第20話 再来店
一か月後、五条は再びそのサロンの前に立っていた。
季節はわずかに進み、街の空気も前に来たときとは少しだけ違っている。けれど、ガラス扉の向こうに見えるやわらかな照明と、静かに整えられた空間は、あの日の記憶をそのまま閉じ込めたみたいに変わらなかった。
予約時間の少し前。
五条は扉の前で一度だけ呼吸を整え、それからゆっくりと中へ入った。
小さく鳴る来店音。
やわらかな香り。
足音を吸い込むような静かな床。
そのひとつひとつが、胸の奥に沈んでいた緊張を静かに呼び起こす。
会いたいと思って来た。
けれど、いざこの場所に立つと、やはり簡単ではなかった。
前回とは違う。
もう何も知らない客ではいられない。
そして向こうもまた、何も知られずにいる施術者ではいられない。
それでも、まだ何もはっきりとは言っていない。
その曖昧さの上に、今の二人は立っている。
「いらっしゃいませ」
受付の奥から聞こえた声に、五条の胸が小さく揺れた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、前回と同じ制服をまとったリオンだった。
髪はきちんとまとめられ、姿勢はまっすぐで、口元には施術者としての穏やかな微笑みがある。けれど、その表情は前回とまったく同じではなかった。
ほんのわずかに。
本当にわずかにだけ、安堵のようなものが滲んでいた。
来たことに驚いていないわけではない。
緊張していないわけでもないだろう。
それでも、五条の姿を認めた瞬間、彼女の目元にかすかなやわらかさが宿ったのを、五条は見逃さなかった。
「本日はご来店ありがとうございます」
丁寧な声。
けれど前回より、少しだけ硬さが薄い。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
五条もまた、できるだけ自然な声で返した。
名前は呼ばない。
余計なことも言わない。
けれど、ただの初対面の客のようにも振る舞わない。
その加減を探るような短いやり取りの中に、二人のあいだに流れる一か月分の時間が静かに折り重なっていた。
案内されて個室へ向かう途中、五条は彼女の背中を見つめた。
前と同じ歩幅。
前と同じ、物音を立てない所作。
けれど、どこか違う。
たぶんそれは、こちらの気のせいではない。
彼女もまた、この再会をただの業務として切り離しきれていないのだろう。
部屋に入ると、やわらかな照明が落ち着いた影をつくっていた。
整えられたタオル。
静かな音楽。
外界から切り離されたような空気。
前回、この部屋の中でどれだけ心が揺れたかを思い出し、五条は胸の奥でそっと息をつく。
「お疲れの箇所など、気になるところはありますか」
リオンがいつもの確認をする。
「肩と首まわりを、少ししっかりめにお願いしたいです」
「かしこまりました」
そのやり取りはごく普通のものだった。
客と施術者として、何ひとつ不自然ではない。
けれど、普通であろうとするほど、その下にあるものがかえって際立つ気がした。
五条はベッドに横になり、顔を伏せる。
タオルがかけられ、視界が閉ざされると、耳と皮膚の感覚だけが鋭くなる。
少しして、彼女の手が肩に触れた。
その瞬間、五条は前回とは違うものを感じた。
もちろん緊張はある。
彼女の指先には、まだ慎重さが残っている。
けれど、あのときのような張りつめた硬さだけではなかった。
触れ方が、少しやわらかい。
力が抜けている、というほどではない。
むしろ丁寧さは前回以上かもしれない。
ただ、その丁寧さの中に、必要以上に距離を取ろうとするぎこちなさが少しだけ減っていた。
五条は目を閉じたまま、その変化を静かに受け取った。
彼女もまた、ここへ来るまでに何かを越えてきたのかもしれない。
完全ではなくても。
まだ迷いの途中だとしても。
「強さは大丈夫ですか」
「はい。ちょうどいいです」
短い会話。
それだけなのに、前回よりも呼吸がしやすい。
沈黙は相変わらず多かった。
けれど、その沈黙はもう、ただ痛いだけのものではなかった。
言葉にしないまま共有しているものがある。
まだ名前をつけてはいけない何かが、確かにこの部屋の中にある。
五条はふと、一か月前の自分を思い出した。
見つけた衝撃に揺れ、踏み込むべきか引くべきかも分からず、ただ必死に境界を壊さないようにしていた自分。
あのときは、彼女のすべてが遠くて、近くて、どう触れればいいのか何ひとつ分からなかった。
今も分からないことは多い。
むしろ、分からないことだらけだ。
けれど、ひとつだけ違うのは、彼女もまたこの再会をなかったことにはしていないと感じられることだった。
それは大きな前進ではない。
劇的な変化でもない。
けれど、こういう小さなやわらかさのほうが、今の二人にはずっと大事なのかもしれなかった。
施術が進むにつれて、五条の身体から少しずつ力が抜けていく。
肩の奥にたまっていた重さがほどけるたび、心の奥にあった警戒もわずかに薄れていく気がした。
彼女の手は、やはりよく知っている手だった。
昔の記憶と同じ、というだけではない。
今この場所で、今の彼女が積み重ねてきた時間も、その手にはちゃんと宿っている。
未沙の面影を探すまでもなく、リオンとして磨かれた技術がそこにある。
そしてその奥に、未沙としてのやさしさが静かに滲んでいる。
その両方を感じたとき、五条は胸の内で小さく思った。
会いに来てよかった。
過去を確かめるためではなく。
答えを急かすためでもなく。
ただ、今の彼女にもう一度会いたかった。
その願いは、間違っていなかったのかもしれない。
「少し、首まわりいきますね」
頭上から落ちてきた声に、五条は静かに「はい」と返す。
前回なら、その一言だけで胸が強く波立っていたかもしれない。
けれど今は、もちろん揺れながらも、あのときほど切迫してはいなかった。
見つけることは、もう終わっている。
今ここで必要なのは、暴くことではなく、積み重ねることだ。
彼女の指先が首筋に触れる。
やわらかな圧が、呼吸に合わせて流れていく。
その手の動きに身を委ねながら、五条は思う。
まだ過去をはっきり口にする時ではないのだろう。
彼女が何を抱えているのかも、なぜあのとき姿を消したのかも、自分はまだ知らない。
知りたい気持ちは消えていない。
むしろ前より深くなっている。
それでも今は、この曖昧さを急いで壊さないほうがいい。
彼女が少しだけやわらかくなれたこと。
自分もまた、少しだけ自然にここにいられること。
その小さな変化を、まずは大事にしたかった。
施術の終盤、リオンの手つきはさらに落ち着いていた。
最初に部屋へ入ってきたときのわずかな緊張は、完全には消えていないにしても、もう表面を支配してはいない。
代わりにあるのは、慎重さの中に混じる、かすかな安堵だった。
五条が何も壊しに来ていないことを、彼女も少しずつ感じ取っているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が静かにあたたかくなる。
やがて施術が終わり、タオルが整えられ、部屋の空気が少しだけ現実へ戻っていく。
「お疲れさまでした」
リオンの声が落ちてくる。
「ありがとうございました」
五条は身体を起こしながら答えた。
顔を上げると、目の前に立つ彼女と視線が合う。
一か月前なら、その視線はもっと危うかった。
触れれば壊れそうで、逸らせば二度と届かなくなりそうな、不安定な緊張に満ちていた。
けれど今は違う。
まだ不安はある。
まだ言えないことも多い。
それでも、前回より少しだけ近い空気が、たしかに二人のあいだにあった。
「少しは楽になりましたか」
施術者としての問いかけ。
けれど、その声にはほんの少しだけ、業務以上のやわらかさが混じっていた。
「はい。かなり楽になりました」
五条はそう答えて、少しだけ間を置く。
「……来てよかったです」
言ってから、それが施術への感想としても、もっと別の意味としても受け取れる言葉だと気づく。
彼女もたぶん気づいたのだろう。
一瞬だけ、リオンの目が揺れた。
けれど次の瞬間には、ほんのわずかに口元をやわらげて、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
それだけだった。
名前は呼ばない。
過去も言わない。
何ひとつ決定的なことは口にしない。
それでも、その短いやり取りの中に、前回にはなかった確かなぬくもりがあった。
サロンを出るとき、五条は扉の前で一度だけ振り返りそうになった。
けれど、あえて振り返らずに外へ出る。
今はまだ、それでいいと思った。
無理に何かを進めなくてもいい。
今日ここで確かめたかったのは、彼女がまだそこにいて、自分もまた彼女の前に立てるということだった。
その事実だけで、十分だった。
外の空気は少しひんやりとしていて、空は高く、薄い雲がゆっくり流れていた。
一か月前の再会は、胸を裂くような痛みと熱を伴っていた。
けれど今日の再来店は、それとは違う。
まだ晴れきらない空の下で、それでも確かに前へ進んでいると感じられる、静かな一歩だった。
二人はまだ過去をはっきり口にしないまま、それでも前回より少しだけ近い空気をまとって向き合っていた。
そのわずかな変化こそが、今の二人にとって何より大切なもののように、五条には思えた。




