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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬
第1章 泡の記憶
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第2話 空白の三年

 別れてから三年が経った。


 三年。

 口にしてしまえば短いようでいて、実際に過ごした時間としては、あまりにも長かった。


 季節は三度巡った。

 春が来て、夏が過ぎて、秋が深まり、冬が終わる。

 その繰り返しの中で、五条の生活は表面上、何ひとつ問題なく進んでいた。


 朝起きて、仕事へ行く。

 昼は取引先との打ち合わせに追われ、夜は残った業務を片づける。

 休日には友人に誘われて食事に出かけることもあるし、たまには一人で映画を観ることもある。


 ちゃんと食べて、ちゃんと働いて、ちゃんと眠る。

 少なくとも周囲から見れば、五条はごく普通に日常を送っている社会人だった。


 けれど、その「普通」の中にだけ、どうしても埋まらない空白があった。


 それは、未沙だった。


 忘れようとしたことがないわけではない。

 むしろ最初の一年は、忘れなければいけないと何度も自分に言い聞かせていた。


 彼女は自分で選んだ道を進んでいる。

 夢を叶えるために、ちゃんと前へ進んでいる。

 だったら、自分だけがいつまでも立ち止まっているのは違う。

 そう思って、仕事に打ち込んだ。

 予定を詰めた。

 考える暇をなくそうとした。


 それでも、ふとした瞬間に思い出してしまう。


 コンビニで新作の炭酸飲料を見かけたとき。

 駅前の花屋に淡いピンクのガーベラが並んでいたとき。

 疲れて帰った夜、肩に鈍い重さを感じたとき。


 未沙なら、こういうとき「お疲れさま」って笑ってくれたな、と思う。


 そのたびに、胸の奥に小さな痛みが走る。

 激しく刺さるような痛みではない。

 もう三年も経っているから、傷口はとっくに塞がっているはずなのだ。

 けれど、天気の悪い日に古傷が疼くみたいに、思い出は何の前触れもなく静かに痛んだ。


「お前さ」


 金曜の夜、仕事帰りに立ち寄った居酒屋で、向かいに座る友人が呆れたように言った。


「またぼーっとしてる」

「してないよ」

「してるって。さっきから焼き鳥一本持ったまま止まってるし」

「……マジか」


 五条は苦笑して、ようやく手元の焼き鳥に口をつけた。

 炭火の香ばしさが広がる。うまいはずなのに、どこか味が薄い気がする。


 友人はジョッキを傾けながら、じろりと五条を見た。


「で、何考えてたの」

「別に」

「その“別に”で誤魔化せる顔してないんだよなあ、お前」


 図星を突かれて、五条は曖昧に笑うしかなかった。


 この友人とは学生時代からの付き合いで、未沙のこともよく知っている。

 付き合い始めた頃の浮かれた五条も、別れた直後のどうしようもなく沈んだ五条も、全部見られてきた。


「……そんなに分かりやすい?」

「分かりやすい。三年前からずっと」

「ひどいな」

「ひどくない。事実」


 友人は枝豆の皿を五条のほうへ押しやりながら、少しだけ声の調子をやわらげた。


「まだ忘れられないんだろ」

「……忘れなきゃとは思ってるよ」

「思ってるだけで、全然忘れる気ないだろ」

「ないわけじゃない」

「じゃあ、忘れた?」

「……」


 答えられなかった。


 答えられない時点で、もう答えは出ているようなものだった。


 友人はため息をつき、それ以上責めるようなことは言わなかった。

 代わりに、ジョッキの水滴を指でなぞりながら、ぽつりと呟く。


「まあ、無理に忘れなくてもいいんじゃないの」

「え?」

「だって、好きだったんだろ。本気で」

「……うん」

「だったら、簡単に消えるほうが不自然だよ」


 五条は少しだけ目を伏せた。


 好きだった。

 いや、たぶん今も好きなのだと思う。


 ただ、その気持ちを今さらどうこうしたいわけではない。

 会いたいとか、やり直したいとか、そういう願望を強く抱いているわけでもない。

 少なくとも、自分ではそう思っていた。


 未沙がどこかで元気にしていてくれたらいい。

 夢を叶えて、笑っていてくれたら、それでいい。


 それが本心だったし、そう思うことでしか、自分の気持ちに折り合いをつけられなかった。


「たまにさ」


 五条はグラスの水を一口飲んでから、静かに言った。


「今どうしてるのかなって思うんだよ」

「うん」

「ちゃんと店、やれてるのかなとか」

「うん」

「忙しくしてるのかなとか。相変わらず無茶してないかなとか」


 言葉にしてしまうと、思っていた以上に未沙のことばかり考えている自分が可視化されてしまって、少しだけ苦くなる。


 友人は茶化さなかった。

 ただ真面目な顔で聞いている。


「でも、連絡しようとは思わないんだ」

「なんで」

「……邪魔したくないから」


 それは、三年前から変わらない答えだった。


 夢を叶えるために、自分の人生を選んだ未沙。

 その選択を、今さら自分の寂しさで揺らがせたくなかった。


 もし連絡して、彼女の心を乱したら。

 もし、せっかく前を向いている彼女に、過去を思い出させてしまったら。


 そう考えると、何もできなくなる。


「優しいねえ」

「優しくないよ」

「いや、優しいだろ」

「違う。たぶん、臆病なだけ」


 五条は自嘲気味に笑った。


 本当に優しい人間なら、相手の幸せを願うだけで満足できるのかもしれない。

 でも自分は違う。

 未沙の幸せを願いながら、その幸せの中に自分がいないことに、どこかで傷ついている。


 だからこれは、綺麗な自己犠牲なんかじゃない。

 ただ、踏み込んで傷つくのが怖いだけだ。


 友人はしばらく黙っていたが、やがて「まあ」と肩をすくめた。


「臆病でもなんでも、三年も同じところにいるのはさすがに長いって」

「分かってるよ」

「分かってる顔じゃないんだよなあ」

「うるさいな」

「図星だからだろ」


 五条は苦笑した。


 こうして軽口を叩けるくらいには、日常はちゃんと回っている。

 笑えるし、働けるし、食欲だってある。

 なのに、心のどこかだけが、三年前のあの日から置き去りのままだった。


 店を出る頃には、夜風が少し冷たくなっていた。


「送る?」

「いや、大丈夫」

「そ。じゃ、また来週な」

「うん」


 友人と別れ、一人で駅まで歩く。


 金曜の夜の街は明るく、人通りも多い。

 笑い声があちこちから聞こえてきて、誰もがそれぞれの時間を生きている。


 その中を歩きながら、五条はふと、ショーウィンドウに映った自分の姿を見た。


 スーツ姿の、どこにでもいる男。

 疲れてはいるが、特別不幸そうにも見えない。

 むしろ、ちゃんとしているほうだと思う。


 それなのに、どうしてこんなにも空っぽなのだろう。


 未沙と別れた直後は、もっと分かりやすく苦しかった。

 眠れない夜もあったし、何をしても手につかない日もあった。

 けれど時間が経つにつれて、痛みは少しずつ薄れていった。


 薄れていったはずなのに、消えなかった。


 痛みがなくなったわけではなく、ただ生活の底に沈んで見えにくくなっただけなのだと、今なら分かる。


 駅のホームで電車を待ちながら、五条はスマートフォンを取り出した。

 特に用事があるわけでもなく、ただ手持ち無沙汰で画面を眺める。


 連絡先の一覧を開いて、すぐに閉じた。


 未沙の名前は、もうそこにはない。

 別れたあと、自分で消した。

 残しておいたら、きっと何かの拍子に連絡してしまうと思ったからだ。


 消した瞬間のことを、今でも覚えている。

 指先が妙に冷たくて、たった数秒の操作なのに、ひどく残酷なことをしている気がした。


 でも、それでよかったのだと思う。

 少なくともあのときは、それが自分にできる精一杯の誠実さだった。


 電車がホームに滑り込んでくる。

 扉が開き、人が乗り降りする。


 五条は流れに乗って車内へ入り、吊り革につかまった。

 窓の外に流れていく夜の街をぼんやり眺めながら、ふと、未沙の笑顔を思い出す。


 夢の話をしているときの、少し早口になるところ。

 うまくいかないことがあると、唇を尖らせて拗ねるところ。

 でも最後には、自分で笑って「頑張るしかないか」って前を向くところ。


 ああ、本当に好きだったんだな、と改めて思う。


 そしてたぶん、その「好きだった」は、まだ過去形になりきっていない。


 家に着くと、部屋の中は静かだった。

 当たり前だ。一人暮らしなのだから。


 ネクタイを緩め、ソファに腰を下ろす。

 テーブルの上には、朝飲みかけたままのペットボトルの炭酸水が置いてあった。

 気の抜けたそれを口に含んで、五条は小さく顔をしかめる。


「……まず」


 思わず漏れた声に、自分で少し笑ってしまった。


 炭酸は、抜けるとこんなにも味気ない。

 刺激も、爽快さも、何も残らない。


 そのくせ、飲んだ瞬間に思い出すのは、未沙が「ひかるんってほんと炭酸好きだよね」と笑っていた顔だった。


 結局、何をしてもそこへ戻る。


 五条はペットボトルをテーブルに戻し、深く息を吐いた。


 前に進めていない。

 そんなことは、自分がいちばんよく分かっている。


 でも、無理に進もうとして、未沙との時間まで雑に手放したくはなかった。

 あの三年が、自分にとって大切だったことまで、なかったことにはしたくなかった。


「元気でいてくれたら、それでいい」


 誰に聞かせるでもなく、五条は静かな部屋でそう呟いた。


 夢を叶えていてくれたらいい。

 笑っていてくれたらいい。

 自分の知らない場所で、ちゃんと幸せでいてくれたら、それでいい。


 そう思うことだけが、今の自分に許された願いのような気がした。


 けれど本当は、その願いの奥に、もっと小さくて身勝手な本音が隠れている。


 もし、どこかで偶然会えたなら。

 もし、彼女が笑って「久しぶり」と言ってくれたなら。

 そのとき自分は、ちゃんと笑えるだろうか。


 そんなことを考えてしまう時点で、やっぱりまだ終われていないのだろう。


 窓の外では、遠くの道路を走る車の音がかすかに聞こえていた。

 夜は静かで、部屋の中には自分の呼吸だけが残る。


 五条はソファに深く身を預け、目を閉じた。


 三年。

 長いようで、あっという間だった。

 けれど心の中では、あの日から一歩も動いていない場所がある。


 未沙のいない日常には、もう慣れた。

 慣れたはずなのに、埋まらない。


 その空白だけが、今日も変わらず、五条の中にあった。


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