第18話 崩れた仮面の夜
営業を終えたサロンは、昼間とはまるで別の場所のように静かだった。
最後の客を見送り、片づけを終え、照明も必要な分だけを残して落とすと、店内にはやわらかな暗がりが広がる。昼のあいだは絶えず流れていた音楽も止まり、空調のかすかな作動音だけが、空間の輪郭を細くなぞっていた。
未沙はバックヤードの小さな椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。
制服のまま。
髪もまとめたまま。
スマートフォンだけを両手で握りしめて。
画面には、五条からの短い返信が残っている。
『こちらこそ、ありがとうございました。
あなたのタイミングを大事にしたいと思っています。』
たったそれだけの言葉なのに、未沙の胸には重すぎるほど深く沈んでいた。
優しい、と思った。
そして同時に、苦しいとも思った。
見つけてもらえたことは、うれしかった。
それはもう、否定しようがない。
ずっと見つからないままでいることのほうが、きっと楽だったはずなのに。
「リオン」として働いて、「未沙」だった時間には蓋をして、何事もなかったように生きていくほうが、ずっと安全だったはずなのに。
それでも、あの人に見つけられたと知った瞬間、胸のどこかがどうしようもなくほどけてしまった。
忘れられていなかった。
気づいてもらえた。
しかも、暴かれなかった。
その事実が、未沙にはあまりにもまぶしかった。
「……ほんとに、ずるい」
誰もいない空間に向かって、小さくこぼす。
責めるような響きにはならなかった。
むしろ、泣きそうな笑いに近かった。
もし五条があの場で真正面から名前を呼んでいたら。
どうして黙っていたのかと問い詰めていたら。
あるいは、見つけたことを勝ち誇るように突きつけていたら。
未沙はきっと、もっと簡単に「リオン」でいられた。
冷たく距離を取ることもできた。
客と施術者ですから、と線を引くこともできた。
過去を切り離して、自分を守るための言葉を並べることもできた。
けれど五条は、そうしなかった。
見つけたのに、壊さなかった。
気づいたのに、奪わなかった。
ただ、こちらのタイミングを大事にしたいと、静かに言ってくれた。
その優しさが、未沙の胸に張りついていた仮面の縁を、少しずつ、でも確実に浮かせていく。
リオンでい続けることは、もう前みたいにはできない。
そう思った瞬間、未沙は目を閉じた。
苦しかった。
「リオン」という名前は、未沙にとってただの偽名ではない。
ここで働くために必要だった顔であり、過去から距離を取るための壁であり、どうにか立っているための形だった。
丁寧に話すこと。
感情を出しすぎないこと。
客には踏み込ませず、でも不快にもさせないこと。
やわらかく、穏やかに、一定の距離を保つこと。
そうやって少しずつ作ってきた。
未沙では揺れてしまうから。
未沙のままでは、昔の痛みや弱さまで一緒に滲み出てしまいそうだったから。
だから「リオン」でいることを覚えた。
その仮面は、嘘でできていたわけじゃない。
たしかに自分の一部でもあった。
ここで働く自分。
誰かを癒やすために手を動かす自分。
静かに笑って、相手の疲れを受け止める自分。
それは演技であると同時に、今の未沙がやっと手に入れた生き方でもあった。
だからこそ、壊れるのが怖い。
五条に見つけられたことが怖いのではない。
見つけられたことで、「未沙」と「リオン」をきれいに分けておけなくなったことが怖いのだ。
未沙としてうれしい。
リオンとしては困る。
未沙として泣きたい。
リオンとしては平静でいなければならない。
その食い違いが、胸の中でずっと軋んでいる。
スマートフォンを握る手に、少しだけ力が入る。
あなたのタイミングを大事にしたいと思っています。
その一文を読むたび、未沙は息が詰まりそうになった。
待ってくれるのだと思う。
急かさずにいてくれるのだと思う。
それは救いだ。
でも、救いだからこそ苦しい。
待ってくれる人がいるなら、いつまでも黙ったままでいてはいけない気がしてしまう。
優しくしてもらったなら、何か返さなければいけない気がしてしまう。
けれど、何をどう返せばいいのかは分からない。
今さらどんな顔で会えばいいのだろう。
次に施術で向き合うとき、自分はまた「リオン」でいられるのだろうか。
それとも、もうどこかで崩れてしまうのだろうか。
未沙は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
白い天井は何も答えない。
静まり返った店内も、ただ静かなままだ。
昼間なら、手を動かしていれば考えずに済む。
予約の確認をして、タオルを替えて、オイルを整えて、客の呼吸に意識を向けていれば、自分のことは後回しにできる。
けれど夜は駄目だった。
仕事が終わって、誰もいなくなって、音も減ってしまうと、胸の奥に押し込めていたものが全部浮かび上がってくる。
見つけてもらえたうれしさ。
気づかれてしまった恥ずかしさ。
それでも何も壊さずにいてくれた五条の優しさ。
そして、その優しさに甘えてしまいそうになる自分への怖さ。
未沙は唇を噛み、目元を押さえた。
泣かないつもりだった。
昨日あれだけ泣いたのだから、今日はもう大丈夫だと思っていた。
少なくとも仕事が終わるまでは、ちゃんと保てていた。
なのに、ひとりになった途端、胸の奥がまた熱を持ち始める。
「……だめ」
小さく呟いても、何がだめなのか自分でも分からなかった。
泣くのがだめなのか。
うれしいと思ってしまうのがだめなのか。
まだ五条を大切に思っている自分がだめなのか。
答えは出ないまま、視界だけがじわじわと滲んでいく。
未沙はスマートフォンを胸元に引き寄せた。
あの人は、変わっていなかった。
いや、正確には変わっているのだろう。
昔よりずっと静かで、ずっと慎重で、相手の痛みに手を伸ばすときの力加減を知っている。
でも、根っこのところは変わっていない。
大事なものを、乱暴に扱わない人だ。
だから苦しい。
だから、うれしい。
もし少しでも嫌いになれていたら、こんなに揺れなかった。
もし完全に過去にできていたら、こんなふうに仮面の内側まで熱くならなかった。
けれど現実には、たった数回言葉を交わしただけで、未沙の中の時間は簡単に揺り戻されてしまった。
忘れたつもりでいた声。
忘れたつもりでいた間。
忘れたつもりでいた、自分の名前を呼ばれる未来への期待。
そんなもの、もう持ってはいけないと思っていたのに。
涙が一筋、頬を伝って落ちた。
それを合図にしたみたいに、次の涙も、その次の涙も止まらなくなる。
未沙は声を殺して泣いた。
誰もいないサロンでよかったと思う。
こんな顔、誰にも見せられない。
リオンはこんなふうに泣かない。
仕事のあいだは、いつだってもう少し上手に自分を保てていた。
でも今夜だけは無理だった。
崩れた仮面の下にいたのは、結局、未沙だった。
見つけてほしかった。
でも、見つからないままでいたかった。
会いたかった。
でも、会ってしまったらもう戻れないと思っていた。
矛盾だらけの本音が、涙と一緒にあふれていく。
どれだけ時間が経ったのか分からない。
泣き疲れて、呼吸が少しずつ落ち着いてきた頃、未沙はようやくスマートフォンの画面をもう一度見た。
短い文面は変わらずそこにある。
こちらこそ、ありがとうございました。
あなたのタイミングを大事にしたいと思っています。
その言葉は、未沙に選ばせてくれていた。
今すぐ話すのか。
まだ黙っているのか。
会うのか。
逃げるのか。
どれを選んでもいいと、たぶん彼は言っている。
少なくとも、選ぶ権利を奪わないと。
そのことが、少しだけ未沙を救った。
全部を話せるわけじゃない。
まだ整理もついていない。
自分が何をどう伝えたいのかすら、うまく言葉にならない。
けれど、選んでいいのだと思えた。
怯えたままでも。
迷ったままでも。
すぐに答えを出せなくても。
未沙は目元を拭い、ゆっくりと息を吐いた。
今夜はまだ、何も決められない。
未沙として会うのか。
リオンとして距離を保つのか。
その間のどこかに立てるのか。
何ひとつ分からない。
それでも、もう前と同じではいられないことだけは分かっていた。
見つけられてしまったから。
そして、自分もまた、そのことをうれしいと思ってしまったから。
静まり返ったサロンの中で、未沙はしばらくそのまま座っていた。
照明の落ちた鏡には、ぼんやりと自分の姿が映っている。
泣いたあとの顔はひどいものだと思うのに、不思議と目を逸らす気にはなれなかった。
あれが今の自分なのだと思った。
整えきれない感情を抱えて。
仮面を外しきれず。
でも、もう完全には被り直せないまま揺れている自分。
夜はまだ長い。
答えは出ない。
空気は静かで、胸の奥だけがうるさい。
それでも未沙は、スマートフォンをそっと胸に抱いた。
壊れたくない。
でも、もう何も感じないふりもしたくない。
そのどうしようもなく不格好な本音だけが、崩れた仮面の夜に、かすかな熱として残っていた。




