第2話 壁の中のお客様
「何か食べる物はありませんか」
壁の中から、勇者が言った。
昨夜、魔王様を討った男である。
今日、俺たちが侵入経路を塞いだ男でもある。
ゴルド監督が職人たちを見た。
「食い物はあるか」
「干し肉なら」
年配のゴブリンが、腰袋から包みを出した。
壁へ近づき、石の継ぎ目を見る。
「……どこから入れる?」
「先に本人を出しましょう」
俺は手帳を開いた。
初出勤の仕事が、侵入対策から侵入者の救出に変わった。
さっき書いた『施工完了』の下に、線を一本引いた。
*
「まず、今どんな状態ですか?」
「暗いです」
「体の状態をお願いします」
「腹が減っています」
俺は顔を上げた。
監督が隣に立っていた。
「シュウ。質問を絞れ」
「立てますか?」
「はい」
「手足は動きますか?」
「動きます。肩は少し当たりますけど」
「足元に床は?」
「あります。全部ではないですが」
俺は、床あり、と書きかけた手を止めた。
「全部ではない?」
「隙間があります。さっき携帯食を落としました」
「下まで落ちたんですか?」
壁の向こうが静かになった。
少しして、声がした。
「まだ音がします」
俺は監督を見た。
監督はすでに、立入禁止の札を取り出していた。
「動かずに待て」
*
若いゴブリンが警備兵を呼びに走った。
その間に、俺は壁に手を当て、声の聞こえる位置を確かめた。
「ここから聞こえますか?」
「もう少し右です」
「ここは?」
「その辺です」
印を付けようとしたところで、襟首を引かれた。
監督だった。
「先に武装を確認する」
俺は壁から離れた。
相手は困っているが、昨日この城を襲った勇者だ。
干し肉を探している場合ではなかった。
「剣は抜いているか」
「いえ」
「抜くな」
「はい」
「こちらへ突き出すな」
「……出ますかね?」
「試すな」
俺は手帳に書いた。
――思いつきを与えない。
警備兵が二人、駆けつけてきた。
片方が壁へ耳を当てようとして、監督に止められる。
「近づくな。抜けるかもしれん」
「はっ!」
警備兵は壁から大きく離れた。
「お前、昨日ここを担当していたな」
「はっ」
「勇者を見たか」
「跳んでいるところを」
「止めなかったのか」
警備兵は、俺たちを見た。
それから、壁を見た。
「……最後の方は、少し息が上がっておられたので」
俺は手帳をめくった。
門番の研修。
内容が増えそうだった。
*
「帰りも、入ったときと同じ動きをしたんですか?」
壁に声をかける。
「はい。ただ、内側からだとうまくいかなくて」
「何が引っかかります?」
「左の靴です。後ろへ下がると、つま先が止まります」
「では、靴を脱いでみてください」
衣擦れのあと、金属が石をこする音がした。
「脱げました」
「ゆっくり下がれますか?」
ごそ、と壁の中で何かが動いた。
「下がれます」
「どれくらい?」
「三歩ほど」
俺は監督を見た。
監督もうなずいた。
「その靴、普通の靴ですか?」
「少し速く走れます」
「少し?」
「普通の人の三倍くらい」
「それを履いて、狭い場所で後ろ歩きを?」
「行きはうまくいったので」
ゲームでも、移動速度の変化で地形をすり抜けることがある。
画面の中なら、場所と手順を記録して報告する。
今は中の人間が、食事を要求している。
監督が静かに言った。
「履物も預かる」
「裸足で帰るんですか?」
「帰れたらの話だ」
壁の向こうで、何かを置く音がした。
*
声の位置を追っていくと、年配のゴブリンが壁の一角で手を止めた。
工具で叩く。
隣の石と、音が違った。
「昔の受け渡し窓だ。ここだけ塞いである」
「開けられますか?」
「支えを入れればな」
職人たちが木材を運び、監督が位置を確かめた。
俺は離れた場所から勇者に声をかける。
「石の粉が落ちます。顔を伏せてください」
「はい」
「剣は抜かないでください」
「分かっています」
「靴も履かないでください」
少し間があった。
「……はい」
俺は手帳に、注意は具体的に、と書いた。
石が一つ外れた。
穴の向こうで、男がまぶしそうに目を細めた。
金色の髪は埃まみれ。白い鎧には、灰色の筋が何本も付いている。
思っていたより若かった。
その肩を見て、俺はしゃがんだ。
肩当ての端が、首元に食い込んでいた。
「痛くないんですか?」
「結構」
「いつから?」
「入るときから」
「言ってくださいよ」
「靴を履かないように言われたので、そちらを先に」
俺は手帳を閉じた。
聞く順番も、考えなければならなかった。
「監督。肩の防具も外せますか」
「ああ。まず剣を寄越せ」
勇者が剣を差し出す。
監督は受け取ると、すぐに警備兵へ渡した。
続いて靴と荷物を預かり、肩当ての留め具を外す。
勇者が、ようやく首を伸ばした。
職人たちが開口部を広げ、俺は外へ誘導する。
「ゆっくり。右肩からお願いします」
男が穴から這い出し、両手を石畳についた。
背中が大きく上下する。
しばらくして、深い息が吐き出された。
「……ありがとうございます」
ゴルド監督は、その体が壁から離れたことを確かめた。
「立てるか」
「はい」
「では、壁から離れろ」
勇者は素直に、もう一歩前へ出た。
*
「勇者を確保したと伺いました」
工具を片づけ始めたところで、女性の声がした。
黒い服に、整えられた襟元。
片腕には書類を抱えている。
彼女は木箱に座る勇者を見た。
警備兵が預かる剣。
並べられた靴。
外された肩当て。
順に確かめ、書類を一枚めくる。
「御本人で間違いありませんか?」
「昨夜、魔王を討伐しました」
「確認が取れました」
確認方法が自己申告だった。
「魔王様直属の秘書、リゼと申します」
俺も慌てて頭を下げた。
「今日から勤務しています、シュウです」
「救出対応、ありがとうございました」
その言葉で、少し肩の力が抜けた。
リゼさんは勇者へ向き直る。
「今後、許可のない場所への立ち入りはお控えください」
「はい」
「移動には、扉をお使いください」
勇者が顔を上げた。
「全部ですか?」
リゼさんは一度、ゆっくり瞬きをした。
「全部です」
俺は手帳を開いた。
大事なことなので、記録しておいた。
*
ノルさんが、予備の作業靴を持ってきた。
「これなら履けるだろ」
「ありがとうございます」
勇者が足を入れる。
少し大きいらしく、足首の紐を締め直した。
「これは、速く走れますか?」
「走ると脱げる。締めろ」
勇者はもう一度、紐を引いた。
警備兵に付き添われ、今度こそ普通に歩いていく。
その背中を見送り、俺は手帳に『救出完了』と書いた。
リゼさんが、別の用紙を差し出す。
「作業内容のご記入をお願いします」
侵入対策工事。
勇者救出。
開口部の復旧。
書くことが増えている。
俺は記入を終え、用紙をリゼさんへ返した。
*
「今日は、これで終わりですか?」
監督に尋ねる。
「ああ」
空を見上げた。
日は傾いているが、夕飯には間に合いそうだった。
「こちらは明朝の作業依頼です」
リゼさんが封筒を差し出した。
俺は受け取った。
明日の話なら、今は怖くない。
施工場所――玉座の間。
「魔王様がお戻りになる前に、安全を確保したく」
「床下からの侵入対策、ですか」
「はい。なお、現在は玉座にお座りいただけません」
「壊れているんですか?」
「いいえ」
リゼさんは、変わらない声で答えた。
「今朝から、座面に人の足が二本出ています」
俺は、連れていかれる勇者を見た。
作業靴を履いた足が二本。
ちゃんと、ある。
「……監督」
「何だ」
「勇者って、一人ですよね?」
監督は少し考えた。
「報告ではな」
俺は依頼書を裏返した。
足の持ち主については、何も書かれていなかった。




