第11話 ただの客として
施術室の照明はやわらかく落とされていて、外の明るさとは切り離された静けさがあった。
五条は案内された通りにベッドへうつ伏せになり、顔をクッションに預けた。
清潔なタオルの匂いと、ほのかに漂うアロマの香りが鼻先をかすめる。
落ち着けるはずの空間だった。
実際、店の雰囲気も、部屋の整え方も、施術前の説明も、どれも丁寧で安心感がある。
それなのに、胸の奥に引っかかった違和感だけが、どうしても消えなかった。
何かがおかしい、というほどではない。
むしろ、何もおかしくないからこそ落ち着かないのかもしれなかった。
リオンという施術者は、接客としては申し分ない。
声のトーンも穏やかで、説明も簡潔で分かりやすい。
距離感も適切で、必要以上に踏み込まず、それでいて冷たさはない。
こういう仕事に慣れている人なのだろうと素直に思える。
なのに、ふとした瞬間にだけ、五条の記憶の奥をかすめるものがある。
立ち姿。
言葉を切る間。
視線の置き方。
何かを隠すように整えられた静けさ。
それらが断片的に、未沙の面影と重なる。
「では、失礼いたします。お身体に触れていきますね」
頭上から落ちてきた落ち着いた声に、五条は小さく「お願いします」と返した。
次の瞬間、肩にそっと手が触れる。
その手はあたたかく、けれど迷いがなかった。
最初に軽く圧をかけるように筋肉の状態を確かめ、左右差や張りを見ているのが分かる。
ただ力任せに押すのではなく、相手の身体の反応を探りながら入ってくる手つきだった。
五条は無意識に、少しだけ息を止めていた。
「少し肩まわり、張りが強いですね」
「やっぱりそうですか」
「はい。首から背中にかけてもお疲れがたまっているので、様子を見ながらゆるめていきます」
「お願いします」
会話はそれだけだった。
必要なことだけを、静かに交わす。
それ以上でも、それ以下でもない。
まるで最初からそう決められていたみたいに、二人のあいだにはきっちりと線が引かれていた。
五条は顔を伏せたまま、ゆっくり息を吐く。
ただの客として来た。
ただ施術を受けるだけだ。
そう思っていたはずなのに、身体に触れられるたび、妙に意識が冴えてしまう。
肩甲骨の際をほぐされる。
首筋に沿って圧が入る。
背中の中心から外側へ、丁寧に流していく。
技術は確かだった。
押される場所が的確で、痛みだけが先に立つこともない。
凝り固まっていた部分が少しずつほどけていく感覚に、身体は正直に反応していた。
うまいな、と五条は思う。
友人が勧めてきた理由も分かる気がした。
このサロンが評判いいというのも、たぶん本当なのだろう。
けれど、身体がほぐれていくのとは反対に、心の奥のざわつきは消えなかった。
リオンの手が肩に触れるたび、どこか懐かしい感覚がよぎる。
もちろん、そんなはずはない。
未沙に施術なんてしてもらったことはないし、手の感触だけで誰かを思い出すなんて、我ながらどうかしている。
それでも、何かが引っかかる。
「力加減、強すぎませんか」
「大丈夫です」
「もし気になるようでしたら、すぐにおっしゃってくださいね」
「はい」
その言い方が、妙に耳に残った。
丁寧で、やわらかい。
でも、どこか少しだけ距離を置いている。
親しみを見せすぎないようにしているような、そんな慎重さがある。
五条は目を閉じた。
考えすぎだ。
ただの施術者だ。
未沙に似ていると思ったのも、きっと最初の一瞬だけの錯覚だ。
自分が勝手に過去を重ねているだけ。
そう整理しようとするのに、頭のどこかでは別の感覚が静かに残り続けていた。
一方で未沙は、五条の肩に触れた瞬間から、自分の鼓動がまた速くなるのを感じていた。
だめだ、と心の中で何度も言い聞かせる。
触れたからといって、何かが変わるわけじゃない。
これは施術だ。
仕事だ。
目の前にいるのは大切な人ではなく、お客様。
そう思わなければ、指先に感情がにじみそうだった。
五条の肩は、思っていたよりずっと硬かった。
首から背中にかけて、力が抜けきらないまま固まっている。
仕事の疲れもあるのだろう。
でもそれだけじゃなく、長いあいだ無意識に張りつめてきたものが、そのまま身体に残っているようにも感じた。
未沙はその感触に胸を痛めながらも、表情ひとつ変えずに手を動かした。
押す位置。
圧の深さ。
呼吸のタイミング。
全部、いつも通りに。
リオンとして完璧でいることだけに集中する。
「少し首元、触れていきますね」
「はい」
返ってきた声が近い。
それだけで、未沙の胸はまた揺れる。
変わっていない、と思う。
声も、返事の仕方も、少しだけ間を置く癖も。
三年という時間があったのに、身体が先に覚えてしまっている。
でも、覚えていてはいけない。
未沙は呼吸を整えながら、首筋へ指を入れた。
五条がわずかに息を吐く。
その反応ひとつにまで意識が向いてしまう自分が嫌だった。
ただの客として扱う。
ただの施術者として接する。
そう決めたのは自分なのに、心だけがまるで言うことを聞かない。
部屋の中には、静かな音楽が小さく流れていた。
時計の針の音は聞こえない。
外の喧騒も届かない。
あるのは、呼吸の気配と、タオルの擦れる音と、必要最低限の会話だけ。
その静けさが、かえって二人のあいだにある緊張を際立たせていた。
五条は目を閉じたまま、ふと口を開いた。
「こういう仕事、長いんですか」
何気ない質問のようでいて、自分でも少し唐突だと思った。
沈黙が長く続くと、かえって意識してしまう気がしたのだ。
未沙の手が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
「……そうですね」
すぐに、リオンの声が返ってくる。
「この仕事自体は、ある程度長いです」
「そうなんですね」
「はい」
それ以上は続かなかった。
未沙は内心で、自分の指先が冷たくなるのを感じていた。
危ない。
今の質問だけで、心臓が跳ねた。
もっと聞かれたらどうしよう。
どこで働いていたのか。
どうしてこの店を始めたのか。
そんな話になったら、どこまでがリオンで、どこからが未沙なのか分からなくなる。
だから未沙は、それ以上会話が広がらないよう、あえて静かな流れを保った。
五条もまた、それを無理に崩そうとはしなかった。
ただ、会話が途切れたあとも、違和感だけは消えない。
この人は、何かを隠している。
そんな感覚が、五条の中で少しずつ輪郭を持ち始めていた。
もちろん、それが何なのかは分からない。
自分に関係のあることなのかどうかも分からない。
ただ、完璧に整えられた接客の奥に、ほんのわずかな緊張が潜んでいる気がするのだ。
それはたぶん、普通なら気づかない程度のものだった。
でも五条は、なぜかそこに引っかかってしまう。
「お疲れ、たまってますね」
未沙がぽつりと言った。
施術の流れの中で出る、ごく自然な一言。
それなのに、その声音には一瞬だけ、仕事以上のやわらかさが混じった気がして、五条は目を開けかけた。
けれど次の瞬間には、もういつもの落ち着いた調子に戻っている。
「ご無理が続いていたのかもしれません」
「……そうかもしれません」
五条は短く答えた。
その返事のあと、また静けさが戻る。
ただの客と施術者。
表面上は、それでしかない。
名前を呼び合うこともない。
過去に触れることもない。
懐かしさを口にすることもない。
それでも、二人のあいだには確かに何かが漂っていた。
過去を知る者同士にしか生まれない、説明のつかない緊張。
言葉にしないまま押し込められた感情。
気づいてほしい気持ちと、気づかれたくない気持ちが、同じ空間の中で静かにせめぎ合っている。
五条はベッドに身を預けたまま、ゆっくり息を吐いた。
身体は少しずつ楽になっていく。
肩の重さも、首の詰まりも、確かにほどけていく。
なのに、心だけは逆に深いところへ沈んでいくようだった。
この人は誰なんだろう、と五条は思う。
リオンという名前の、腕のいい施術者。
それで説明はつく。
つくはずなのに、それだけでは足りない気がする。
一方の未沙は、五条の背中に触れながら、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
早く終わってほしい。
でも終わってほしくない。
そんな矛盾した願いを抱えたまま、未沙は淡々と手を動かし続ける。
ただの客として。
ただの施術者として。
そうして静かに流れていく時間の中で、本当の名前だけが、二人の喉元でずっと言えないまま留まり続けていた。




