第16話 見つけてくれてありがとうございました
サロンを出たあとも、五条の胸の内には、あの静かな施術室の空気がまだ残っていた。
夜の街はいつも通りの明るさで、人も車も絶えず行き交っているのに、自分だけがどこか別の時間の中を歩いているような感覚があった。
未沙だった。
もう疑いようはない。
手の記憶も、間の取り方も、あの「……偶然ですね」という声も、全部が彼女だった。
けれど結局、五条はあの場で何も追及しなかった。
名前を呼ぶことも。
どうして黙っていたのか問いただすことも。
なぜここにいるのかを聞くことも。
何ひとつしなかった。
それでよかったのだと、今は思う。
あの場所で無理に境界を壊していたら、きっと彼女はもっと深く閉じていた。
見つけたことを突きつけるのではなく、気づいてもなお踏み込まなかったこと。
その余白だけが、今の自分に彼女へ差し出せる唯一のやさしさだった気がした。
駅へ向かう途中、五条は何度もスマートフォンを取り出しては、またポケットに戻した。
連絡をするべきか。
しないほうがいいのか。
客として予約した以上、店を通してメッセージを送ることはできる。
けれど、それを使うことが彼女を追い詰めることにならないか、迷いがあった。
今の彼女は「リオン」としてそこにいる。
その名前で立っている時間に、過去の自分が土足で入り込んでいいのか分からなかった。
それでも、何も言わずに終わることも違う気がした。
今日の施術は、たしかに救われた。
身体の疲れだけじゃない。
ずっと胸の奥に沈んでいた、名前のつかない空白のようなものに、ようやく輪郭が戻った気がした。
だから五条は、ひとりの客としてメッセージを送ることにした。
個人的な問いは書かない。
責める言葉も、探る言葉も、何ひとつ入れない。
ただ、今日受け取ったものへの感謝だけを、できる限り静かに置いていく。
駅前の人波から少し外れた場所で立ち止まり、五条は画面を開いた。
何度か打っては消し、短く整える。
長すぎれば重くなる。
軽すぎれば嘘になる。
迷った末に、送ったのはほんの数行だった。
『本日はありがとうございました。
とても丁寧に施術していただいて、心身ともに楽になりました。
最後まで落ち着いて向き合ってくださったことにも感謝しています。
また機会があれば、お願いしたいです。』
それだけだった。
未沙の名前は書かない。
気づいたとも書かない。
「偶然ですね」に触れることもしない。
ただ、分かっているうえで何も暴かなかったことだけが、文面の行間に静かに滲むように。
送信ボタンを押したあと、五条はしばらく画面を見つめていた。
既読がつくわけでもない。
すぐに返事が来る保証もない。
それでも、不思議と胸の奥は少しだけ静かだった。
言うべきことを、言いすぎない形で置けた気がした。
一方その頃、サロンのバックヤードで制服のまま椅子に腰を下ろしていた未沙は、通知の表示を見た瞬間、息を止めた。
今日の客からのメッセージ。
差出人の名前を見なくても、誰からのものか分かってしまった。
指先が冷える。
喉の奥がひどく乾く。
見たくないのに、見ないままでもいられない。
未沙は震えそうになる指で画面を開いた。
そこに並んでいたのは、あまりにも穏やかな言葉だった。
責める言葉はない。
問い詰める言葉もない。
「未沙」という名前すら、どこにもない。
ただ、ひとりの客としての礼儀正しい感謝だけが、静かに綴られている。
そのやさしさが、未沙には何より苦しかった。
もし責められたなら、まだ耐えられたかもしれない。
どうして黙っていたのかと怒られたなら、せめて自分を守るための言い訳を並べられたかもしれない。
けれど五条は、そうしなかった。
見つけたはずなのに。
気づいたはずなのに。
それでも、彼女が今立っている場所を壊さないように、客としての距離を守ったまま感謝だけを置いていった。
その事実が、未沙の胸に張りつめていた最後の糸を、あまりにもやさしく切ってしまった。
「……ずるい」
誰に向けたのかも分からない声が、かすかに漏れる。
次の瞬間、視界が滲んだ。
慌てて息を吸おうとして、うまくできない。
喉の奥が熱くなり、目の縁から涙がこぼれ落ちる。
泣くつもりなんてなかった。
今日一日、何度も危うい瞬間はあったけれど、そのたびにどうにか持ちこたえてきた。
リオンとして笑って、リオンとして話して、最後まで別人のままでいようとしていた。
なのに、たった数行のメッセージで全部が崩れる。
スマートフォンを持つ手が震える。
涙が画面に落ちそうになって、未沙は慌てて袖で目元を押さえた。
どう返せばいいのか分からなかった。
ありがとうございます。
ご来店ありがとうございました。
またお待ちしております。
施術者として返すなら、それでいい。
それが正しい。
それが安全だ。
けれど、そんな定型文だけで返してしまったら、本当に何も伝えられない気がした。
彼は気づいていた。
たぶん、ほとんど確信していた。
それでも壊さなかった。
そのやさしさに対して、自分は何を返せるのだろう。
未沙は何度も文字を打っては消した。
『本日はご来店ありがとうございました。』
消す。
『嬉しいお言葉をありがとうございます。』
消す。
『またお会いできるのを楽しみにしております。』
そこまで打って、指が止まる。
違う、と思った。
楽しみにしているのは本当だ。
けれど、その言葉だけでは足りない。
足りないまま終わらせたくなかった。
涙で滲む視界の中、未沙は唇を噛みしめる。
言ってしまえば、もう戻れないかもしれない。
「リオン」のままでいるための最後の壁が、そこで崩れてしまうかもしれない。
それでも、何も残さないままではいられなかった。
五条がくれたのは、追及ではなく余白だった。
なら、自分もまた、その余白の中に本心をひとしずくだけ落としてもいいのではないかと思った。
未沙は深く息を吸い、震える指でゆっくりと文字を打つ。
『本日はご来店いただき、ありがとうございました。
少しでもお力になれていたなら嬉しいです。
あたたかいお言葉をいただけて、こちらこそ救われました。』
そこまで打って、また止まる。
胸の奥で、言葉にならない感情が渦を巻いていた。
怖かった。
見つかるのが。
でも、本当はずっと、見つけてほしかったのかもしれない。
忘れられていなかったことが苦しくて、どうしようもなくうれしい。
矛盾した感情が涙と一緒にあふれて、未沙は一度目を閉じた。
そして、最後の一行を打ち込む。
『見つけてくれてありがとうございました。』
打った瞬間、未沙はしばらく動けなかった。
送ってしまっていいのか分からない。
これではもう、気づいていないふりはできない。
偶然だと言い張っていた自分の最後の壁を、自分の手で壊すことになる。
けれど、その一文だけはどうしても消せなかった。
それがたぶん、いちばん本当の気持ちだったからだ。
未沙は震える指で送信ボタンを押した。
画面が切り替わる。
たったそれだけのことなのに、心臓がひどく痛んだ。
もう戻れない。
そう思うのに、不思議と後悔はなかった。
涙はまだ止まらない。
けれど、張りつめていた仮面の下で凍えていた心が、ようやく少しだけ息をし始めた気がした。
一方、電車に乗る前のホームで通知に気づいた五条は、届いた返信を見た瞬間、足を止めた。
短い文面だった。
丁寧で、控えめで、どこまでも今の彼女らしい言葉だった。
けれど最後の一行を読んだ瞬間、胸の奥に静かで深い熱が広がっていく。
『見つけてくれてありがとうございました。』
五条はしばらく、その一文を見つめたまま動かなかった。
風がホームを抜けていく。
アナウンスが遠くで響く。
人の流れが横を過ぎていく。
それでも、その一行だけが世界の中心みたいに、静かに彼の胸へ落ちていく。
見つけてよかった、と思った。
暴かなくてよかった、とも思った。
彼女はまだ全部を話せるわけじゃない。
まだ「未沙」として自分の前に立つ準備が整っているわけでもないのだろう。
けれど、それでも確かに、こちらへ手を伸ばしてくれた。
あの一文は、謝罪ではなかった。
言い訳でもなかった。
再会を受け入れた、小さくて、でも確かな返事だった。
五条は目を閉じ、ゆっくり息を吐く。
急がなくていい。
もう、見失わない。
そう思えた。
スマートフォンを胸ポケットにしまい、五条は静かに顔を上げる。
次に会うときは、きっともう少しだけ近くで話せる。
名前を呼ぶこともできるかもしれない。
その未来はまだ曖昧で、壊れやすくて、少し怖い。
けれど、確かに続いている。
見つけてくれてありがとうございました。
その一言は、未沙の本心を何よりも雄弁に物語っていた。
そして同時に、離れていた時間の向こう側から、もう一度ふたりをつなぎ直す、最初の小さな言葉でもあった。




