第17話 晴れないままの空
翌朝、目を覚まして最初に浮かんだのは、空の色ではなく、あの一文だった。
見つけてくれてありがとうございました。
短い言葉だ。
けれど、その短さの中に、どれだけの感情が折り重なっていたのかを思うと、五条は簡単に息をつくこともできなかった。
見つけてよかった。
そう思う気持ちは、たしかにある。
忘れられていなかったことがうれしかった。
彼女が完全に拒絶したわけではないことにも、救われた。
けれど同時に、その言葉を受け取ってしまったからこそ、五条は立ち止まっていた。
ここから先、自分はどこまで踏み込んでいいのだろう。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は薄く、空は明るいのに、どこか晴れきらない色をしていた。
まるで今の自分の胸の内を、そのまま映したみたいだった。
未沙は、見つけられたことを受け入れた。
少なくとも、完全には拒まなかった。
けれど、それはすぐにすべてを話したいという意味ではないはずだ。
あの「ありがとうございました」は、扉を少しだけ開けた言葉ではあっても、全部の鍵を渡した言葉ではない。
そこを履き違えたくなかった。
ベッドから起き上がり、顔を洗い、いつも通りの朝をなぞる。
歯を磨いて、シャツに袖を通して、コーヒーを淹れる。
手は動く。
身体も日常をこなしていく。
なのに、心だけがひとつの場所に取り残されたままだった。
スマートフォンを開けば、昨夜のやり取りがそこに残っている。
自分が送った、客としての感謝。
彼女が返した、丁寧で控えめな返信。
そして最後の一行。
見つけてくれてありがとうございました。
何度見ても、その言葉は重かった。
やさしくて、静かで、でも決して軽くはない。
あの一文を受け取った以上、何もなかったことにはできない。
ただの客と施術者として、次もまた何事もなかったように予約を入れて、何事もなかったように会話をして、それで済ませられるほど、もう二人の間は白紙ではなかった。
けれど、だからといってすぐに「会いたい」と送るのも違う気がした。
「話したい」と言えば、彼女を追い詰めるかもしれない。
「どうして黙っていたのか」と問えば、それはもう彼女の隠したかったものを暴くことになる。
五条はソファに腰を下ろし、スマートフォンを伏せた。
自分がしたいことなら、いくらでもある。
会って、顔を見たい。
ちゃんと名前を呼びたい。
どうしていなくなったのか、どうして今まで名乗らなかったのか、聞きたいことも山ほどある。
あの頃のことも。
離れていた時間のことも。
今の彼女が何を抱えているのかも。
知りたい。
取り戻したい。
もう一度、手の届く場所にいてほしい。
そんな願いは、少し掘ればいくらでも出てくる。
けれど、そのどれもが、今の彼女にとってやさしいとは限らない。
未沙には未沙の時間があった。
自分の知らない場所で、自分の知らない痛みや事情を抱えながら、「リオン」として立ってきた時間がある。
その時間の上に、今の彼女の尊厳があるのだとしたら、再会したからという理由だけでそこへ踏み込む権利が自分にあるとは思えなかった。
尊厳を守りたい、と思った。
それは大げさな言葉かもしれない。
けれど五条にとっては、たぶんそれがいちばん近かった。
彼女が隠したいものを、無理に暴きたくない。
彼女がまだ言葉にできないことを、こちらの都合で吐かせたくない。
彼女がようやく築いた居場所を、自分の感情で揺らしたくない。
好きだからこそ、壊したくない。
その思いと、でも何もしないままではいたくないという思いが、胸の中で静かにぶつかり続けていた。
窓の外を見る。
雲は薄く広がっているのに、雨が降るほどではない。
晴れそうで、晴れない。
明るくなりきれない空が、ひどく目に痛かった。
五条はふと、昨夜の彼女の言葉を思い返す。
ありがとうございました。
あれは終わらせるための言葉ではなかったはずだ。
もし本当に終わらせたいなら、もっと事務的に、もっと安全な返し方がいくらでもあった。
それでも彼女は、あの一文を残した。
なら、自分が返すべきなのは、答えを急かすことではないのかもしれない。
たとえば、待つこと。
たとえば、いつでも話せると伝えること。
たとえば、彼女が「リオン」でいられる場所を壊さないまま、それでも自分はここにいると示すこと。
距離を詰めることだけが誠実さじゃない。
距離を守ることもまた、ひとつの誠実さなのだと、五条はようやく思い始めていた。
ただ、その距離がどれくらいなのかが分からない。
近すぎれば傷つける。
遠すぎれば、また見失うかもしれない。
その加減が分からないまま、五条は何度もスマートフォンを手に取っては、また置いた。
短いメッセージなら送れる。
昨日のお礼への返事として、こちらこそありがとう、と返すこともできる。
無理に会おうとは言わず、ただ「また話せるときが来たら」とだけ伝えることもできる。
けれど、その一文すら、今の彼女には重いかもしれないと思うと、指が止まる。
自分のやさしさが、本当に相手のためのやさしさなのか、自信が持てなかった。
ただ不安なだけなのかもしれない。
拒まれるのが怖くて、誠実さという言葉に隠れているだけなのかもしれない。
そう思うと、なおさら軽々しく動けなかった。
五条は深く息を吐き、背もたれに身体を預けた。
会いたい。
でも、急ぎたくない。
知りたい。
でも、奪いたくない。
近づきたい。
でも、彼女が守ってきたものを壊したくない。
相反する感情が、どれも本物だった。
たぶん恋や愛情というものは、もっと単純な熱だけでは成り立たない。
相手の痛みを想像してしまうこと。
自分の望みをそのまま押しつけられないこと。
触れたいのに、触れ方を間違えたくなくて立ち尽くすこと。
そういう不器用さごと抱えてしまうものなのだろう。
未沙に対して今の自分が抱いているものが何なのか、五条はもう名前をつけなくても分かっていた。
昔の延長だけではない。
懐かしさだけでもない。
再会したことで、むしろ前よりもずっと慎重で、ずっと深い場所に沈んでしまった感情だった。
だからこそ、雑に扱えない。
昼を過ぎても、空は結局すっきりとは晴れなかった。
薄い雲が光をにごらせ、街の輪郭をやわらかく曖昧にしている。
五条は午後の仕事をこなしながらも、ふとした瞬間に彼女のことを考えていた。
今ごろ何をしているだろう。
もう泣きやんだだろうか。
昨夜の返信を、送ったことを後悔していないだろうか。
そんなことを考えるたびに、胸の奥が静かに痛んだ。
自分は、彼女に何をしてあげられるのだろう。
救う、なんて言葉は傲慢だ。
支える、というのも、彼女が望んでいないならただの押しつけになる。
できることがあるとすれば、たぶんひとつだけだ。
彼女が自分の足でこちらへ来られるように、道を塞がずにいること。
来ないという選択すら含めて、彼女の自由を奪わないこと。
それでも、もし振り向いたときにはちゃんと見える場所に、自分がいること。
それが今の自分にできる、いちばん誠実な待ち方なのかもしれなかった。
夕方、仕事を終えた五条は、帰り道の途中で立ち止まり、もう一度スマートフォンを開いた。
メッセージ画面を見つめる。
白い入力欄は静かで、こちらの言葉を待っているようにも、拒んでいるようにも見えた。
しばらく考えた末、五条は短い一文だけを打ち込んだ。
『こちらこそ、ありがとうございました。』
それだけでは足りない気もした。
でも、それ以上は今じゃないと思った。
会いたいも。
話したいも。
無理しないでほしいも。
全部、本心だ。
けれど本心だからこそ、今はまだ載せない。
その一文のあとに、さらに少し迷ってから、もう一行だけ加える。
『あなたのタイミングを大事にしたいと思っています。』
打ち終えて、五条はしばらく画面を見つめた。
重いだろうか。
伝わるだろうか。
それとも、これすら彼女には負担になるだろうか。
分からない。
分からないまま、それでも何も示さないよりはいいと信じるしかなかった。
最後に、余計な言葉を足さないまま送信する。
送ったあとも、不安は消えなかった。
むしろ少し増したかもしれない。
けれど、少なくとも自分の欲望ではなく、彼女の尊厳を守る方向へ手を伸ばそうとしたことだけは、嘘ではなかった。
空を見上げる。
夕暮れの雲はまだ残っている。
晴れたとは言えない。
けれど、雲の向こうに光があることだけは分かる。
今の二人も、きっと同じだ。
何もかもが明るくなったわけじゃない。
過去の理由も、離れていた時間も、彼女が抱えているものも、まだ何ひとつ解けていない。
それでも、完全な暗闇ではもうなかった。
見つけたこと。
見つけられたこと。
そして、その事実を互いに知ってしまったこと。
その小さな真実だけが、晴れない空の下で、かすかな光のように二人のあいだに残っている。
五条はその光を消さないように、胸の奥でそっと両手を添えるような気持ちで歩き出した。
急がない。
奪わない。
でも、見失わない。
揺れる気持ちを抱えたまま、それでも彼女の尊厳を守れる距離を探し続けること。
たぶん今の自分にできるのは、それだけだった。
晴れないままの空の下で、五条はまだ答えの出ない想いと一緒に、静かに前へ進んでいった。




