第6話 見かねた友人
その話を持ち出したのは、梅雨が明けきらない蒸し暑い夜だった。
「お前、いい加減ちょっと外の空気変えたほうがいいって」
仕事帰りに呼び出された居酒屋で、友人は枝豆をつまみながら、呆れたようにそう言った。
五条はジョッキを口元まで運びかけて、眉をひそめる。
「外の空気って、毎日出てるけど」
「そういう意味じゃない」
「分かってるよ」
「分かってないから言ってるんだろ」
友人はため息混じりに笑った。
この友人とは学生時代からの付き合いで、遠慮がない。
五条が何かを誤魔化そうとしても、たいてい見抜かれる。
そして今夜もまた、そういう流れらしかった。
「最近さ、前よりマシにはなったけど、まだどっか止まってる感じするんだよな」
「止まってるって」
「時間が」
「大げさだな」
「大げさじゃないって。お前、ちゃんと笑ってるようで、全然笑ってないときあるし」
五条は苦笑した。
図星を突かれると、反論する気力も少し削がれる。
別れてから三年。
未沙のいない生活には慣れた。
慣れたはずだった。
仕事もしているし、友人とも会う。
休日に家から出られないほど落ち込むことも、もうない。
それでも、心のどこかに空白が残ったままだという自覚はあった。
ただ、それをどうにかしようとまでは思えなかった。
どうにかしたところで、未沙が戻ってくるわけではない。
だったら、このまま抱えていくしかないのだと、半ば諦めのように受け入れていた。
「で、今日は何」
五条は話題を変えるように言った。
「何って?」
「わざわざ呼び出したんだろ。説教だけなら帰るけど」
「説教じゃない。提案」
「嫌な予感しかしないな」
友人はにやりと笑って、スマートフォンを取り出した。
画面を数回タップしてから、五条の前に差し出す。
「これ」
「……何?」
そこに表示されていたのは、落ち着いた雰囲気のサロンの予約ページだった。
白を基調にした内装写真と、アロマオイルらしきボトル、やわらかな照明。
いかにも癒やし系の空間という感じだ。
「プライベートサロン。知り合いが行ってよかったって言ってた」
「へえ」
「へえ、じゃない。行け」
「なんでそうなるんだよ」
五条は思わず笑ってしまった。
「いや、お前さ。肩こりひどいって前から言ってるじゃん」
「まあ、ひどいけど」
「仕事も忙しいし、ずっと気張ってるし、たまには人にほぐされてこいって」
「別にマッサージならどこでもいいだろ」
「どこでもいいわけじゃない。ここ、評判いいんだって。完全予約制で静かだし、男でも行きやすいらしい」
「詳しいな」
「調べたからな」
「なんでそこまで」
「見かねたから」
あっさり言われて、五条は言葉に詰まった。
見かねた。
その一言に、友人の本音が全部詰まっている気がした。
自分では普通にやっているつもりでも、周りから見れば、まだどこか危ういのだろうか。
ちゃんと前を向いているようで、実は同じ場所をぐるぐる回っているだけなのだろうか。
「別に、そこまでじゃないよ」
「そこまでなんだよ」
「……」
「お前、自分のことになると鈍いからな」
友人はジョッキを置き、少しだけ真面目な顔になった。
「未沙ちゃんのこと、忘れろとは言わない」
「……うん」
「でも、忘れられないまま固まってるのは違うだろ」
「固まってるつもりはないよ」
「つもりじゃなくて、そう見えるって話」
五条は視線を落とした。
責められているわけではない。
むしろ心配されているのだと分かるからこそ、余計に返す言葉が見つからなかった。
「気分転換でいいんだよ」
友人は少しだけ声をやわらげた。
「別に人生変えろって言ってるわけじゃない。ただ、いつもと違う場所に行って、ちょっと力抜いてこいってだけ」
「……サロンなんて行ったことないし」
「だからこそだろ」
「男一人で行くの、なんか気まずくない?」
「今どき珍しくもないって。しかも完全予約制なら余計に気楽だろ」
「そういう問題かな」
「そういう問題だよ」
友人はスマートフォンを五条のほうへさらに押しやった。
「見てみろって。雰囲気いいし、口コミも悪くない」
「口コミって、だいたい当てにならないだろ」
「当てにならないって言いながら、仕事で店探すときはめちゃくちゃ見るくせに」
「それは仕事だから」
「今回はお前のためだよ」
五条は画面を覗き込んだ。
サロンの名前は、聞いたことのないものだった。
駅から少し離れた場所にある、小さなプライベートサロン。
写真に写る店内は、派手さはないが落ち着いていて、どこか丁寧に作られた空気があった。
施術メニューの説明も、必要以上に飾っていない。
肩や背中の疲れ、睡眠の質、ストレスケア。
そういう言葉が並んでいる。
五条は無意識に、自分の肩を軽く回した。
確かに最近、ひどく凝っている。
仕事のせいだけではないのかもしれない。
気づかないうちに、ずっと力が入ったままなのだろう。
「……まあ、悪くはなさそうだけど」
「だろ?」
「でも、今じゃなくても」
「今だよ」
「なんでそんな即決なの」
「お前は“今度”って言うと一生行かないから」
それもまた、否定しづらかった。
五条は昔から、必要に迫られないことには腰が重い。
特に自分のためだけのこととなると、後回しにしがちだ。
友人はそれをよく知っている。
「予約、空いてる日あるかな」
友人が画面をスクロールしながら言う。
「ちょっと待って、勝手に進めるな」
「来週の土曜、夕方空いてるじゃん」
「いや、だから」
「その日予定ある?」
「……ないけど」
「じゃあ決まり」
「決まってない」
五条は思わず笑いながらも、どこかで完全には拒みきれていない自分に気づいていた。
本当に嫌なら、もっと強く断っているはずだ。
でもそうしないのは、たぶん少しだけ、友人の言うことが正しいと思っているからだろう。
このまま同じ日々を繰り返していても、何かが自然に変わるわけではない。
未沙を忘れられないことと、何もしないことは、たぶん別の話だ。
「一回だけだから」
友人が念を押すように言った。
「合わなかったらそれで終わりでいい。別に通えなんて言わない」
「……」
「でも、一回くらい行ってみろって。肩もほぐれるし、少しは頭も切り替わるかもしれないだろ」
「そんな簡単に切り替わるかな」
「切り替わらなくても、何も変わらないよりはマシ」
その言葉に、五条は小さく息を吐いた。
何も変わらないよりはマシ。
たしかに、その通りかもしれない。
劇的な変化なんて求めていない。
ただ、少しだけでも空気が変わるなら、それで十分なのかもしれなかった。
「……分かったよ」
「お」
「一回だけな」
「よし」
友人は満足そうに笑い、すぐさま予約画面を開いた。
「自分でやるから」
「逃げるだろ」
「逃げないって」
「信用ならん」
「ひどいな」
「三年分の実績があるからな」
結局、半ば押し切られる形で、五条はスマートフォンを受け取った。
名前、連絡先、希望メニュー、日時。
必要事項を入力していく。
予約ボタンを押す直前、指がほんの少し止まった。
たかがサロンの予約だ。
それ以上でも以下でもない。
なのに、なぜか妙に落ち着かない。
「何してんの、早く押せ」
「うるさいな」
五条は苦笑しながら、最後のボタンを押した。
予約完了の画面が表示される。
「はい、確保」
友人が満足げに言う。
「これで来週、お前は強制的に癒やされる」
「言い方が雑すぎる」
「感謝しろよ」
「まだしてない」
「終わったらするって」
五条はスマートフォンをテーブルに置き、ジョッキの残りを飲み干した。
冷えた液体が喉を通っていく感覚が、少しだけ心地いい。
予約を入れたからといって、何か大きく変わるわけではない。
未沙を忘れられるわけでもないし、止まっていた時間が急に動き出すわけでもない。
そう思っていた。
けれど、店を出て一人で夜道を歩きながら、五条はふと胸の奥に小さな違和感を覚えた。
ほんの少しだけ、何かが動いた気がする。
それは期待と呼ぶにはあまりにも曖昧で、予感と呼ぶには根拠がなかった。
ただ、いつもと同じ金曜の夜のはずなのに、来週の予定がひとつ増えただけで、日常の輪郭が少しだけ変わったように感じたのだ。
駅へ向かう途中、湿った夜風が頬を撫でる。
街の灯りはぼんやり滲んで見えた。
五条はポケットの中のスマートフォンに触れた。
そこには、来週の予約確認メールが届いているはずだった。
たったそれだけのことなのに、なぜか少し落ち着かない。
「ほんと、お節介だよな」
誰に向けるでもなく呟くと、自然と苦笑がこぼれた。
でも、そのお節介に救われている自分もいる。
自分ひとりなら、きっと予約なんてしなかった。
気分転換が必要だと分かっていても、後回しにして、そのまま流していたはずだ。
だからこれは、友人に押された結果でしかない。
自分の意志で大きく何かを変えようとしたわけではない。
それでも、止まっていた時間に小さなひびが入るとしたら、案外こういう他愛ないきっかけなのかもしれなかった。
五条は改札を抜け、ホームへ向かう階段を上る。
来週の土曜。
知らないサロン。
知らない施術者。
知らない時間。
そこに何があるのかなんて、もちろん分からない。
ただ、少なくとも今夜の自分は、昨日までの自分とまったく同じではなかった。
ほんの少しだけ、先の予定を意識している。
ほんの少しだけ、止まっていた日常の針が動いた気がする。
それがどこへつながるのかは、まだ何も知らないまま。
五条は静かに電車を待った。




