第3話 夢の代償
サロンの鍵を初めて自分の手で回した日のことを、未沙はきっと一生忘れない。
まだ朝の早い時間で、通りには人影もまばらだった。
シャッターの閉まった店が並ぶ中、自分の店の前に立ったとき、胸の奥がじんわり熱くなった。
小さなテナントだった。
駅から少し歩くし、人通りが多いとは言えない場所だった。
それでも未沙にとっては、何より大切な「自分の城」だった。
白を基調にした壁。
やわらかな間接照明。
圧迫感のないように選んだ鏡と椅子。
受付に置いた小さな花瓶には、淡い色の花を一輪だけ挿した。
派手ではない。
けれど、来てくれた人が少しだけ肩の力を抜いて、自分を好きになれるような空間にしたかった。
「……できた」
誰もいない店内でそう呟いた瞬間、未沙は思わず笑ってしまった。
本当に、できたのだ。
ずっと夢見てきた美容サロン。
いつか自分の店を持ちたいと願って、技術を磨いて、接客を学んで、少しずつ貯金をしてきた。
簡単な道ではなかったけれど、それでもここまで来た。
嬉しかった。
怖いくらいに嬉しかった。
オープン初日、未沙はいつもより少しだけ早くメイクを整え、鏡の前で深呼吸をした。
緊張で手が冷たかったが、それすら心地よかった。
今日から始まるのだ。
自分の手で、自分の場所で、お客様を迎える日々が。
「よし」
小さく気合いを入れて、未沙はドアの鍵を開けた。
最初の数日は、知人や以前の職場で担当していたお客様が何人か来てくれた。
「おめでとう」と花を持ってきてくれる人もいたし、「やっと夢が叶ったね」と笑ってくれる人もいた。
そのたびに未沙は胸がいっぱいになった。
「すごく素敵なお店だね」
「落ち着く」
「未沙ちゃんらしい」
そんな言葉をもらうたび、自分の選んできたものは間違っていなかったのだと思えた。
施術を終えたお客様が鏡を見てふっと表情をやわらげる瞬間が、何より好きだった。
その顔を見るたびに、ああ、この仕事を選んでよかったと心から思った。
忙しくても苦ではなかった。
むしろ、忙しいことが嬉しかった。
朝早くから準備をして、営業が終われば片づけと売上の確認、備品の発注、予約管理、SNSの更新。
帰宅してからも、次はどんなキャンペーンを打つか、どんなサービスを増やせるかを考え続けた。
眠る前にスマートフォンで内装の写真を見返しては、ひとりで満足げに笑うこともあった。
ここが私の場所なんだ。
やっと手に入れたんだ。
そう思うだけで、疲れさえ愛おしかった。
けれど、現実は少しずつ、静かに形を変えていった。
最初の一か月が過ぎた頃から、予約表に空白が目立ち始めた。
オープン直後の勢いは長く続かなかった。
知人の来店は一巡し、紹介も思ったほど広がらない。
SNSの反応は悪くないのに、予約にはなかなか結びつかない。
「……あれ?」
最初は、たまたまだと思った。
時期が悪いだけかもしれない。
もう少し認知が広がれば変わるかもしれない。
そう思って、未沙はさらに動いた。
写真の撮り方を工夫した。
投稿の頻度を増やした。
初回限定のメニューも作った。
近隣の店を調べて、価格設定も見直した。
できることは全部やったつもりだった。
それでも、予約表の空白は思うようには埋まらなかった。
来店してくれたお客様の満足度が低いわけではない。
施術後には「気持ちよかった」「また来ます」と言ってくれる人も多い。
なのに、次の予約が入らない。
リピート率が、伸びない。
その数字を見た夜、未沙はノートパソコンの画面を前に、しばらく動けなかった。
「なんで……?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
技術には自信があった。
接客だって、手を抜いていない。
空間づくりにもこだわった。
お客様に少しでも心地よく過ごしてもらえるよう、細かいところまで気を配ってきた。
それなのに、結果がついてこない。
何が足りないのか分からないまま、時間だけが過ぎていく。
月末が近づくと、未沙は売上表と経費一覧を何度も見返すようになった。
家賃。
光熱費。
材料費。
広告費。
細々とした消耗品。
そして、自分の生活費。
ひとつひとつは理解していたはずの数字が、現実として並ぶと急に重く見えた。
売上が少し落ちるだけで、こんなにも苦しくなるのか。
たった数人予約が減るだけで、こんなにも心がざわつくのか。
未沙は初めて、夢を持つことと、それを維持することがまったく別の話なのだと知った。
夢は、叶えた瞬間に終わりではない。
むしろそこから先のほうが、ずっと長くて、ずっと厳しい。
ある日の午後、予約の入っていない数時間がぽっかり空いた。
窓の外では人が行き交っている。
近くのカフェからは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
なのに店内には、ヒーリングミュージックだけが静かに流れていた。
未沙は受付の椅子に座り、予約表を見つめた。
空白。
空白。
また空白。
その白さが、責めるように目に刺さる。
何かしなきゃ。
考えなきゃ。
動かなきゃ。
そう思うのに、体が少しも動かなかった。
代わりに、頭の中だけが忙しく回る。
もっと安くしたほうがいいのかな。
でも安売りしたら、この店の価値まで下がる気がする。
新しいメニューを増やす?
でも準備にお金がかかる。
広告を強める?
その費用はどこから出すの。
考えれば考えるほど、出口が見えなくなる。
未沙は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「大丈夫。まだ始まったばかり」
声に出してみる。
けれど、その言葉は自分を励ますというより、崩れそうな心を無理やり押さえつけるための呪文みたいだった。
夜になると、未沙は営業後の店内をひとりで片づけながら、鏡に映る自分の顔を見た。
少しやつれている。
目の下には薄く影ができていた。
「……だめだな」
こんな顔でお客様を迎えられるわけがない。
未沙は洗面台で冷たい水を手に取り、頬を軽く押さえた。
それから鏡に向かって、口角を上げてみる。
「いらっしゃいませ」
「本日はありがとうございます」
「お疲れではないですか?」
接客用の笑顔と声を、何度も確認する。
大丈夫。
私はできる。
まだやれる。
そうやって自分を奮い立たせるしかなかった。
けれど、焦りは少しずつ日常の隙間に入り込んでいった。
朝、目が覚めた瞬間に売上のことを考える。
食事をしていても、次の予約通知が来ないかスマートフォンを気にしてしまう。
夜、布団に入っても、経費の計算が頭から離れない。
眠りは浅くなり、肩や首のこわばりが取れなくなった。
それでも休もうとは思えなかった。
休んだら、そのぶんだけ置いていかれる気がした。
ある日、以前から来てくれていたお客様が、施術後にやわらかく笑って言った。
「未沙ちゃん、ちょっと無理してない?」
「え?」
「なんか、前より疲れてる顔してる」
未沙は一瞬だけ息を止めたが、すぐに笑顔を作った。
「そんなことないですよ」
「ほんとに?」
「はい。元気です」
嘘だった。
元気なわけがない。
でも、ここで弱音を吐くわけにはいかなかった。
お客様に心配をかけたくない。
夢を叶えた自分が、こんなにも簡単に揺らいでいるなんて知られたくない。
何より、自分自身が認めたくなかった。
こんなはずじゃなかった。
もっと、うまくやれると思っていた。
好きなことを仕事にして、自分の理想の空間で、お客様を笑顔にしていく。
その未来を、もっとまっすぐ信じていた。
なのに現実は、理想だけでは回らない。
技術があるだけでは足りない。
センスがあるだけでも足りない。
好きという気持ちだけでは、店は続かない。
夢には、代償があった。
それはお金だけではない。
時間も、体力も、心の余白も、少しずつ削られていく。
それでも未沙は、立ち止まれなかった。
ここで諦めたら、何のためにあの日、五条の手を離したのか分からなくなる。
あの別れまで、無駄だったことになってしまう気がした。
その思いだけが、未沙をぎりぎりのところで支えていた。
閉店後、店の明かりを落としたあとも、未沙はしばらく受付に座っていた。
薄暗い店内は、昼間より少しだけ広く見える。
静かで、綺麗で、未沙が思い描いた通りの空間だった。
こんなに好きな場所なのに。
こんなに大切な場所なのに。
どうして、こんなにも苦しいんだろう。
未沙はテーブルの上に置いた売上ノートへ視線を落とした。
数字は嘘をつかない。
頑張ったつもりでも、足りていない現実だけがそこにある。
悔しかった。
情けなかった。
でも、それ以上に怖かった。
もしこのまま続かなかったらどうしよう。
もし、守れなかったらどうしよう。
もし、夢を叶えたはずの自分が、結局何も残せなかったら。
胸の奥に広がる不安は、もう簡単には見ないふりができない大きさになっていた。
未沙はそっと目を閉じる。
思い出すのは、三年前の春の終わり。
駅の改札前で、笑って送り出してくれた五条の顔だった。
『夢、叶えてよ』
『未沙ならできる』
あの言葉が、今も胸の奥に残っている。
「……ごめんね」
誰もいない店内で、未沙は小さく呟いた。
まだ、叶えたなんて言えない。
夢の入り口に立っただけで、こんなにもぐらついている。
それでも、泣いている暇なんてなかった。
未沙はゆっくり立ち上がり、売上ノートを閉じた。
鏡の前に立ち、乱れた髪を整える。
少しだけ頬を叩いて、無理やり背筋を伸ばした。
「明日も、やるしかない」
その声はかすれていたが、完全には折れていなかった。
夢は、叶えたら終わりじゃない。
叶えたあとも守り続けなければならない。
その重さを、未沙は今、身をもって知っている。
サロンの鍵を閉め、夜の街へ出る。
春の名残を含んだ風が頬を撫でた。
見上げた空には、星も月も見えなかった。
ただ、暗い夜が静かに広がっている。
それでも未沙は、俯かなかった。
苦しくても、怖くても、ここで立ち止まるわけにはいかない。
自分で選んだ夢なのだから。
そう言い聞かせながら歩き出したその背中には、希望の残り香と、まだ名前のつかない焦りが、同じくらい濃くまとわりついていた。




