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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第1章 泡の記憶
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第12話 手の記憶

 最初は、ただの気のせいだと思っていた。


 似ている気がする。

 どこか引っかかる。

 でも、それはきっと自分の中に未沙の記憶が残りすぎているせいだと、五条は何度もそう言い聞かせていた。


 声が少し似ている気がしたのも。

 立ち姿に面影を感じたのも。

 言葉の間に懐かしさを覚えたのも。


 全部、自分が勝手に重ねているだけだと。


 けれど、リオンの手が背中に深く触れた瞬間、その言い訳は音を立てて崩れ始めた。


 肩甲骨の内側に沿って、ゆっくりと圧が入る。

 強すぎず、弱すぎず、凝り固まった場所を正確に見つけてほどいていくような力加減。

 ただ押すのではなく、相手の呼吸に合わせて沈み込み、痛みの手前で止まりながら、奥の張りだけを静かにゆるめていく。


 その感覚に、五条の胸の奥で何かが大きく揺れた。


「……っ」


 小さく息が漏れる。


「痛み、強いですか」

 すぐに落ちてきたリオンの声は、あくまで落ち着いていた。

「いえ……大丈夫です」

「無理はなさらないでくださいね」

「はい」


 返事をしながらも、五条の意識はもう別の場所へ引きずられていた。


 知っている。


 この触れ方を、知っている。


 肩に触れるとき、最初に余計な力を抜かせるように手のひら全体で包む癖。

 張っている場所に入る前、ほんの一瞬だけ呼吸を待つ間。

 押し流すのではなく、相手の身体が自分からほどけるのを待つような優しさ。


 それは技術という言葉だけでは片づけられない、もっと個人的な記憶に近かった。


 五条の脳裏に、ある夜の光景がふいに蘇る。


 まだ付き合っていた頃。

 仕事が立て込んで、帰宅したときには肩も首もがちがちに固まっていた夜。

 ソファに座ったまま動けずにいた五条を見て、未沙が「ちょっとだけ」と笑いながら後ろに回った。


 そのときも、こんなふうに肩へ手を置いた。

 いきなり強く押すのではなく、まず触れて、張り方を確かめるように。

 それから「うわ、ひどいね」と小さく笑って、でも手つきだけは驚くほどやさしく、丁寧にほぐしてくれた。


 あのときの感触が、今、背中の上で鮮やかによみがえる。


 五条は目を閉じたまま、眉をわずかに寄せた。


 そんなはずがない。

 偶然だ。

 たまたま似た触れ方の人なんて、いくらでもいる。

 家で肩を軽くほぐしてもらった記憶と、仕事としての施術を重ねるなんて、我ながらどうかしている。


 そう思おうとするのに、指先が動くたび、記憶のほうが先に反応してしまう。


 首の付け根に沿って圧が入る。

 そのあと、肩の外側へ向かってゆっくり流す。

 凝りの芯に触れるときだけ、ほんの少し深くなる。

 でも決して乱暴にはならない。


 その一連の流れが、あまりにも似ていた。


 未沙は昔から、人に触れるときだけ不思議なくらい迷いがなかった。

 普段はどこか不器用で、考えすぎて空回りすることもあったのに、誰かを労わる手つきだけは驚くほど自然だった。


 疲れているとき、何も言わなくても気づいてくれた。

 無理しているとき、言葉より先に肩へ触れてくれた。

 その手に何度救われたか分からない。


 五条の喉が、わずかに詰まる。


 忘れたつもりはなかった。

 でも、こんなふうに身体の記憶として残っているとは思わなかった。


「少し、呼吸が浅くなっていますね」


 リオンの声が静かに降ってくる。


「力が入りやすいようでしたら、ゆっくり息を吐いてみてください」

「……はい」


 その言い方にまで、胸がざわつく。


 未沙もよく同じことを言っていた。

 肩に力が入っているとき、考えごとをしているとき、五条が無意識に息を詰める癖を知っていて、「とりあえず吐いて」と笑っていた。


 もちろん、そんな言葉は施術者なら誰でも使うのかもしれない。

 それでも、タイミングが、声音が、あまりにも自然すぎた。


 五条はゆっくり息を吐いた。

 けれど、身体の力は抜けても、心のざわめきは増していくばかりだった。


 一方で未沙は、五条の呼吸が変わったことに気づきながら、内心で必死に自分を抑えていた。


 だめだ。

 意識するな。

 いつも通りに。


 そう思っているのに、手が勝手に昔の感覚をなぞってしまう。


 五条の身体は、未沙にとってあまりにも覚えがありすぎた。

 肩の張りやすい位置。

 首の詰まり方。

 背中の左側に疲れがたまりやすい癖。

 全部、昔と変わっていない。


 それに気づいた瞬間、未沙の胸は苦しいほど締めつけられた。


 三年も経っているのに。

 もう触れることなんてないと思っていたのに。

 自分の手はまだ、こんなにも彼を覚えている。


 その事実が、嬉しくて、痛かった。


 未沙は感情が指先に出ないよう、いつも以上に呼吸を整えた。

 仕事として触れる。

 ただそれだけ。

 そう言い聞かせながらも、身体はどうしても記憶に引っ張られる。


 五条が疲れているとき、どこからほぐすと楽になるか。

 どのくらいの圧なら我慢しすぎずに受けられるか。

 首に入る前に肩甲骨まわりをゆるめたほうがいいこと。

 全部、昔の自分が知っていたことだった。


 未沙は一瞬だけ、自分の手が怖くなった。


 これでは気づかれるかもしれない。

 ただ上手い施術ではなく、「知っている手」だと思われるかもしれない。


 けれど、今さら変えることもできなかった。

 不自然に手順を崩せば、それこそ違和感になる。

 だから未沙は、平静を装ったまま、ただ淡々と施術を続けるしかなかった。


 五条はベッドに顔を伏せたまま、胸の内で何度も否定と確信を行き来していた。


 違う。

 でも、似すぎている。

 偶然だ。

 でも、こんな偶然があるのか。


 背中を流れる指先が、記憶の中の未沙と重なるたび、心が大きく揺れる。


 あの頃、未沙はよく言っていた。

「疲れてると、背中で分かるんだよね」と。

 冗談みたいに笑いながら、でも本当に分かってしまう人だった。


 今、リオンの手も同じように、何も言わなくても疲れの芯を見つけてくる。


 それがただの技術なのか、それとも――。


 五条はそこまで考えて、思考を止めた。


 もし違ったらどうする。

 もし本当にただの他人だったら、自分は何を期待しているのだろう。

 未沙に似た人を見つけて、勝手に面影を重ねて、勝手に揺れているだけじゃないか。


 そんな自分が、少し滑稽で、少し情けなかった。


 けれど、それでも心は止まらない。


「……すみません」

 気づけば、五条は小さく声を出していた。


 未沙の手が止まる。

「はい」

「手つきがすごく慣れてますけど、経験長いんですか」


 できるだけ何気ない調子を装ったつもりだった。

 けれど、自分でも分かるくらい声が少し硬かった。


 未沙の胸が、どくんと大きく鳴る。


「どうしてそう思われましたか」


 問い返した声は、かろうじてリオンのままだった。


「……なんとなくです」

 五条は少し間を置いて答える。

「手つきが、すごく自然で」

「ありがとうございます」


 未沙はそれだけ言って、また静かに手を動かした。


 それ以上は聞かないで。

 それ以上は踏み込まないで。


 心の中でそう願いながら。


 五条もまた、それ以上は続けなかった。

 けれど、今の短いやり取りで、かえって疑いは深まってしまった。


 問い返し方。

 間の取り方。

 言葉を選ぶ慎重さ。


 どれもが、ただの初対面の施術者にしては、妙に心に引っかかる。


 そして何より、この手だ。


 肩から背中へ、背中から首へ。

 触れられるたび、忘れたはずの時間が身体の奥から目を覚ましていく。


 未沙の手だ、と言い切るには証拠がない。

 でも違うと言い切るには、あまりにも似すぎていた。


 五条は目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐いた。


 止まっていたはずの記憶が、ひとつずつほどけていく。

 笑った顔。

 拗ねた声。

 夢を語る横顔。

 そして、疲れた自分の肩にそっと触れてくれた手。


 忘れていなかったのではない。

 身体のどこかで、ずっと眠ったまま生きていたのだ。


 その記憶を、今、目の前の誰かが起こしている。


 静かな施術室の中で、五条の心はもう、ただの違和感では済まされないところまで揺れ始めていた。


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