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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第1章 泡の記憶
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第13話 癖の答え合わせ

 いったん気になってしまったものは、もう見ないふりができなかった。


 五条はベッドにうつ伏せのまま、できるだけ平静を装って呼吸を整えた。

 けれど、心の奥ではさっきからずっと何かがざわついている。

 ただ似ている、だけでは済まされない。

 そう思い始めた瞬間から、意識は勝手に彼女の細かな癖を追ってしまっていた。


 背中に触れる手の動き。

 タオルが肩にかかるときの、ふわりとした気配。

 必要なものを取るときの、音を立てない慎重さ。

 声をかける前に落ちる、ほんのわずかな間。


 どれも施術者として自然なものだ。

 それなのに、五条の中ではひとつひとつが妙に引っかかった。


 未沙も、こういうところがあった。


 何かを置くとき、無駄な音を立てない。

 急いでいても、最後の動きだけは不思議と丁寧になる。

 人に触れる前、相手が驚かないように一瞬だけ呼吸を置く。


 そんな細部まで覚えている自分に、五条は内心で苦く笑いたくなった。


 忘れたつもりでいたくせに。

 もう終わったことだと、ちゃんと整理したつもりでいたくせに。

 身体も記憶も、案外勝手なものだ。


 背中から肩へ流す手をいったん離す。

 そのあと、タオルの端を整える気配がした。


 ふわり、と布が広がる。


 そのわずかな空気の動きに、五条の意識が鋭くなる。


 肩に布をかける、そのささいな所作まで、なぜか懐かしい。

 いきなり雑にかぶせるのではなく、一度空気を含ませるように広げてから、身体に沿わせるように整える。

 直接見えているわけではないのに、その丁寧さだけは伝わってくる。


 寒い夜、ソファで寝落ちしかけた自分に、未沙はよく毛布をかけてくれた。

 そのときも、いきなりばさりとかけるのではなく、一度ふわりと広げてから、肩のあたりをそっと整えていた。


 そんなことまで思い出してしまう自分に、五条はますます落ち着かなくなる。


 偶然だ。

 こんなの、ただの偶然だ。


 そう言い聞かせても、胸の中では別の声が少しずつ大きくなっていく。


 本当にそうか。

 ここまで重なることがあるのか。


「少し失礼しますね」


 リオンの声がして、手が肩から離れる。

 次に、近くのワゴンへ何かを置く小さな音がした。


 こと、と控えめな音。


 五条はその音にまで神経を向けてしまう。


 未沙は昔から、物を置くときの音が小さかった。

 丁寧に扱う、というより、無意識にそうなっている感じだった。

 コップでも、鍵でも、スマートフォンでも、最後にふっと力を抜くように置く。

 だから耳障りな音がしない。


 今、オイルボトルを置いたらしいその気配も、それに似ていた。


 見えていないのに、分かってしまう気がする。

 底を乱暴に当てるのではなく、最後まで指先で支えて、静かに離したのだろうと。


 そんな想像までできてしまうことが、五条にはもう怖かった。


 考えすぎだと笑い飛ばしたいのに、ひとつひとつの気配が、記憶の中の未沙と答え合わせをするみたいに重なっていく。


 一方で未沙は、五条の沈黙がいつもと違うことに気づいていた。


 さっきから、妙に静かだ。


 もともと多くを話すタイプではなかった。

 けれど今の沈黙は、ただリラックスしている静けさではない。

 何かを考えている。

 何かを探っている。


 その気配が、背中越しに伝わってくる。


 未沙はオイルを手に取りながら、胸の奥がじわりと冷えるのを感じた。


 気づかれたのだろうか。

 いや、まだ分からない。

 でも、もし少しでも違和感を持たれているなら、これ以上は危うい。


 そう思うほどに、かえって動きがぎこちなくなりそうで怖かった。


 だめ。

 いつも通りに。

 何も知らない施術者として。


 未沙は手のひらでオイルを温め、呼吸をひとつ整えてから、再び五条の背中へ触れた。


 その一連の流れに、五条の意識がまた反応する。


 未沙は昔、ハンドクリームを塗るときも、冬に冷えた手でいきなり触れてこなかった。

「冷たいと嫌でしょ」と言って、一度手のひら同士をこすり合わせてから触れてきた。

 その気遣いが、今の動きと重なる。


 五条は目を閉じたまま、ゆっくり息を吐いた。


 だめだ。

 もう、ただの偶然では片づけきれない。


 手の感触だけじゃない。

 気配も、間も、気遣いも、少しずつ記憶と重なっていく。


 未沙は、何かを言う前にほんの少しだけ間を取る癖があった。

 言葉を選んでいるというより、相手にどう届くかを無意識に測っているような間。

 短いけれど、独特の呼吸。


 さっきからリオンの返事にも、それがある。


「……はい」

「そうですね」

「ありがとうございます」


 どれもごく普通の言葉なのに、その前に落ちるわずかな沈黙が、五条の記憶を刺激する。


 未沙だ。


 その名前が、心の奥で形になりかける。


 けれど、まだ口にはできない。

 確信に変わるには、何かが足りない。

 決定打がないまま名前を呼んでしまえば、ただ自分が過去に囚われている痛い客になるだけだ。


 五条は自分を落ち着かせるように、指先をわずかに握った。


 確かめたい。

 でも、確かめるのが怖い。


 もし違ったら、自分は何をしているのだろうと思う。

 もし合っていたら、それはそれで、どうして彼女がここにいて、どうして他人のふりをしているのかという別の痛みが待っている。


 未沙は、そんな五条の内側の揺れを知らないふりで、肩から腕へと手を流していく。


 けれど本当は、自分のほうも限界に近かった。


 五条の沈黙が長くなるたび、何かを見抜かれていく気がする。

 何も言われていないのに、少しずつ仮面の継ぎ目を指でなぞられているような心地がした。


 タオルを整える。

 ボトルを置く。

 声をかける。

 その全部が、昔の自分の癖を含んでいるかもしれないと思うと、急に自分の身体が信用できなくなる。


 変えようとして変えられるものではない。

 長い時間の中で染みついた所作は、意識したところで簡単には消えない。


 だからこそ、怖い。


 この人は今、何を思っているのだろう。

 ただ上手い施術者だと思っているだけならいい。

 でももし、少しでも未沙を重ねているのだとしたら。


 未沙の喉が、ひそかに詰まる。


「おつらいところ、もう少し深めに入っても大丈夫ですか」


 できるだけいつも通りの声で尋ねる。


「……はい、大丈夫です」


 返ってきた声は落ち着いていた。

 けれど、その落ち着きが逆に不自然だった。

 何かを抑えている声だと、未沙には分かってしまう。


 分かってしまうこと自体が、もう危うい。


 五条は答えたあと、胸の内で静かに確信を育てていた。


 手の記憶だけじゃない。

 癖だ。

 この人の癖が、未沙と重なっている。


 タオルが肩にかかるときの、ふわりとした気配。

 オイルボトルを置く控えめな音。

 言葉の前に落ちる、わずかな間。

 相手に触れる前、ほんの少しだけ呼吸を整える気配。


 どれも小さすぎて、他人に説明したら笑われるかもしれない。

 そんなことで分かるわけがないと、きっと言われる。


 でも、長く一緒にいた人間には分かってしまうことがある。


 笑い方や口癖のような分かりやすいものではなく、もっと無意識のところに残る、その人だけの癖。

 本人すら気づいていないような細部にこそ、消えない輪郭が宿る。


 今、五条はその輪郭をひとつずつ拾い集めていた。


 偶然では片づけられない。

 そう思うたびに、胸の奥で確信が少しずつ形を持ち始める。


 未沙かもしれない、ではない。


 未沙だ。


 まだ証拠はない。

 顔を正面から見たわけでもない。

 名前を聞いたわけでもない。

 本人が認めたわけでもない。


 それでも、心のどこかではもう答えが出ていた。


 この静かな施術室の中で、ただの客と施術者として流れているはずの時間は、もう表面だけのものになりつつあった。


 未沙は他人のふりをしている。

 五条は気づかないふりをしている。


 その薄い均衡の上で、二人のあいだにある過去だけが、言葉にならないまま確かに息をしていた。


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