第9話 呼吸を整える場所
扉が開く十分ほど前――
次の予約客の情報を確認していた未沙は、画面に表示された名前を見た瞬間、改めて緊張感が彼女を包んだ。
「五条」
たった二文字の苗字と、見慣れた下の名前。
その文字列を見た瞬間、未沙の思考はぴたりと止まった。
「……え」
声にならない息が漏れる。
受付のタブレット端末の前で、未沙は指先をマウスに置いたまま固まっていた。
新規のお客様。
男性。
肩と首の疲れ。
そして、名前、五条。
見間違いかもしれないと思った。
同じ名字、同じ名前の別人かもしれない。
そんな偶然、いくらでもあるはずだと、自分に言い聞かせようとした。
けれど、予約時に入力された年齢を見た瞬間、未沙の胸の奥で何かが大きく揺れた。
同じだ。
「……うそ」
今度は、はっきり声が出た。
喉が急に渇く。
心臓が、嫌なくらい大きな音を立て始める。
三年前に別れた人。
ずっと忘れられなかった人。
夢のために、自分から手を離した大切な人。
その五条が、今からこの店に来る。
未沙は椅子を引く音も気にせず立ち上がった。
そのまま受付の奥にある小さなバックヤードへ駆け込む。
ドアを閉めた瞬間、ようやく誰にも見られていないことに気づいて、壁に手をついた。
「なんで……」
息が浅い。
胸が苦しい。
頭の中が一気に熱を持って、うまく考えがまとまらない。
どうして。
どうしてあの人がここにいるの。
どうして今。
どうして、こんな形で。
会いたいと思わなかったわけじゃない。
むしろ、何度も思った。
街で偶然見かけたらどうしようとか、もしどこかで再会したら何を言おうとか、そんなことを考えた夜は一度や二度じゃない。
でもそれは、あくまで遠い想像だった。
現実になるなんて、思っていなかった。
しかも、自分のサロンで。
自分が「リオン」として立っているこの場所で。
未沙は震える手で、バックヤードの小さな冷蔵庫を開けた。
ミネラルウォーターのボトルを取り出し、キャップを回す。
うまく力が入らず、一度手が滑った。
「落ち着いて……」
自分に言い聞かせるように呟いて、ようやく開いたボトルを口元へ運ぶ。
冷たい水が喉を通る。
それでも、心臓の速さは少しも変わらなかった。
五条が来る。
その事実だけで、三年間押し込めてきた感情が一気に浮かび上がってくる。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
元気にしているのか知りたかった。
ちゃんと笑えているのか、仕事は順調なのか、誰か大切な人はできたのか、聞きたいことなんていくらでもあった。
そして何より、もう一度名前を呼びたかった。
「ひかるん」
小さく口に出した瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
その呼び方を、もう三年も使っていない。
使う相手がいなかったからだ。
でも、口にしただけで、あの頃の空気が一気に蘇る。
駅前のカフェ。
並んで歩いた帰り道。
炭酸水を飲みながら笑っていた横顔。
夢の話をするとき、少しだけ困ったように、それでも嬉しそうに頷いてくれた顔。
全部、まだ消えていなかった。
未沙はボトルを握りしめたまま、目を閉じる。
今すぐ受付へ飛び出して、名前を呼びたい衝動に駆られる。
ひかるん、と。
どうしてここにいるの、と。
会いたかった、と。
でも、そんなことできるわけがなかった。
今の自分は未沙ではない。
少なくとも、この店の中では。
ここで立っているのは「リオン」だ。
落ち着いていて、隙がなくて、お客様の前で感情を乱さない施術者。
弱さも動揺も見せず、ただ静かに相手を迎える人。
その仮面を、今さら外せるはずがない。
「……だめ」
未沙は小さく首を振った。
だめだ。
今ここで未沙に戻ったら、きっと全部崩れる。
声も、表情も、呼吸も、何もかも保てなくなる。
あの人は客として来るのだ。
偶然か、誰かの紹介かは分からない。
でも少なくとも、未沙に会いに来たわけではない。
そんな相手に、自分の感情をぶつけるわけにはいかなかった。
未沙はバックヤードの鏡の前に立った。
そこに映る自分の顔は、驚くほど分かりやすく動揺していた。
目は見開かれ、頬はわずかに強張っている。
唇の色も、いつもより少し薄く見えた。
「こんなんじゃ、だめ」
もう一度呟く。
未沙は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
けれど呼吸はうまく整わない。
胸の奥がざわついて、空気が浅いところで引っかかる。
もう一口、水を飲む。
冷たさで無理やり意識を現実へ引き戻す。
大丈夫。
まだ何も始まっていない。
会ったわけじゃない。
顔を見たわけでもない。
ただ予約表に名前があっただけ。
そう思おうとしても、逆にその「まだ」が恐ろしかった。
これから会うのだ。
数分後には、扉が開いて、五条がこの店に入ってくる。
そして自分は、何も知らない顔で「いらっしゃいませ」と言わなければならない。
未沙は鏡に向かって、ゆっくり口角を上げてみた。
違う。
引きつっている。
もう一度。
少しだけ目元の力を抜いて、呼吸を整えて。
「いらっしゃいませ」
声に出してみる。
少し高い。
違う。
未沙は喉に意識を落とし、いつもの「リオン」の声を探した。
感情を一枚薄い膜で覆うような、落ち着いた低めのトーン。
「いらっしゃいませ」
今度は少し近かった。
その声を聞いた瞬間、未沙は自分の中で何かが切り替わるのを感じた。
未沙ではなく、リオンになるためのスイッチ。
何度も何度も使ってきた、あの仮面の感触。
大丈夫。
リオンならできる。
リオンなら揺れない。
リオンなら、あの人の前でも平静でいられる。
そう思い込まなければ、立っていられなかった。
未沙はメイクの乱れを指先で整えた。
前髪の流れを直し、唇に薄く色を足す。
頬に触れる手はまだ少し冷たかったが、さっきよりは震えていない。
鏡の中の女は、少しずつ「未沙」から遠ざかっていく。
代わりに現れるのは、洗練されていて、落ち着いていて、簡単には本音を見せないリオンだ。
その姿を見て、未沙はほんの少しだけ安心した。
同時に、胸の奥が痛んだ。
あの人に会えるのに。
やっと会えるのに。
本当の自分のままでは会えない。
それが、どうしようもなく苦しかった。
バックヤードの外で、小さなベルの音が鳴った。
来た。
その瞬間、未沙の心臓がまた大きく跳ねる。
足が一瞬すくみそうになる。
でも、立ち止まっている時間はない。
未沙は最後にもう一度だけ深呼吸をした。
吸って、吐いて。
胸の奥のざわめきを押し込めるように。
「……大丈夫」
それは励ましというより、祈りに近かった。
五条に会いたい未沙を、今だけ奥へ閉じ込める。
名前を呼びたい衝動も、泣きそうになる気持ちも、全部押し込める。
ここは呼吸を整える場所だ。
崩れそうな自分を、ぎりぎりで立たせるための場所。
未沙はドアノブに手をかけた。
冷たい感触が、少しだけ現実をくれる。
そして、リオンの顔で扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
そうして差し出した声の奥で、本当の未沙だけが、誰にも聞こえないほど小さく震えていた。




