第15話 偶然ですね
静かな施術室の中に、どこか張りつめた空気が満ちていた。
指先が皮膚を滑るかすかな音。
衣服が擦れる気配。
そして互いの呼吸。
ひとつひとつの小さな要素が、まるで研ぎ澄まされた刃物のように空気を切っていた。
施術が終盤に差し掛かった頃、その一瞬は訪れた。
リオンが肩から首元へとタオルを当て直すため、身を少しだけかがめた。
ほんのわずかな隙間。
時間にして一秒にも満たない、一瞬の滞留。
五条の目は、閉ざされていたはずだった。
見るまいと、自分の心に強く鍵をかけていたはずだった。
ここで目を開けて確かめるような真似は、相手の踏み込まれたくない境界線を暴くことだと知っていたからだ。
けれど、首筋を撫でる髪がゆらりと揺れ、天井からの柔らかな光の角度がわずかに変わったその瞬間に、視界の端へと飛び込んできた。
見ようとして見たわけではなかった。
ただ、長年その場所を知っていた彼の網膜が、勝手にそれを捉えてしまったのだ。
白く繊細な肌の上に、ぽつんと並ぶ3つの小さな点。
大きな丸がひとつ。
その少し上へと添えられたふたつの小さな影。
かつて愛おしく指先で撫で、幾度となく視線を注いだ、あのミッキーマウスのようなホクロの並び。
呼吸が一瞬、完全に止まった。
胸の奥で、最後に残っていた迷いの欠片が音を立てて砕け散っていく。
脳裏に浮かんでは消えていたすべての違和感。
手の記憶。
間の取り方。
物音を立てない身のこなし。
そして彼女特有の呼吸の周期。
そのひとつひとつが、明確なひとつの真実として固く繋がった。
やっぱり、未沙だ。
目の前にいる施術者「リオン」は、自分が忘れたことなど一度もない、あの未沙だった。
確信が、激しい熱となって胸を固く突き上げる。
いま、この場で首を巡らせてその手をつかむこともできた。
体を起こして正面から向き合い、その瞳を凝視しながら名を呼ぶこともできた。
なぜ黙っていたのか。
どうしてここで他人のふりをしているのか。
問い詰めることもできた。
衝動は、指先にまで伝わりそうになるほど強烈だった。
けれど、五条はそうしなかった。
強引に白日の下に晒すような真似は、彼女がこの場所に築き上げた「リオン」というささやかな境界線を、足蹴にして踏みにじることになる。
他人のふりをしているのには、彼女なりの理由があるはずだった。
言えない理由。
言いたくない時間。
あるいは、まだ準備ができていない心。
愛しいと思った記憶だからこそ、乱暴に扱いたくない。
さっき胸の中で静かに誓ったその思いが、重石となって五条の体を留めていた。
見ることによって奪うのではなく、言葉によって差し出すべきだ。
相手を追い詰めるためではなく、自分はもう気づいているのだと、静かに手を差し伸べるように。
だからこそ、彼は言葉を選んだ。
正面から突きつけて暴くのではなく、そっと指先で昔の記憶に触れるように、過去を言葉に乗せる。
「……昔、大切にしていた女性がいて」
静寂の中に落とされた声は、自分でも驚くほど低く、穏やかで、けれど遮るもののない静かな重みを持っていた。
その言葉が届いた瞬間、首筋に触れていたリオンの指先が、ほんの少しだけ強張るのを五条は皮膚感覚で感じ取った。
逃げ道を残しながら、けれど嘘はつけない場所へと針を落とす。
五条は言葉を続けた。
「その人の首筋の奥にも、同じホクロがあったんです。……ミッキーマウスみたいな形をした、小さなホクロが」
言い終えた瞬間、肌に触れていた彼女の手が、完全にぴたりと止まった。
空間から、あらゆる音が綺麗に消え去ったかのような沈黙が降り立つ。
タオルの擦れる微かな音も。
衣服が動く気配も。
途絶えた。
背後で呼吸すら止めて立ち尽くしている彼女の緊張が、室内の空気の痛いほどの冷たさとなって肌に伝わってくる。
五条は目を閉じたまま、微動だにしなかった。
答えを急かすつもりはなかった。
彼女がこの言葉をどう受け止め、どう自分の中で噛み砕き、そしてどんな顔をして応じるのかを、ただ静かに待った。
流れる時間は、恐ろしいほど長く感じられた。
実際にはほんの数秒のことだったのかもしれない。
だが、互いの記憶と感情が複雑に絡み合うこの空間では、一秒一秒が永遠のように引き延ばされていく。
張りつめた空気の中で、やがて、止まっていた彼女の呼吸がふっと小さく吐き出される気配がした。
肌に触れられていた指先が、ゆっくりと、未練を残すように離れていく。
そして、頭上から静かな声が降ってきた。
「……偶然ですね」
その声は、震えてはいなかった。
取り乱してもいなかった。
けれど、今まで彼女が徹底して演じていた、あの丁寧で機械的な施術者としてのトーンでは明らかになかった。
どこか遠く。
けれど、ひどく近くから届くような、小さな、静かな音。
偶然ですね。
それは、「リオン」という施術者として踏み留まるための、彼女の最後の境界線だった。
別人を装い続け、これ以上過去に踏み込ませないようにするための、あまりにも細く、儚い拒絶。
しかし同時に、その声の低さ。
言葉を置くまでの尋常ではない間の取り方。
そして、かすかに滲む諦念の響きは――五条に見つけ出されてしまったことに対する、彼女なりの小さな白旗のようでもあった。
偶然なわけがない。
そんな形の特徴的なホクロが、同じ間合いと雰囲気を持つ別の人間にあるはずがない。
嘘だと分かっている。
お互いに、それが何の防壁にもならない嘘であることなど承知の上だった。
五条は胸の奥で、苦く、けれど愛おしさを込めて、小さく笑った。
彼女はまだ、逃げようとしている。
いや。
逃げているというよりは、崩れ落ちそうな自分を必死で繋ぎ止めるために、その「偶然」という一言に縋りついているのだ。
ここでさらに追及して、「そんなわけないだろう」と笑うことは易い。
だが、それをすれば彼女は本当に閉じこもってしまうかもしれない。
壊すのは、今ではない。
この施術室という、彼女がプロとして立っている守られた空間の中で壊すべきではないのだ。
この部屋の扉を出たあとか。
それとも、まったく別の場所か。
どちらにせよ、二人の間を頑丈に隔てていたはずの透明な壁には、もう二度と修復できないほどの大きな亀裂が入っていた。
「そうですね。……偶然かもしれない」
五条は深く息を吐き出し、静かに応じた。
あえて彼女の拙い嘘に乗っかることで、室内に漂っていた張りつめた糸を少しだけ緩めてあげる。
だが、もう互いにどれほど他人のふりを装おうとしても、言葉の裏にある真実を隠し通すことはできない。
首筋に残る微かなぬくもりと、空気の中に溶けて消えた「偶然」という言葉。
崩れ始めた境界線の向こう側に、確かに彼女が動揺しながら立っていることを全身で感じながら、五条は施術が終わるその最後の瞬間を待っていた。
タオルが整えられ、施術の終わりを告げる所作が静かに進んでいく。
この時間が終われば、もう施術者と客という安全な関係性には戻れない。
次に部屋を出て、向き合って口を開くとき、自分はどんな言葉で彼女を呼ぶべきか。
「未沙」と、その名前を呼んだとき、彼女はどんな顔をするだろう。
胸の底に沈めた静かな決意を確かめるように、五条は目を閉じたまま、ゆっくりと深い呼吸を繰り返した。




