第19話 もう一度、会いたい人
数日が過ぎても、五条の胸の内に残った熱は、薄れるどころか静かに形を変えていた。
最初はただ、再会の余韻だったのだと思う。
見つけたこと。
見つけられたこと。
そして、壊さずに済んだこと。
そのひとつひとつが胸の奥に沈み、時間が経つにつれて、ただの衝動ではないものへと変わっていった。
会いたい、と思う。
その気持ちは、もう否定しようがなかった。
けれど、それは以前のような、失ったものを取り戻したいという焦りだけではなかった。
もちろん未練がないわけではない。
あの頃に置いてきた感情も、言えなかった言葉も、今さら胸の奥からいくらでも浮かんでくる。
それでも今の五条が彼女に会いたいと思う理由は、もう少し静かで、もう少し慎重なものだった。
彼女が少しでも肩の力を抜ける時間を、つくれたらいい。
そう思ったのだ。
未沙は今、「リオン」として生きている。
その名前で働き、その名前で客と向き合い、その名前の内側でどうにか自分を保っている。
そこにはきっと、自分の知らない事情がある。
言えなかった理由も。
名乗れなかった時間も。
簡単には触れられない痛みも。
だからこそ、自分の想いだけで会いに行くのは違うと思った。
会いたいから会う。
話したいから話す。
確かめたいから確かめる。
そんなふうに自分の欲求を先に置いてしまえば、また彼女を追い詰めることになるかもしれない。
五条はそれをいちばん恐れていた。
あの夜、彼女が返してくれた言葉。
見つけてくれてありがとうございました。
あの一文を、都合よく受け取りたくなかった。
受け入れられたのだと早合点して、距離を詰める免罪符みたいに使いたくなかった。
あれはたぶん、彼女が精いっぱい差し出してくれた小さな本音だ。
だからこそ、こちらも同じだけ丁寧に受け取らなければならない。
五条は仕事帰りの電車の窓に映る自分の顔を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
疲れている顔だと思う。
けれど、以前のような空虚さは少しだけ薄れていた。
再会してから、自分の中の何かが確かに動き始めている。
それは痛みでもあるけれど、同時に、止まっていた時間がまた流れ出した感覚でもあった。
家に帰ってからも、五条はしばらく予約画面を開けずにいた。
行くべきか。
まだ早いのか。
もう少し待ったほうがいいのか。
迷いは何度も胸を往復した。
もしまた指名を入れたら、彼女はどう思うだろう。
負担に感じるかもしれない。
警戒させるかもしれない。
あるいは、来てくれたことを少しだけうれしいと思ってくれるだろうか。
分からない。
分からないまま、それでも考え続けた末に、五条はひとつの結論にたどり着いた。
会いに行こう。
ただし、自分のためだけではなく。
未練を確かめるためでも。
過去を取り戻すためでも。
答えを急かすためでもない。
今の彼女が少しでも安心していられるように。
少しでも、肩の力を抜ける時間になるように。
そのために、自分が客としてできる範囲で、静かに会いに行こうと思った。
それはひどく曖昧で、もしかしたら独りよがりな願いかもしれない。
けれど少なくとも、押しつけたくはなかった。
好きだからこそ、寄り添い方を間違えたくない。
その思いだけは、はっきりしていた。
五条はようやくスマートフォンを手に取り、予約ページを開いた。
画面に並ぶ時間帯を見つめる。
以前なら、最短で会える枠を選んでいたかもしれない。
けれど今は、彼女の負担になりにくそうな時間を考えてしまう。
忙しすぎる時間帯は避けたほうがいいだろうか。
終盤で疲れている時間はどうだろう。
逆に、少し落ち着いて対応できる時間のほうがいいのか。
そんなことを考えている自分に、五条は小さく苦笑した。
ここまで慎重になるのは、自分でも少し可笑しかった。
けれど、それだけ雑に会いたくなかったのだ。
しばらく迷った末、比較的落ち着いていそうな時間を選ぶ。
指名欄には、迷わず「リオン」と入力した。
その名前を打ち込む指先に、わずかな熱が宿る。
未沙ではなく、リオン。
今の彼女を尊重するなら、まずはその名前で会いに行くべきだと思った。
自分の中ではもう彼女が誰なのか分かっている。
それでも、彼女が今その名前で立っている以上、その形を無視したくなかった。
予約を確定する直前、五条の指が一瞬止まる。
本当にこれでいいのか。
また彼女を揺らすことにならないか。
自分は「寄り添いたい」という綺麗な言葉で、ただ会いたいだけの気持ちを飾っているのではないか。
そんな疑いは、最後まで消えなかった。
けれど、会わないことが正解だとも思えなかった。
彼女が差し出してくれた小さな本音に対して、自分もまた、逃げずに向き合いたかった。
五条は静かに予約を確定した。
完了画面が表示される。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけ強く脈打った。
もう一度、会える。
その事実に心が動く。
けれど同時に、今度こそ自分の振る舞いを間違えたくないという緊張もあった。
次に会ったとき、何を話すべきか。
どこまで触れていいのか。
何も言わないほうがいいのか。
それとも、少しだけでも彼女が楽になれるような言葉を置くべきか。
答えはまだ出ない。
ただ、ひとつだけ決めていることがあった。
彼女の今を否定しないこと。
「未沙」に戻ることを求めないこと。
「リオン」である彼女の時間も、ちゃんと尊重すること。
過去を知っているからといって、今を飛び越えていいわけじゃない。
むしろ過去を知っているからこそ、今の彼女がどれだけのものを抱えてそこに立っているのかを想像しなければならない。
五条はソファに深く腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
会いたい人、なのだと思う。
昔好きだった人、ではなく。
失った人、でもなく。
取り戻したい人、だけでもない。
今ここにいて、今の姿のままで、もう一度会いたい人。
その認識にたどり着いたとき、胸の奥にあった焦りが少しだけ静まった。
自分が会いたいのは、記憶の中の未沙だけじゃない。
今の彼女だ。
迷いながら働いて、仮面を被りながらも誰かを癒やして、見つけられたことに揺れながら立っている、今の彼女に会いたいのだ。
だからこそ、急がなくていい。
理想の答えを求めなくていい。
ただ、彼女が少しでも息をしやすい時間を一緒につくれたら、それでいいと思えた。
窓の外は、夕方の光がゆっくりと街を染め始めていた。
晴れているのか曇っているのか分からない、曖昧な色の空だった。
けれど数日前のような重たさは、もう少しだけ薄れて見える。
五条はスマートフォンをテーブルに置き、目を閉じた。
次に会うときも、きっと簡単ではない。
彼女は緊張するだろうし、自分だって平静ではいられないかもしれない。
言葉を選びすぎて、かえってぎこちなくなるかもしれない。
それでもいい、と思った。
うまくやることより、雑にしないことのほうが大事だ。
気の利いた言葉より、相手の呼吸を乱さない距離のほうが大事だ。
そうやって少しずつでも、彼女が「この人の前では少しだけ力を抜いてもいい」と思える時間をつくれたなら。
それはきっと、再会の先にある最初の意味になる。
もう一度、会いたい。
その願いはまだ静かで、どこか不器用で、決してまっすぐなだけではなかった。
未練もある。
愛しさもある。
後悔も、期待も、怖さもある。
けれど、それら全部を抱えたままでもなお、彼は会いに行こうとしていた。
自分の想いを押しつけるためではなく。
彼女の今を尊重したうえで、そっと寄り添いたいと思ったから。
その気持ちが、五条を再訪へと向かわせていた。




