第21話 炭酸水の泡
再来店から数日後、五条はまたサロンを訪れていた。
前回よりも少しだけ自然に扉を開けられたのは、この場所がもう完全な未知ではなくなっていたからかもしれない。もちろん緊張が消えたわけではない。けれど、一か月前のような、胸の奥を鋭く引き裂くような痛みはなかった。
代わりにあるのは、静かに波打つような感情だった。
会えることへの安堵。
まだ何も終わっていないことへの緊張。
そして、少しずつでも彼女の今に近づいていきたいという、慎重でやわらかな願い。
「いらっしゃいませ」
受付で迎えたリオンの声は、前回よりもさらに落ち着いていた。
丁寧で、穏やかで、施術者としての距離をきちんと保っている。けれど、その奥にあるわずかなやわらかさは、もう気のせいではなかった。
「本日もありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
短い挨拶を交わし、五条は案内されるまま待合の椅子に腰を下ろした。
施術前の確認を終えたあと、リオンがいつものように飲み物の案内をする。
「お飲み物、温かいものと冷たいものがございますが、いかがなさいますか」
メニューを差し出す手つきは落ち着いている。
けれど五条には、その指先の静かな緊張が少しだけ分かった。
たぶん彼女も、こういう何気ないやり取りの中で、どこまで自然でいられるかを探っているのだろう。
五条はメニューに目を落とした。
ハーブティー。
白湯。
ミネラルウォーター。
そして、炭酸水。
その文字を見つけた瞬間、五条はほとんど迷わず口を開いた。
「炭酸水でお願いします」
「……かしこまりました」
返事はいつも通りだった。
けれど、そのほんの一瞬だけ、彼女のまなざしが静かに揺れた気がした。
五条はそれ以上何も言わなかった。
ただ、彼女が奥へ下がっていく背中を見送りながら、自分でも気づかないほど小さく息を吐く。
炭酸水が好きなのは、昔から変わっていない。
喉を刺すような刺激が好きだった。
甘くないのに、どこか気分が切り替わる感じがして、食事のときも、何でもないときも、つい選んでしまう。
そんな些細な好みのことを、彼女はもう忘れているかもしれない。
あるいは、覚えていたとしても、今さら何の意味もないことかもしれない。
それでも、もし心のどこかに残っていたなら。
そんな思いが、まったくなかったわけではなかった。
しばらくして、リオンがグラスを載せた小さなトレーを持って戻ってくる。
「お待たせいたしました」
テーブルに置かれた透明なグラスの中で、細かな泡が絶え間なく立ち上っていた。
照明を受けてきらきらと光るその泡を見た瞬間、未沙の胸の奥で、ひどく古い記憶が静かにほどけた。
昔から、彼は炭酸を好んでいた。
食事のときも。
少し疲れているときも。
何を飲むか迷ったときも、結局「炭酸ある?」と聞いていた。
強すぎる甘さは苦手なくせに、炭酸の刺激だけは妙に好きで、喉にしゅわっと抜ける感じがいいのだと笑っていたことを、未沙は今でも覚えている。
忘れたふりをしていた記憶だった。
思い出さないようにしていたわけではない。
ただ、触れれば簡単に痛むから、見ないようにしていただけだ。
なのに、グラスの中で立ち上る泡を見ただけで、その記憶はあまりにもあっさり浮かび上がってきた。
まるで水の底に沈んでいたものが、ひとつ、またひとつと泡に押し上げられてくるみたいに。
「ありがとうございます」
五条の声に、未沙ははっとして意識を戻した。
「いえ」
短く返しながらも、胸の奥はまだ静かに揺れていた。
彼は覚えているのだろうか。
自分が炭酸を選んだことに、未沙が何かを思い出すかもしれないと、少しでも考えたのだろうか。
それとも本当に、ただ好きだから選んだだけなのか。
分からない。
分からないまま、その曖昧さがかえってやさしかった。
五条はグラスを手に取り、一口飲む。
細かな泡が喉を抜けていく感覚に、少しだけ肩の力が抜けた。
その様子を見ていた未沙は、胸の奥に小さな熱が灯るのを感じる。
変わっていない。
そんなふうに思ってしまう自分がいた。
もちろん、人は変わる。
離れていた時間のぶんだけ、知らない顔も増えているはずだ。
昔のままなわけがない。
それでも、炭酸水を口にしたあとのほんのわずかな表情や、グラスを置くときの癖みたいなものに、未沙はどうしても懐かしさを見てしまう。
忘れたふりをしても、消えないものがある。
それはたぶん、記憶だけではなかった。
「今日は少し暑いですね」
五条が何気ない調子で言った。
未沙は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく頷く。
「そうですね。外は少し蒸しますね」
「ここに入ると、ほっとします」
その言葉は、店の空調や落ち着いた空間に向けたものとしても自然だった。
けれど未沙には、それだけではない響きがあるように思えた。
ここに入ると、ほっとする。
その一言が、胸の奥にやわらかく落ちる。
「ありがとうございます」
また同じ返事しかできない自分が、少しもどかしかった。
もっと自然に笑えたらいいのにと思う。
もっと軽やかに受け止められたらいいのにと思う。
けれど今の未沙にできるのは、せいぜい声の温度を少しだけやわらげることくらいだった。
五条はグラスの中の泡を見つめた。
透明な水の中を、細かな粒が絶えず上へ昇っていく。
生まれては消え、消えてはまた新しく立ち上る。
その様子が、どこか今の自分たちに似ている気がした。
押し込めたはずの記憶。
見ないふりをしていた感情。
言葉にしないまま沈めていたもの。
そういうものが、ふとした拍子に静かに浮かび上がってくる。
大きな波ではない。
けれど確かに、そこにあると分かる程度には揺れる。
「炭酸、お好きなんですね」
不意に落ちてきたその言葉に、五条は顔を上げた。
未沙はすぐに、しまった、というようにわずかに視線を揺らした。
たぶん、口にするつもりはなかったのだろう。
ただ、あまりにも自然に出てしまったのだ。
「……はい。昔から、わりと」
五条は静かに答えた。
昔から。
その言葉が二人のあいだに落ちる。
未沙は一瞬だけ息を止めたようだったが、すぐに小さく頷いた。
「そうなんですね」
それだけの会話。
けれど、その短いやり取りの中には、言葉以上のものが含まれていた。
未沙は覚えていたのだ。
少なくとも、炭酸を好む彼のことを。
そして五条もまた、その「昔から」という一言に、あえて余計な説明を足さなかった。
分かっている。
でも、まだはっきりとは言わない。
その暗黙の了解が、空気を少しだけやわらかくする。
未沙は自分でも気づかないうちに、口元の力を少し抜いていた。
こんなふうに、何でもない会話の中で記憶が触れ合うことがあるのだと思う。
過去を真正面から持ち出さなくても。
名前を呼ばなくても。
問いたださなくても。
炭酸水ひとつで、こんなにも昔が近くなる。
それが怖くて、でも少しだけうれしかった。
「では、お時間になりましたらご案内しますね」
「お願いします」
未沙がトレーを持ち上げる前に、五条はもう一度グラスへ目を落とした。
泡はまだ静かに立ち上っている。
細く、絶えず、消えては生まれる。
まるで、忘れたふりをしても消えない記憶みたいだった。
未沙もまた、その泡を見ていた。
昔の彼。
今の彼。
そして、そのどちらにも繋がっている自分の感情。
見ないふりをしていたものが、透明な水の中から次々に浮かび上がってくる。
懐かしさ。
痛み。
愛しさ。
気まずさ。
安堵。
どれも大きな声では主張しない。
ただ、泡のように静かに立ち上って、胸の内側をやわらかく揺らしていく。
やがて五条がグラスを置く。
未沙はそれを受け取りながら、ほんの少しだけ彼の指先に近い場所へ手を伸ばした。
触れはしない。
けれど、以前よりも距離を怖がっていない自分に気づく。
「ご案内します」
そう言って歩き出す声は、前より少しだけ自然だった。
五条もまた、その変化を感じ取っていた。
大きな進展なんてなくていい。
劇的な言葉なんていらない。
こうして、何気ない選択ひとつで同じ記憶に触れられること。
その小さなやわらかさこそが、今の二人には何より大切なのかもしれなかった。
炭酸水の泡は、もう消えかけていた。
けれど、そこで浮かび上がった記憶だけは消えずに残り、二人のあいだの空気を静かに揺らし続けていた。




