第1話 侵入経路:尻
「魔王様が討たれた」
初出勤した俺に、現場監督が言った。
俺は支給されたばかりの作業着を見下ろした。
まだ袖を通して三十分。
退職するには、少し早い。
「……俺の採用は?」
「変わらん」
「国の方は?」
「そちらも変わらん。魔王様は明朝、お戻りになる」
監督は、工具箱の留め金を確かめた。
俺は今の説明を、頭の中でもう一度聞いた。
「討たれたんですよね?」
「ああ」
「明朝に?」
「ああ」
工具箱の留め金が、かちりと閉まった。
雇い主の生死についての説明も、それで終わった。
三日前まで、俺は日本でゲームの不具合を調べていた。
仕事中、画面の中から伸びてきた腕に引っ張られ、気づけば本物の魔王城にいた。
帰る方法は分からない。
そのうえ、日本円は使えなかった。
困っていた俺に、仕事と寝床を紹介してくれたのが、このゴルド監督だ。
灰褐色の太い腕。
額には二本の角。
背丈は俺より頭二つ分高い。
初対面では、腰まで壁に埋まっていた。
「行くぞ、シュウ」
「今日は何を?」
「勇者の侵入対策だ」
仕事の内容は分かった。
会社の存続については、まだ少し不安があった。
*
西側の外壁には、ゴブリンの職人二人と、作業帽をかぶったスケルトンが待っていた。
谷に面した、巨大な石壁だ。
下をのぞくと、川が細い紐に見えた。
「破損は」
監督の問いに、年配のゴブリンが答えた。
「なし。石も目地も無事だ」
「ここから侵入されたんですよね?」
「ああ」
監督が見取り図を広げた。
壁の角に赤い丸。
その脇に、注釈。
――尻から。
「……侵入した場所は?」
「ここだ」
太い指が赤い丸を示した。
「方法は?」
「尻だ」
俺は手帳に『西壁』と書いた。
次の欄へ進めなかった。
「正式な報告書にも、そう書くんですか」
監督は別の紙を差し出した。
『侵入方法:臀部』
言い方だけ、正式になっていた。
「門番の証言では、三百回ほど跳ねていたらしい。
そのあと壁に背を向け、腰を落として入った」
「三百回の間、何をしていたんですか。門番は」
「声をかけていた」
「何と?」
「頑張れ、と」
俺は顔を上げた。
「応援したんですか?」
「途中から数えてやったそうだ」
職場見学のとき、警備は厳重だと聞いた。
数を間違えなかった、という意味だろうか。
「俺は止めろと言ったぞ」
年配のゴブリンが口を挟んだ。
「壁が汚れる」
「侵入を心配してください」
「お前、この壁を見ろ」
分厚い石が、隙間なく積まれている。
「抜かれると思うか。尻に」
俺は壁を見た。
「……思いません」
「だろう」
納得してしまった。
研修を受ける側が、一人増えた。
*
壁際には、靴底の跡が集中していた。
その上に、柱を飾る石の出っ張り。
壁との間に狭い隙間があり、下端が腰ほどの高さで斜めに削られている。
俺はしゃがんだ。
「侵入する直前、勇者はどんな動きを?」
「腰を落として、小刻みに震えていた」
「そのあと?」
「消えた」
「監督。そこだけ聞くと、体調不良の人が亡くなった話です」
監督が、見取り図の赤い丸を指した。
場所の再確認を求めたわけではなかった。
ただ、その姿勢には覚えがある。
ゲームでは、体が地形に挟まったとき、外へ押し出す処理が働く。
それが間違った方向へ押せば、壁の向こうへ抜けることがあった。
俺は出っ張りに手を置いた。
「ここ、少し削れますか?」
「上を見ろ」
柱は、そのまま上階の張り出しを支えていた。
俺は手を離した。
「削らない方針で」
「そうしてくれ」
危なかった。
初日から、城の方を再発防止するところだった。
*
「俺、試してみようか」
骨の手が上がった。
スケルトンが、作業帽を押さえて近づいてくる。
「俺はノル。よろしくな、新人」
差し出された手を握る。
硬くて、ひんやりしていた。
「シュウです。よろしくお願いします」
手を離すと、俺の掌に指の骨が一本残った。
俺は動きを止めた。
ノルさんが、自分の手を見た。
「悪い。返してくれ」
「……俺が強く握ったせいですか?」
「いや、朝から緩かった」
返すと、彼は慣れた手つきではめ直した。
監督が腰の袋から細い紐を取り出す。
「試す前に、外れそうなところを留めろ」
「右膝は平気だ。替えたばかりだからな」
ほかは、確認してほしかった。
監督がノルさんの腰骨に帯を回す。
俺は綱の先を受け取った。
ノルさんが指や肘を順に曲げ伸ばしする。
監督はその間に、腰骨へ帯を回した。
俺は綱の先を受け取り、谷を見た。
「……外れた骨が、下に落ちたら?」
「午後は骨拾いだな」
ノルさんが答えた。
俺は綱を握り直した。
「全部付いたまま、帰っていただきます」
「頼むぞ」
*
しゃがむ。
跳ねる。
少し右を向く。
何度か試したが、壁は壁のままだった。
「もう少し腰を落とせますか」
「こうか」
「そこから、右へ」
骨盤の半分が、すっと壁に沈んだ。
「入った!」
俺は手帳を開いた。
「今の角度です! 右を向いた瞬間、腰が――」
「抜けない」
「少し待ってください。足の位置を記録します」
「脚も入ってきた」
「そのまま、そのまま」
肩をつかまれた。
顔を上げると、監督が俺を見ていた。
「先に出すぞ」
俺はノルさんを見た。
腰まで埋まっていた。
「……はい」
綱を引いた。
ノルさんは抜けた。
右脚は残った。
壁から突き出たつま先を、全員で見た。
「新品なんだが」
俺は手帳を閉じた。
ノルさんが、片脚でこちらを向いた。
「記録は取れたか」
「はい」
「じゃあ、次は脚だな」
「はい……」
初めて役に立ちそうなものを見つけて、夢中になっていた。
監督は俺から綱を受け取ると、壁を確かめた。
「気づいたことは後で聞く。今は支えろ」
「分かりました」
俺はノルさんに肩を貸した。
思ったより、重かった。
*
脚の回収を終え、隙間を埋めることにした。
傾斜のついた石を固定し、勇者が腰を落とした場所に立てなくする。
俺が図を描くと、年配のゴブリンは紙を回した。
もう一度、回した。
「どっちが上だ」
「こっちです」
「ここの波は?」
「石です」
「分かった。口で言え」
俺は説明した。
職人は石に線を引き、削り始めた。
俺が手帳に描き直そうとすると、監督が空の桶を渡した。
「石屑を頼む」
今度の仕事は、すぐに分かった。
*
取り付けが終わると、ノルさんが壁際に立った。
しゃがむ。
ひねる。
跳ねる。
入らない。
足の位置を変えても、骨盤は壁のこちら側にあった。
「どうですか?」
「尻が置けない」
「……対策できていますね」
俺は手帳に書こうとして、止まった。
監督が横からのぞいた。
「臀部だ」
「そこは覚えました」
確認を終え、ノルさんが右脚を二度踏み鳴らした。
ちゃんと付いている。
「さっきは、すみませんでした」
「次は先に引いてくれ」
「はい」
「俺が壁に入ったらな」
「入る前に止めます」
「それがいい」
監督が、工具箱を持ち上げた。
「助かったぞ、シュウ」
俺は顔を上げた。
「俺、石屑しか運んでませんけど」
「どこを塞ぐかは分かった」
壁際では、職人たちが道具を片づけていた。
俺の描いた図も、石の粉を払って返してくれた。
紙を折り、手帳に挟む。
妙な仕事だった。
それでも、一つは直せた。
「明日も別の場所を頼む」
「ほかにもあるんですか」
「ある」
数は聞かなかった。
今は温かい飯のことを考えたかった。
そのとき。
「すみません」
くぐもった声がした。
全員の手が止まった。
「今、そこを塞ぎました?」
俺は壁を見た。
職人たちも見た。
ノルさんが右脚を確かめ、それから首を振った。
「俺じゃないぞ」
それは、分かる。
「……どちら様ですか」
少し間があった。
「勇者です」
監督が工具箱を地面に戻した。
「いつからいる」
「昨夜からです。帰りも、そこを使うつもりだったんですが」
俺は塞いだ隙間を見た。
職人が、しっかり固定した石を見た。
誰も、出来栄えに文句はなかった。
「監督」
「何だ」
「残業の申請は、どちらへ」
壁の向こうで、勇者が小さく咳をした。
「あの。その前に、何か食べる物はありませんか」
俺もまだ、昼飯を食っていなかった。




