第4話 理想だけでは足りなくて
開業して半年が過ぎた頃には、未沙はもう「頑張ればなんとかなる」という言葉を、前ほど無邪気には信じられなくなっていた。
もちろん、手を抜いていたわけではない。
むしろ逆だった。
朝は早く店に入り、床を拭き、タオルを整え、アロマの香りを確認する。
お客様が座る椅子の角度ひとつ、鏡に映る照明の当たり方ひとつにも気を配った。
施術中は会話の温度を見ながら、必要以上に踏み込まず、でも冷たくならないように心を砕く。
終わったあとには、少しでも「来てよかった」と思ってもらえるよう、笑顔で送り出す。
技術にも、接客にも、自信はあった。
自信がなければ、独立なんてしなかった。
ここまで積み上げてきた経験も、努力も、決して軽いものではない。
未沙は自分が何も持たないまま夢だけを追いかけたわけではなかった。
だからこそ、分からなかった。
どうして、次につながらないのだろう。
施術後、お客様の反応は悪くない。
「気持ちよかったです」
「すごくすっきりしました」
「また来ますね」
そう言って笑って帰っていく人は、ちゃんといる。
その場では満足してくれているように見える。
なのに、次の予約が入らない。
半月後にも、1ヶ月後にも、予約表にその名前は戻ってこない。
未沙は営業後、ひとりで顧客リストを見つめながら、何度も同じ名前を目で追った。
「どうして……」
口に出しても、答えは返ってこない。
技術が足りないのだろうか。
接客が重いのだろうか。
価格が高いのだろうか。
立地が悪いのだろうか。
考えられる理由はいくつもあるのに、どれも決定打には思えなかった。
ある日の午後、初回来店のお客様を見送ったあと、未沙は受付でカルテを整理していた。
三十代前半くらいの女性で、仕事帰りらしい落ち着いた服装をしていた。
肩こりがひどいと言っていたから、上半身を中心に丁寧にほぐした。
力加減も何度か確認したし、会話も相手のペースに合わせたつもりだった。
施術後には「すごく楽になりました」と笑ってくれた。
それなのに、次回予約の案内をしたとき、その女性は少しだけ困ったように笑ってこう言った。
「また時間ができたら連絡しますね」
その言い方が、未沙の胸に小さく引っかかった。
もちろん、社交辞令だと決めつけるのはよくない。
本当に忙しいだけかもしれない。
でも、そういう返事のあとに実際に予約が入ることは、あまり多くなかった。
未沙はカルテを閉じ、静かに息を吐いた。
何が違ったのだろう。
何が足りなかったのだろう。
その日の夜、未沙はノートを開き、思いつく限りの改善点を書き出した。
施術時間の見直し。
カウンセリングの流れ。
店内BGMの選曲。
アロマの種類。
初回特典の内容。
次回予約の案内の仕方。
書いて、消して、また書く。
ページはすぐに文字で埋まった。
けれど、埋まれば埋まるほど、逆に何が本質なのか分からなくなっていく。
未沙はペンを置き、こめかみを押さえた。
「私、何か間違ってるのかな……」
ぽつりと漏れた声は、静かな部屋に吸い込まれていった。
翌週、以前の職場で世話になった先輩から連絡が来た。
近くまで来たから顔を見に行ってもいいか、と。
未沙は少し迷ったが、断る理由もなく「ぜひ」と返した。
夕方、店に現れた先輩は、変わらない明るさで「頑張ってる?」と笑った。
差し入れの焼き菓子を受け取りながら、未沙も笑顔を作る。
「なんとか、って感じです」
「そっか。無理してない?」
「してないですよ」
反射みたいにそう答えてから、未沙は自分の声が少し硬かったことに気づいた。
先輩は店内を見回しながら、「やっぱり未沙っぽいね、この空間」と感心したように言った。
「すごく綺麗。落ち着くし、センスある」
「ありがとうございます」
「お客さん、増えてる?」
「……ぼちぼちです」
その曖昧な返事だけで、先輩は何か察したらしかった。
「そっか」
「……」
「未沙、真面目だからなあ」
その言い方に、未沙は少しだけ眉を寄せた。
「真面目って、悪い意味ですか?」
「ううん。悪い意味じゃないよ。ただ、未沙って“ちゃんとしなきゃ”が強いから」
「ちゃんとするのは大事じゃないですか」
「大事だよ。でもね、お客さんって、正しいものが欲しいとは限らないんだよね」
未沙は黙った。
先輩は受付の椅子に腰かけ、やわらかい口調のまま続ける。
「たとえば未沙は、相手のためを思って、いちばん良いと思う施術を選ぶでしょ」
「……はい」
「それ自体はすごくいいこと。でも、お客さんが本当に欲しいのが“正解”とは限らないの」
「どういうことですか?」
「今日はとにかく疲れてるから黙って癒やされたい人もいるし、少し話を聞いてほしい人もいるし、完璧な施術より“自分のことを分かってもらえた”って感じたい人もいる。未沙はたぶん、そこに行く前に“最善”を出しちゃうんだよ」
その言葉は、未沙の胸に静かに刺さった。
最善を出すことの、何がいけないのだろう。
自分はずっと、お客様のためを思ってやってきたのに。
「でも……満足してもらえるようにって考えるのは、間違ってないですよね」
「間違ってないよ」
「じゃあ」
「ただ、“未沙が思う満足”と、“相手が求める満足”が、同じとは限らないってこと」
未沙は何も言えなかった。
分かるような、分かりたくないような言葉だった。
先輩は責めるでもなく、ただ穏やかに笑った。
「未沙は技術あるし、気遣いもできる。だからこそ、ちょっともったいないなって思っただけ」
「……」
「頑張りすぎると、相手の声より自分の理想のほうが大きく聞こえちゃうこと、あるから」
そのあと先輩は長居せず、「また来るね」と言って帰っていった。
ドアが閉まったあとも、未沙はしばらくその場から動けなかった。
相手の声より、自分の理想のほうが大きく聞こえる。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
そんなつもりはなかった。
自分はちゃんとお客様を見ているつもりだった。
相手のためを思って、いちばん良いものを差し出しているつもりだった。
でも、もし本当にそうなら、どうして結果がついてこないのだろう。
未沙はその夜、ひとりで営業後の店内を歩き回った。
照明の明るさは適切か。
香りは強すぎないか。
メニュー表は見やすいか。
価格設定は妥当か。
目につくものをひとつずつ確認していく。
けれど、どこを見ても「これだ」と思える原因は見つからない。
むしろ、全部にこだわって作ってきたからこそ、どれも簡単には変えられなかった。
この照明は、落ち着いてもらうために選んだ。
この香りは、緊張をほどくために選んだ。
このメニュー構成は、身体の状態をきちんと整えるために考えた。
全部、意味がある。
全部、お客様のためだった。
それを「違うかもしれない」と認めることは、自分が信じて積み上げてきたものを否定することに近かった。
「……変えたほうがいいのかな」
鏡に映る自分へ問いかけるように呟く。
けれど、すぐに首を振った。
まだ早い。
もう少し続ければ分かってもらえるかもしれない。
今は認知が足りないだけかもしれない。
お客様の層が合っていないだけかもしれない。
そうやって理由を並べるたびに、胸の奥では別の声が小さく囁く。
本当は、努力の方向がずれているんじゃないの。
本当は、見えていないだけなんじゃないの。
未沙はその声を振り払うように、強く目を閉じた。
認めたくなかった。
自分の理想が、誰かの求めるものと噛み合っていないかもしれないなんて。
だってこの店は、未沙が信じた「良いもの」を形にした場所なのだ。
それを手放したら、何を信じて進めばいいのか分からなくなる。
翌日から、未沙はさらに仕事にのめり込んだ。
接客の本を読み直し、人気店のSNSを研究し、空き時間には近隣の競合店の情報を調べる。
施術の流れも細かく見直し、カウンセリングの質問項目も増やした。
少しでも改善できることがあるなら全部やろうと、自分を追い立てるように動き続けた。
けれど、その努力はどこか空回りしていた。
考えれば考えるほど、何が正解なのか分からなくなる。
分からないまま動くから、余計に疲れる。
疲れるのに、止まるのはもっと怖い。
未沙は誰にも相談しなかった。
先輩にもう一度聞けば、何かヒントをもらえたかもしれない。
同業の知人に弱音を吐けば、少しは楽になれたかもしれない。
でも、それができなかった。
夢を叶えた自分が、こんなにも早く壁にぶつかっていることを知られたくなかった。
「やっぱり独立なんて無謀だった」と思われるのが怖かった。
何より、自分自身がまだ「助けて」と言えるほど、負けを認められていなかった。
夜遅く、閉店後の店内で、未沙はひとり売上表を見つめていた。
数字は先月より少しだけ悪い。
大きく崩れているわけではない。
でも、良くなっているとも言えない。
じわじわと首を絞められるような停滞だった。
「……頑張ってるのに」
その言葉は、誰への訴えでもなく、ただ自分の中からこぼれ落ちた。
頑張っている。
本当に頑張っている。
なのに届かない。
その現実が、未沙の心を少しずつ削っていく。
店内の鏡に映る自分は、相変わらずきちんとして見えた。
髪も整っているし、メイクも崩れていない。
笑おうと思えば、ちゃんと笑える顔だ。
でも、その内側では、焦りと不安が静かに膨らみ続けていた。
理想だけでは足りない。
そんなこと、本当はとっくに分かっていたのかもしれない。
けれど未沙は、まだその先へ進めなかった。
理想を手放したくなかった。
自分が信じてきた「良いもの」を、簡単に曲げたくなかった。
それが未沙の誇りであり、ここまで来るために支えてくれたものだったからだ。
だから彼女は、苦しくてもなお、その理想を抱えたまま前へ進もうとする。
誰にも頼らず。
誰にも見せず。
自分ひとりで、なんとかしようとしながら。
その抱え込みこそが、さらに彼女を追い詰めていくのだと、このときの未沙はまだ気づいていなかった。




