、途端に静かになった。
「……ユウリ?」
それから、胸の中で「……ヒック」と小さな、泣き声がした。
俺は慌てて身体をスライドさせて、ユウリの上から離れる。
————ユウリは逃げ出さなかった。
ユウリは鼻をすすり、自身の目を懸命に拭っていた。
そして、俺の傍まですりすりと寄ってくる。
それから、まるでしがみつく様に、俺の胸に————抱き着いた。
「……居なく……ヒッ……なった……ら……ヒック……ぃや……だ、ヒッ……」
俺はユウリの頭を抱き寄せると、優しく撫でた。
柔らかい感触が手のひらを滑っていく。
「……どこにもいかないよ」
その姿は先ほどとは打って変わって、年相応の、小さな子どもだった。




