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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第1章 泡の記憶
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第7話 街の片隅の扉

 予約当日の土曜日は、朝から妙に落ち着かなかった。


 別に大事な会議があるわけでもない。

 誰かと約束しているわけでもない。

 ただ、夕方に一件、友人に半ば無理やり取らされたサロンの予約が入っているだけだ。


 それなのに五条は、昼を過ぎたあたりから何度も時計を見ていた。


「……なんなんだろうな」


 ひとりごとのように呟いて、ソファに深く座り直す。


 部屋は静かだった。

 休日らしく、窓の外からは遠く子どもの声や車の走る音が聞こえてくる。

 テーブルの上には読みかけの雑誌と、飲みかけの炭酸水。

 いつもと変わらない土曜の午後のはずなのに、心だけが妙にそわそわしていた。


 サロンなんて、ただ肩をほぐしてもらうだけだ。

 気分転換になればいいし、合わなければ一回きりで終わればいい。

 そう思っているのに、なぜか「行く」という行為そのものに、少しだけ身構えている自分がいる。


 五条はスマートフォンを手に取り、予約確認のメールを開いた。

 店名、住所、時間。

 何度も見た内容なのに、また目を通してしまう。


 駅から徒歩七分。

 大通りから一本入った静かな通り沿い。

 完全予約制のプライベートサロン。


「ほんとに行くんだな……」


 今さらのようにそう呟いて、五条は苦笑した。


 予約したのは自分だ。

 いや、正確には友人に押し切られた形ではあるけれど、最後にボタンを押したのは自分の指だった。


 だったら、もう腹をくくるしかない。


 五条は立ち上がり、洗面所へ向かった。

 鏡の前で髪を軽く整え、シャツの襟元を直す。

 別に誰に見せるわけでもないのに、少しだけ身なりを気にしている自分に気づいて、また苦笑が漏れた。


「ただのサロンだろ」


 そう言い聞かせるように呟いても、胸の奥のざわつきは消えなかった。


 家を出ると、夕方前の空気はまだ少し蒸していた。

 夏の終わりに差しかかった街は、強すぎない日差しと、どこか気の抜けた風に包まれている。

 駅までの道を歩きながら、五条は何度かポケットの中のスマートフォンに触れた。


 遅刻していないか。

 場所は合っているか。

 そんなことを確認する必要はないのに、落ち着かないときほど人は同じ動作を繰り返すものらしい。


 電車に揺られ、最寄り駅で降りる。

 改札を抜けると、休日の駅前はほどよく賑わっていた。

 カフェの前には待ち合わせらしい人たちが立ち、ドラッグストアの前ではセールの呼び込みが聞こえる。


 五条はスマートフォンの地図を開き、目的地へ向かって歩き出した。


 大通りを少し進み、信号を渡り、さらに一本細い道へ入る。

 駅前の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。

 飲食店や雑貨店がぽつぽつと並ぶ通りは、派手さはないが落ち着いていて、どこか生活の匂いがした。


 こんな場所にあるんだな、と五条は思う。


 もっと商業的なビルの中を想像していたが、実際はずっと静かで、控えめな街並みだった。

 その空気が、かえってこのサロンの「プライベート感」を際立たせている気がする。


 地図の青い点を追いながら歩いているうちに、目的地はもうすぐだと表示が変わった。


 五条は自然と歩幅を少しだけ緩める。


 なぜだろう。

 ここまで来ると、さっきまでの落ち着かなさとは別の種類の緊張が胸に広がってきた。


 初めて行く場所だからかもしれない。

 完全予約制という響きに、少しだけ閉じた空間の気配を感じるからかもしれない。

 あるいは単純に、自分がこういう場所に慣れていないだけなのかもしれない。


 けれど、それだけでは説明しきれないざわつきがあった。


 通りの角を曲がると、そこに小さな建物が見えた。


 一階部分の一角。

 大きな看板は出ていない。

 控えめなプレートにサロン名が記され、ガラス越しにやわらかな照明が見える。


「……ここか」


 五条は足を止めた。


 外観は想像以上に落ち着いていた。

 白と木目を基調にしたシンプルな入口。

 派手な装飾はなく、けれど手入れの行き届いた清潔感がある。

 入口の脇には小さな鉢植えが置かれ、季節の花がさりげなく揺れていた。


 静かだ。

 駅からそう遠くないのに、ここだけ少し時間の流れが違うように感じる。


 五条はその場で一度、深く息を吸った。


 来てしまえば、案外なんてことないと思っていた。

 実際、店構えも落ち着いていて、嫌な感じはしない。

 むしろ、こういう空間は嫌いじゃない。


 なのに、胸の奥だけが妙に騒がしい。


 何かを思い出しそうで、思い出せないような。

 知らない場所のはずなのに、どこかで見たことがあるような。

 そんな曖昧な感覚が、じわじわと広がっていく。


「気のせい、だよな」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 もちろん気のせいだ。

 初めて来た場所なのだから、懐かしいはずがない。

 ただ、落ち着いた雰囲気が、どこか昔の記憶の断片に触れただけなのだろう。


 五条はガラス扉の向こうをそっと見た。

 受付らしきカウンターと、奥へ続く柔らかな照明。

 人の姿は見えないが、営業中であることは分かる。


 今さら引き返す理由はない。

 予約もしているし、ここまで来て帰るほうがよほど不自然だ。


 それでも、扉の前に立ったまま、五条はほんの数秒動けなかった。


 胸の奥が、ざわつく。


 理由のない緊張。

 説明のつかない違和感。

 それは不快というより、何か大事なものの輪郭を、まだ見えないまま感じ取っているような感覚だった。


 五条は無意識に、自分の左胸のあたりへ手を当てた。

 鼓動が少しだけ速い。


「ほんと、なんなんだよ……」


 苦笑混じりにそう漏らして、ようやくドアノブへ手を伸ばす。


 金属の感触はひんやりとしていた。

 その冷たさが、逆に妙に現実的で、五条は少しだけ肩の力を抜いた。


 ただのサロンだ。

 ただの予約だ。

 ただ肩をほぐしてもらって、少し楽になって帰るだけ。


 そう思いながら、扉を開ける。


 小さなベルの音が、静かな空間にやわらかく響いた。


 中へ一歩足を踏み入れた瞬間、外の空気とは違う、ほのかな香りが鼻先をかすめる。

 強すぎないアロマの匂いと、清潔なタオルのようなやさしい空気。

 照明は明るすぎず暗すぎず、目に心地いい。


「いらっしゃいませ」


 奥から聞こえたその声に、五条は顔を上げた。


 まだ姿は見えない。

 けれど、その一言だけで、胸の奥が不意に大きく揺れた。


 低めで落ち着いた、やわらかな声。

 知らないはずの声なのに、なぜか心のどこかが反応する。


 五条は一瞬だけ息を止めた。


 けれど次の瞬間には、そんな自分を打ち消すように小さく首を振る。


 気のせいだ。

 ただ緊張しているだけだ。

 初めての場所で、感覚が少し過敏になっているだけ。


 そう思い直しながら、五条は受付のほうへ歩き出した。


 この扉の向こうに、自分の人生を大きく揺らす再会が待っているなんて、そのときの彼はまだ知らない。


 ただ、街の片隅にある小さなサロンへ、気分転換のつもりで足を踏み入れただけだった。


 止まっていた時間が、音もなく動き出す、その入り口だとも知らずに。


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