第5話 強がりの名前
最初に「名前を変えよう」と思ったのは、ほんの出来心みたいなものだった。
けれど今になって思えば、それは未沙が自分を守るために選んだ、最初の小さな逃げ道だったのかもしれない。
開業して一年が過ぎる頃には、未沙の生活はすっかり「店を回すこと」を中心に回っていた。
朝起きた瞬間から、頭に浮かぶのは予約のこと。
夜眠る直前まで、売上や経費の数字が頭から離れない。
空き時間があれば集客方法を調べ、SNSの投稿文を考え、近隣の競合店の価格やサービスを見比べる。
休んでいるつもりの時間でさえ、心は少しも休まっていなかった。
それでも店に立つときだけは、笑わなければならない。
お客様の前では、疲れも不安も見せてはいけない。
ここは癒やしの場所であって、自分の弱さを持ち込む場所ではないのだから。
そう思えば思うほど、未沙は「未沙」のままで店に立つことが苦しくなっていった。
未沙という名前は、自分そのものだった。
夢を語っていた頃の自分。
五条に「未沙ならできる」と言ってもらった自分。
理想を信じて、まっすぐにこの店を作った自分。
その名前を名乗るたびに、うまくいっていない現実との落差が胸に刺さる。
未沙でいると、弱さがそのまま顔に出てしまいそうだった。
焦りも、不安も、眠れない夜の痕跡も、全部そのままお客様に見透かされてしまいそうで怖かった。
ある日の午後、予約の合間に立ち寄った美容ディーラーの展示会で、未沙は何人かの同業者と名刺交換をした。
「はじめまして、○○サロンのリサです」
「△△で働いてます、ユイです」
華やかな笑顔と、洗練された立ち居振る舞い。
そこにいる人たちはみんな、自分の仕事用の顔をきちんと持っているように見えた。
もちろん本名で活動している人もいたが、サロン名や活動名を使っている人も少なくなかった。
その姿を見ながら、未沙はふと、自分の名刺に印刷された「未沙」という文字を見つめた。
その二文字が、急にひどく無防備なものに思えた。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、未沙はぼんやり考えていた。
もし、仕事のときだけ別の名前を使ったらどうだろう。
それは自分を偽ることだろうか。
それとも、仕事をするための切り替えになるだろうか。
電車の窓に映る自分の顔は、思っていたより疲れて見えた。
頬は少しこけ、目元には薄い影がある。
笑えばごまかせるかもしれない。
でも、笑わなければすぐに崩れてしまいそうな顔だった。
「……未沙じゃ、だめなのかな」
小さく呟いて、すぐに首を振る。
だめなわけじゃない。
ただ、今の未沙は少し弱すぎるのだ。
その夜、店に戻った未沙は、営業後の静かな受付でノートを開いた。
新しいメニュー案でも、集客案でもない。
ただ、思いつくままに名前を書いてみる。
ミサ。
ミオン。
リナ。
リオ。
リオン。
最後に書いたその名前で、未沙の手が止まった。
「……リオン」
口に出してみる。
少しだけ大人びていて、少しだけ距離がある。
やわらかさよりも、凛とした響きがある名前だった。
未沙はもう一度、その名前を見つめた。
今の自分に必要なのは、たぶんこういう輪郭なのかもしれないと思った。
揺らがないように見えること。
簡単には崩れないように見えること。
誰かを癒やす側として、隙なく立っていられること。
未沙ではなく、リオン。
その名前なら、少しだけ強くなれる気がした。
数日後、未沙は予約サイトのプロフィール欄を更新した。
担当者名のところに、小さく「Rion」と入力する。
エンターキーを押す指先が、少し震えた。
たったそれだけのことなのに、何か大事な境界線を越えてしまったような気がした。
次に、見た目も変えた。
髪を少しだけ落ち着いた色に染め直し、前髪の流し方を変える。
メイクも、これまでより少しだけシャープにした。
アイラインを細く長めに引き、リップの色味を抑える。
可愛らしさよりも、洗練と落ち着きを優先した。
鏡の前に立つと、そこには見慣れた自分と少し違う女がいた。
未沙よりも、少し大人びて見える。
少し近寄りがたくて、でもそのぶん、隙がない。
「……悪くないかも」
そう呟いた声は、思ったより低かった。
未沙はそのまま何度か話してみる。
接客の言葉を、少しだけゆっくり、少しだけ落ち着いたトーンで。
「いらっしゃいませ」
「本日はありがとうございます」
「お疲れがたまっていらっしゃいますね」
不思議だった。
声色を変えるだけで、気持ちまで少し変わる。
未沙のままだと、どこかで「大丈夫かな」「ちゃんとしなきゃ」と揺れてしまう。
でもリオンとして話すと、その揺れを一枚膜で覆える気がした。
営業当日、初めて「リオン」としてお客様を迎えたとき、未沙は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「いらっしゃいませ。本日担当させていただく、リオンです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあったざわつきが少しだけ遠のいた。
未沙ではない。
だから、弱くてもいい。
不安でもいい。
それを表に出さなければ、少なくともこの時間だけは保てる。
リオンは、未沙の代わりに立ってくれる存在だった。
お客様の反応も、悪くなかった。
「素敵なお名前ですね」
「雰囲気に合ってますね」
そんなふうに言われるたび、未沙は曖昧に微笑んだ。
似合っているのかもしれない。
少なくとも、今の自分には必要な名前なのだろう。
それから未沙は、仕事中だけ「リオン」になった。
受付に立つとき。
施術室に入るとき。
お客様を見送るとき。
そのたびに背筋を伸ばし、声を少し低くし、表情を整える。
感情を出しすぎず、でも冷たくならないように。
親しみやすさよりも、安心感と完成度を優先する。
リオンは、完璧でなければならなかった。
疲れていても、笑う。
眠れていなくても、穏やかに話す。
不安で胸がいっぱいでも、手元だけは一切ぶらさない。
そうしているうちに、未沙は少しずつ「未沙」と「リオン」を切り分けるようになっていった。
朝、店に来るまでは未沙。
ドアを開け、照明をつけ、鏡の前で口紅を引き直した瞬間からリオン。
営業が終わり、最後のお客様を見送って、店の鍵を閉めたあとにだけ、また未沙へ戻る。
その切り替えは、最初のうちは救いだった。
リオンでいるあいだは、泣かなくて済む。
弱音を吐かなくて済む。
「夢を叶えたのに苦しい」なんて矛盾を、誰にも見せなくて済む。
だから未沙は、その仮面に少しずつ依存していった。
けれど同時に、それは檻でもあった。
リオンでいればいるほど、本当の未沙は奥へ押し込められていく。
焦っていることも、傷ついていることも、助けてほしいことも、全部「見せてはいけないもの」になっていく。
ある夜、営業を終えた未沙は、鏡の前でぼんやりと自分の顔を見つめていた。
メイクは少し崩れていたが、それでもまだ「リオン」の輪郭が残っている。
目元の強さも、口元の静けさも、昼間のままだった。
未沙はゆっくりとクレンジングを手に取り、頬をなでるようにメイクを落としていく。
アイラインが消える。
リップの色が落ちる。
作り込んだ輪郭が、少しずつほどけていく。
鏡の中に現れたのは、疲れきった未沙だった。
目の下にはうっすらと隈があり、頬には張りがない。
唇の色も薄く、笑っていない顔は思っていた以上に弱々しかった。
「……ひどい顔」
そう呟いた瞬間、急に涙が出そうになって、未沙は慌てて蛇口をひねった。
冷たい水の音が、静かな洗面台に響く。
泣いたらだめだと思った。
泣いたところで何も変わらない。
明日になればまた店を開けて、リオンとして立たなければならないのだから。
未沙は両手で水をすくい、顔を洗った。
何度も、何度も。
それでも胸の奥の重さは消えなかった。
リオンは強い。
リオンは綺麗だ。
リオンは、お客様の前で揺らがない。
でも未沙は違う。
未沙は怖い。
未沙は苦しい。
未沙は、本当は誰かに「大丈夫?」って言ってほしい。
その本音を認めた瞬間、未沙は洗面台に手をついたまま、しばらく動けなくなった。
けれど次の瞬間には、またその気持ちに蓋をする。
だめ。
そんなことを考えていたら、立っていられなくなる。
未沙はタオルで顔を拭き、鏡に向かって小さく笑ってみせた。
うまく笑えなかった。
でも、それでよかった。
笑えない未沙を隠すために、明日もまたリオンが必要なのだから。
店を出る前、未沙は受付の名札に視線を落とした。
そこには小さく、「Rion」と書かれている。
自分で選んだ名前。
自分を守るための名前。
強がりの名前。
未沙はその文字を指先でそっとなぞった。
「よろしくね、リオン」
冗談みたいに呟いたその声は、少しかすれていた。
返事はない。
けれど、その沈黙が妙にしっくりきた。
リオンは未沙を助けてくれる。
未沙の代わりに、店に立ってくれる。
弱さを隠し、崩れそうな心を支えてくれる。
でも同時に、リオンがいる限り、未沙はますます本当の自分を外へ出せなくなる。
鎧は、身を守る。
けれど長く着すぎれば、やがてそれは皮膚みたいに剥がれなくなる。
このときの未沙は、まだ知らなかった。
自分を守るために作ったその名前が、いつか大切な人の前でさえ、自分を閉じ込める檻になることを。




