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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第1章 泡の記憶
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第8話 未沙に似た人

「いらっしゃいませ」


 受付の奥から現れた女性を見た瞬間、五条の心臓は不意に大きく跳ねた。


 長身で、すらりとしていて、姿勢がいい。

 落ち着いた色味のワンピースに、無駄のない所作。

 髪は艶のある暗めの色で、やわらかく流れるように整えられている。

 メイクは控えめなのに洗練されていて、目元には静かな強さがあった。


 そして何より、その人がまとっている空気に、五条は一瞬だけ息を呑んだ。


 未沙に似ている、と思った。


 もちろん、そっくりというわけではない。

 記憶の中の未沙は、もっとやわらかくて、親しみやすい雰囲気をしていた。

 笑うと目尻が少し下がって、話すときは今より少し高めの声で、感情がそのまま表情に出るような人だった。


 目の前の女性は違う。

 大人びていて、隙がなくて、どこか一歩引いた静けさがある。

 髪型も、メイクも、立ち居振る舞いも、五条の知っている未沙とは明らかに違っていた。


 それなのに、一瞬だけ、胸の奥が強くざわついた。


「本日担当させていただく、リオンです」


 女性はそう名乗って、丁寧に頭を下げた。


 リオン。


 その名前を聞いて、五条はほんの少しだけ現実に引き戻される。


 未沙ではない。

 当たり前だ。

 こんな偶然、あるはずがない。


「五条様でお間違いないでしょうか」

「あ、はい」

「ご来店ありがとうございます。こちらへどうぞ」


 落ち着いた低めの声。

 やわらかいが、必要以上に親しげではない話し方。

 そのどれもが、五条の記憶にある未沙とは違っていた。


 違う。

 ちゃんと違う。


 そう確認するたびに、さっき胸を打った感覚が少しずつ薄れていく。

 いや、薄れさせようとしているのかもしれなかった。


 五条は自分でも分かるくらい、一瞬動揺していた。

 ただ似ているというだけで、こんなにも心が反応するなんて思わなかった。


 三年経っても、まだこんなふうになるのか。

 自分でも少し呆れる。


 リオンは受付で簡単な確認を済ませると、カウンセリングシートを差し出した。


「初めてのご来店ですので、こちらにお疲れの箇所や気になることをご記入ください」

「分かりました」

「ご記入が終わりましたら、お声がけください」


 その所作は丁寧で、無駄がなかった。

 笑顔も作りすぎていなくて、でも冷たくはない。

 接客として完成されている感じがした。


 五条はソファに腰を下ろし、シートに目を落とす。

 肩こり、首の疲れ、背中の張り、睡眠の質。

 チェック項目に丸をつけながらも、意識の半分はどうしてもさっきの女性へ向いてしまう。


 未沙に似ていた。


 その事実だけが、頭の中で何度も反芻される。


 いや、似ていたというより、面影を感じた、のほうが近いかもしれない。

 輪郭そのものではなく、ふとした立ち姿や、視線の置き方や、空気の揺れ方みたいなものが、どこか記憶を刺激したのだ。


 でも、それだけだ。


 髪型も違う。

 メイクも違う。

 声も違う。

 名前だって違う。


 偶然などあるはずがない。


 五条はペンを持つ手に少しだけ力を込めた。


 こんなところで未沙に会うわけがない。

 そもそも、未沙が今どこで何をしているのかも知らないのだ。

 夢を叶えて、自分の店を持っているかもしれない。

 別の街で忙しく働いているかもしれない。

 あるいは、もう自分の知らない誰かと新しい人生を歩いているのかもしれない。


 そんな相手を、たまたま予約したサロンで見かけるなんて、都合のいい話があるわけがなかった。


「……考えすぎだな」


 小さく呟いて、五条は最後の項目に丸をつけた。


 記入を終えて顔を上げると、リオンは少し離れた場所でタオルを整えていた。

 その横顔を見た瞬間、また胸がわずかに揺れる。


 似ている。

 でも違う。


 その繰り返しが、妙に落ち着かなかった。


「ご記入、終わりました」

 五条が声をかけると、リオンはすぐにこちらへ歩いてきた。

「ありがとうございます。拝見しますね」


 シートを受け取る指先が、細くて綺麗だった。

 その手元を見た瞬間、五条はまた一瞬だけ妙な既視感を覚える。


 けれど、それもすぐに打ち消した。


 手なんて、似ている人はいくらでもいる。

 自分が勝手に重ねているだけだ。


「肩と首、かなりお疲れのようですね」

 リオンはシートを見ながら静かに言った。

「そうですね。仕事柄、ずっとパソコンなので」

「背中の張りも強そうです。今日は上半身を中心に、全体のバランスを見ながらほぐしていきますね」

「お願いします」

「力加減など、気になることがあれば遠慮なくおっしゃってください」


 説明は簡潔で分かりやすかった。

 押しつけがましさがなく、でも頼りなさもない。

 その落ち着いた対応に、五条は少しだけ肩の力を抜く。


 少なくとも、施術者としては信頼できそうだった。


「では、こちらへどうぞ」


 リオンに案内され、五条は受付の奥へ進んだ。

 廊下は静かで、足音がやわらかく吸い込まれていく。

 店内には強すぎないアロマの香りが漂い、照明も落ち着いていて、外の世界とは少し切り離されたような空気があった。


 施術室の前でリオンが立ち止まり、ドアを開ける。


「こちらのお部屋になります」

「ありがとうございます」


 中は想像していたより広くはないが、そのぶん丁寧に整えられていた。

 ベッド、ワゴン、鏡、タオル類。

 どれも必要なものだけがきちんと配置されていて、余計なものがない。

 清潔感があり、どこか神経の行き届いた空間だった。


 五条はその部屋を見回しながら、また少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。


 この感じは何だろう。

 懐かしい、というほど明確ではない。

 でも、どこかで知っている空気に触れたような感覚がある。


「お着替えはこちらにご用意しております」

 リオンが説明を続ける。

「準備ができましたら、こちらのベルでお知らせください」

「分かりました」

「では、失礼いたします」


 そう言って一礼し、リオンは静かに部屋を出ていった。


 ドアが閉まる音がして、ようやく五条はひとりになる。


 その瞬間、張っていた息が少しだけほどけた。


「……なんなんだよ、ほんと」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 ただの新規客として来ただけだ。

 肩こりをほぐしてもらって、少し楽になって帰るだけ。

 それ以上でも以下でもない。


 なのに、店に入ってからずっと、心が落ち着かない。


 リオンという女性は、未沙ではない。

 そう思う根拠はいくらでもある。

 見た目も、雰囲気も、声も違う。

 名前だって違う。


 それでも、ほんの一瞬ごとに、記憶のどこかが反応してしまう。


 五条はシャツのボタンに手をかけながら、苦く笑った。


 自分はまだ、こんなにも未沙を引きずっているのか。

 似た雰囲気の人を見ただけで、心臓が跳ねるくらいに。


 情けない、と思う。

 でも同時に、それだけ大事だったのだとも思う。


 着替えを終え、ベッドのそばに立ったとき、五条はもう一度部屋を見回した。


 静かで、整っていて、どこかやさしい空間。

 誰かを安心させたいという意志が、目に見えない形で染み込んでいるような部屋だった。


 未沙も、こんな場所を作りたいと言っていたことがあった。


 来てくれた人が、少しだけ自分を好きになれるような場所。

 ただ綺麗にするだけじゃなくて、心まで軽くなるような時間。


 その言葉がふいに蘇って、五条は一瞬だけ目を閉じた。


「……違う、だろ」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 これはただの偶然だ。

 いや、偶然ですらない。

 自分が勝手に重ねているだけだ。


 五条はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。


 ここから先は、ただ施術を受けるだけ。

 余計なことは考えない。

 そう決めて、ベルに手を伸ばす。


 その指先が、ほんの少しだけ震えていたこと


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