第10話 知られたくない現在
「こちらへどうぞ」
リオンとして整えた声でそう告げながら、未沙は自分の足元がひどく頼りなく感じていた。
背中を向けて歩き出せば、少しは楽になるかと思った。
五条の視線を正面から受け止めずに済むだけで、胸のざわつきも落ち着くかもしれないと。
けれど実際には、数歩先を歩いているあいだじゅう、背中に彼の存在を感じてしまって、余計に呼吸が浅くなった。
いる。
本当に、後ろにいる。
三年前まで、隣にいるのが当たり前だった人が、今は客として自分の後ろを歩いている。
その現実が、未沙の心を静かにかき乱していた。
施術室の前で立ち止まり、ドアを開ける。
振り返った瞬間、五条と目が合いそうになって、未沙はほんのわずかに視線をずらした。
「こちらのお部屋になります」
「ありがとうございます」
その声を聞くだけで、胸の奥が痛む。
変わっていない。
少し低くて、やわらかくて、無理に飾らない声。
三年という時間があったはずなのに、未沙の中では一瞬であの頃に引き戻されてしまう。
けれど、引き戻されてはいけない。
未沙は着替えの案内を終えると、静かに一礼して部屋を出た。
ドアが閉まった瞬間、張りつめていた息が少しだけ漏れる。
「……だめ」
小さく呟く。
こんなふうに一言一言に揺れていたら、この時間を乗り切れない。
五条は何も知らない。
ただ予約して来店しただけだ。
そこに勝手に意味を見出して、勝手に心を乱しているのは自分だけだ。
未沙は廊下の壁に一瞬だけ手をつき、目を閉じた。
知られたくない。
その思いが、胸の奥ではっきり形を持つ。
会いたかった。
会えたことは、本当は嬉しい。
声を聞けたことも、姿を見られたことも、心のどこかでは泣きたくなるほど嬉しかった。
でも、それ以上に強く湧き上がる感情があった。
今の自分を、五条に知られたくない。
夢を叶えたはずだった。
自分のサロンを持って、お客様を笑顔にして、自分らしい空間で働く。
あの頃、五条に語っていた未来は、たしかにこの場所に形になっている。
けれど、その中身はどうだろう。
経営は苦しい。
売上は安定しない。
リピート率に悩み、経費に追われ、眠れない夜を重ねている。
笑顔の裏ではいつも数字に怯え、少しずつ心も体も削られている。
夢を叶えた、なんて胸を張って言える状態ではなかった。
むしろ、失敗しかけている。
ぎりぎりのところで、なんとか立っているだけだ。
そんな自分を、五条に見せたくなかった。
未沙はゆっくりと息を吐いた。
あの人は、あの日、自分を綺麗に送り出してくれた。
寂しさもあったはずなのに、責めることなく、「未沙ならできる」と言ってくれた。
夢を応援してくれた。
自分の選んだ道を、ちゃんと尊重してくれた。
だからこそ、その人の前でだけは無様でいたくなかった。
あの別れが間違いだったと思われたくない。
夢を選んだくせに、結局こんなふうに苦しんでいるのかと、そんな目で見られたくない。
いや、あの人はきっとそんなふうには思わない。
責めたりもしないだろう。
でも、だからこそつらいのだ。
優しい目で見られるほうが、きっともっと苦しい。
大丈夫か、と心配されるほうが、きっと耐えられない。
未沙はバックヤードの鏡に映る自分を思い出した。
作り込んだメイク。
低めの声。
隙のない立ち居振る舞い。
全部、弱い自分を隠すためのものだ。
リオンは強い。
リオンは揺らがない。
リオンは、お客様の前で崩れない。
でも未沙は違う。
未沙として五条の前に立ったら、きっと一瞬で見抜かれてしまう。
元気じゃないことも、無理をしていることも、夢の中で溺れかけていることも。
あの人は、そういう小さな変化に気づいてしまう人だった。
だから、知られたくない。
知られたくないからこそ、他人でいなければならない。
未沙はその結論にしがみつくように、背筋を伸ばした。
そうだ。
今日はただの施術だ。
自分は施術者で、あの人は新規のお客様。
それ以上でも以下でもない。
名前を呼ばない。
懐かしさを見せない。
目を見すぎない。
余計な会話をしない。
ただの他人として、この時間をやり過ごす。
それが今の自分にできる、唯一の防衛だった。
部屋の中からベルの音が鳴る。
準備ができた合図だ。
未沙は一瞬だけ目を閉じた。
胸の奥で何かがきしむ。
それでも、もう戻れない。
「失礼いたします」
ドアを開けると、五条は着替えを終えて立っていた。
視線がぶつかる。
その一瞬だけで、未沙はまた心臓を強く掴まれたような気がした。
近い。
思っていたよりずっと近い。
三年前の記憶の中にいた人が、今、手を伸ばせば届く距離にいる。
その現実にくらくらしそうになるのを、未沙は必死で押しとどめた。
「では、本日の流れをご説明いたしますね」
声は保てている。
大丈夫。
まだリオンでいられる。
未沙は施術内容を説明しながら、できるだけ一定の呼吸を意識した。
五条の表情を見すぎないようにしながら、それでも接客として不自然にならない程度には目を合わせる。
その加減が難しくて、神経がすり減る。
「特におつらい箇所は肩と首でよろしいですか?」
「はい。あと背中も少し」
「かしこまりました。お身体の状態を見ながら、全体のバランスも整えていきますね」
「お願いします」
そのやり取りは、どこから見ても普通のものだった。
施術者と客の、初対面らしい会話。
そこに過去の気配はない。
未沙が望んだ通り、他人同士の距離が保たれている。
なのに、胸は少しも楽にならなかった。
むしろ、普通であればあるほど苦しい。
五条は自分に気づいていない。
目の前にいるのが未沙だとは思っていない。
だからこそ自然に話している。
その事実が、未沙の胸に静かに刺さる。
気づいてほしい、と思う自分がいる。
でも気づかれたくない自分もいる。
矛盾した感情が胸の中でぶつかり合い、未沙は一瞬だけ言葉を失いそうになった。
だめ。
揺れるな。
未沙は爪が掌に食い込むほど、そっと指先に力を込めた。
今の自分は、五条に見せられるようなものじゃない。
夢を叶えた先で、こんなにも苦しんでいること。
理想を守ろうとして、自分をすり減らしていること。
笑顔の裏で、何度も心が折れかけていること。
そんな現在を知られたら、きっと自分は立っていられない。
あの日、あの人が送り出してくれた未沙は、もっとまっすぐで、もっと強かった。
未来に向かって目を輝かせていた。
少なくとも、こんなふうに仮面をかぶって、自分を偽りながら立つ女ではなかった。
だからこそ、見せたくない。
あの頃の自分を知っている人に、今の自分を見られるのが怖い。
「では、うつ伏せでお願いいたします」
未沙は静かにそう告げた。
五条がベッドに横になる。
その姿を見ながら、未沙は胸の奥でそっと決意を固める。
この時間が終わるまで、自分はリオンでいる。
未沙には戻らない。
何も知らない施術者として、何も知らない客を迎える。
それでいい。
それで終わらせる。
たとえ胸の奥で、会いたかった気持ちが泣いていても。
未沙はタオルを整え、そっと五条の肩に手を添えた。
触れた瞬間、指先に伝わる体温に、心がまた大きく揺れる。
懐かしい、と思ってしまった自分を、未沙は必死に押し殺した。
知られたくない。
気づかれたくない。
この無様な現在だけは、絶対に。
その思いだけを鎧のように胸に抱えながら、未沙は静かに施術を始めた。




