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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第1章 泡の記憶
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第14話 首筋の奥

 確信は、いつだって唐突に訪れるものではない。


 小さな違和感が積み重なり、否定しきれない一致が増えていき、最後にはもう認めるしかなくなる。


 五条にとって今が、まさにその途中だった。


 手の記憶。

 間の取り方。

 触れる前の呼吸。

 物音を立てない所作。


 ひとつひとつは些細なことだ。


 他人に話せば、考えすぎだと笑われるかもしれない。


 けれど、長く一緒にいた人間には分かることがある。


 本人すら意識していない癖の中に、その人だけの輪郭が残ることがある。


 そして今、五条の脳裏に浮かんだのは、もっと個人的で、もっと静かな記憶だった。


 未沙の首筋の奥。


 髪が少しだけ持ち上がったときに見える、そこにある3つ並んだホクロ。


 何度も見た。

 何度も目で追った。


 抱きしめたときも、隣を歩いたときも、何気なく振り返った瞬間にも、ふと視界に入り、ミッキーマウスのように連なるそれを見るたび、なぜか胸がやわらかくなる場所だった。


 それは五条にとって、忘れようのない愛しい記憶の一部だった。


 形を説明できるほど大げさなものではない。


 けれど、未沙を未沙として記憶するには十分すぎるほど、彼の中に深く残っている。


 もしそれが、同じ場所にあるなら。


 目の前のリオンが未沙であることは、もう決定的になる。


 そこまで考えた瞬間、五条は自分の胸の内に生まれた衝動に戸惑った。


 見たい、と思ってしまった。


 確かめたい。


 この曖昧な確信に、最後の答えを与えたい。


 そうすれば、もう迷わなくて済む。


 自分が過去に囚われているだけなのか、本当に彼女なのか、はっきりする。


 けれど同時に、その考えはひどく危ういものにも思えた。


 何をしようとしているんだ、と理性が引き止める。


 たとえ相手が未沙だったとしても、今ここにいるのはリオンという施術者だ。


 自分は客で、彼女は仕事中で、その境界を越えるような視線を向けるべきではない。


 分かっている。


 分かっているのに、心は簡単に引き下がってくれなかった。


「少し、首まわり流しますね」


 リオンの声が静かに落ちてくる。


「……はい」


 返事をした自分の声が、思ったよりも低かった。


 指先が首のつけ根に触れる。


 その瞬間、五条の意識はますます首筋のあたりへ引き寄せられた。


 未沙は昔、髪を耳にかけても、少しするとまた細い毛束が首筋に落ちてきた。


 それを気にして、無意識に指で払う癖があった。


 五条はその仕草が好きだった。


 本人はただ邪魔そうにしていただけなのに、その何気なさが妙に愛しかった。


 首筋の奥にあるその3つ並んだホクロも、そんなふうにふとした拍子に見えた。


 意識して見せるものではなく、ただ日常の中で偶然視界に入るたび、五条の胸に静かな熱を残していった。


 今、その記憶が鮮やかによみがえっている。


 リオンが少し身体の位置を変える気配がした。


 衣擦れの音がして、髪が肩をかすめるような微かな気配が落ちる。


 五条は目を閉じたまま、息を詰めた。


 見えるはずもないのに、脳裏では昔の未沙の姿ばかりが浮かぶ。


 首筋にかかる髪。

 それを払う指先。

 振り向いたとき、一瞬だけのぞくやわらかな肌。

 そこにある、彼だけが知っている小さなホクロの並び。


 未沙は、そんな五条の沈黙の意味を知らないまま、いや、知らないふりをしながら手を動かしていた。


 首に触れるたび、昔の感覚が戻ってきそうになる。


 五条の呼吸の変化も、力の入り方も、少しずつ思い出してしまう。


 だからこそ、必要以上に近づきすぎないよう、未沙は自分の姿勢に気を配っていた。


 けれど、気を配えば配るほど、逆にぎこちなさが出そうで怖い。


 髪が落ちないように、いつもより少しだけ顔を伏せる。


 タオルが乱れないように、動きを小さくする。


 そんな小さな意識の積み重ねが、かえって自分の緊張を際立たせている気がした。


「強さ、大丈夫ですか」


 問いかける声は、どうにか平静を保っていた。


「……大丈夫です」


 五条の返事は短い。


 その短さに、未沙の胸がざわつく。


 何かを考えている。


 何かを抑えている。


 その気配だけが、背中越しに伝わってくる。


 五条は答えたあと、胸の奥で自分に言い聞かせていた。


 見るな。


 確かめるな。


 それは違う。


 もし本当に未沙だったとしても、そんなふうに答え合わせをするのは卑怯だ。


 自分の記憶のために、相手の境界を越えるようなことはしたくない。


 それでも、心は揺れる。


 知りたい。


 でも、知り方を間違えたくない。


 そのせめぎ合いの中で、五条はようやく気づく。


 自分が欲しいのは、ホクロの一致そのものじゃない。


 それを見て勝手に確信することでもない。


 本当に欲しいのは、彼女の口から語られる答えなのだと。


 未沙なのか。


 どうしてここにいるのか。


 なぜ名乗らないのか。


 それは、見て盗むように確かめるものではなく、向き合って受け取るべきものだ。


 そう思った瞬間、胸の奥で張りつめていたものが少しだけほどけた。


 未沙の首筋の奥にある3つ並んだホクロ。


 それは今も、五条にとって忘れようのない愛しい記憶の一部だ。


 たぶん一生、忘れない。


 けれど、その記憶を確信のための道具にしたくはなかった。


 愛しいと思った記憶だからこそ、乱暴に扱いたくない。


 五条はゆっくり息を吐く。


 その呼吸の変化に気づいたのか、リオンの手がほんの少しだけやわらかくなる。


 まるで、張りつめていたものが少しほどけたのを感じ取ったみたいに。


 その触れ方に、五条は苦く笑いたくなった。


 やっぱり、未沙だ。


 そう思う。


 でも今は、まだ言わない。


 確信はもう十分すぎるほど胸の中にある。


 手の記憶も、癖も、間も、気配も、全部がそこへ向かっている。


 だからこそ最後の一線だけは、自分の都合で踏み越えたくなかった。


 未沙は他人のふりをしている。


 五条は気づかないふりをしている。


 その均衡は、もう長くはもたないだろう。


 けれど壊すなら、ちゃんと言葉で壊したかった。


 静かな施術室の中で、首筋に残るぬくもりだけが、過去と今を細くつないでいる。


 忘れようのない愛しい記憶は、まだ胸の奥に生きていた。


 そしてその記憶があるからこそ、五条は目を閉じたまま、何も確かめないことを選ぶ。


 見れば決定的になるかもしれない。


 けれど、見ないままでも、心はもうほとんど答えを知っていた。


 だから次に必要なのは、視線ではなく言葉だ。


 五条は胸の内で静かに決める。


 この施術が終わったら、聞こう。


 逃げずに。


 ごまかさずに。


 自分の口で、彼女の名前を呼ぶために。


 その決意だけが、熱を持って、静かに心の底へ沈んでいった。

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