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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第1章 泡の記憶
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第1話 別れの温度

第1話 別れの温度


 春の終わりだった。


 駅前の並木道を渡る風はやわらかく、夕方の光はどこまでも穏やかだったのに、その日だけは、世界の色が少し薄く見えた。


「……本当に、行くんだね」


 五条はそう言って、目の前に座る未沙を見つめた。


 小さなカフェの窓際の席。テーブルの上には、飲みかけのアイスティーと、ほとんど手のつけられていないカフェラテ。氷が溶ける音だけが、妙に大きく耳に残る。


 未沙はカップの縁にそっと指を添えたまま、小さく笑った。


「うん。やっと、決めたの」


 その笑顔は、いつものように明るく見えた。けれど五条には分かっていた。彼女が本当に平気なときは、そんなふうに笑わない。


 未沙は昔からそうだった。

 泣きたいときほど、困らせたくない相手の前では笑ってしまう。


「物件も、だいたい決まってて。小さいけど、駅から少し歩いたところに、ちょうどいい場所があったの。内装はこれからだけど、ちゃんと自分の好きな空間にできそうで……」

「そっか」


 五条は頷いた。


 頷きながら、自分の喉の奥がひどく乾いていることに気づく。


 未沙がずっと夢見ていた美容サロンの開業。

 それは、彼女と出会った頃から何度も聞いてきた未来の話だった。


 いつか自分のお店を持ちたいこと。

 来てくれた人が、鏡を見て少しだけ自信を持てるような場所を作りたいこと。

 ただ綺麗にするだけじゃなくて、心まで軽くなるような時間を届けたいこと。


 その夢を語る未沙の目は、いつだってまっすぐで、眩しいほど綺麗だった。


 だからこそ五条は、ずっと応援してきた。

 彼女がその未来に近づくたび、自分のことのように嬉しかった。


 ――嬉しかった、はずだった。


「ひかるん?」


 呼ばれて顔を上げると、未沙が少しだけ不安そうにこちらを見ていた。


「ごめん。ちゃんと聞いてるよ」

「ううん……なんか、無理してない?」


 その一言に、五条は思わず笑ってしまった。


「それ、今言う?」

「だって」


 未沙は困ったように眉を下げ、それから視線を落とした。


「いちばん無理してる顔、してるから」


 図星だった。


 五条は返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。

 何を言っても、きっと本音になってしまう気がした。


 行かないでほしい。

 夢なんて、ここからでも追える方法を一緒に探せばいい。

 離れたくない。

 そばにいてほしい。


 そんな言葉が喉元までせり上がってくる。


 けれど、それを口にした瞬間、彼女の未来を自分の寂しさで縛ってしまう気がして、五条はただ息を飲み込んだ。


「未沙が決めたことなら、応援したいよ」


 ようやく出てきたのは、そんな優等生みたいな言葉だった。


 未沙は一瞬だけ目を見開き、それからふっと笑った。


「……そっか」

「うん」

「ひかるんは、そう言うと思った」


 その声音はやさしかった。

 やさしかったのに、なぜか少しだけ寂しそうでもあった。


 五条は胸の奥がきしむのを感じた。


 本当は、違う。

 応援したいのは本当だ。

 でも、それだけじゃない。


 夢を叶えてほしい気持ちと、離れたくない気持ちが、同じくらい強く胸の中でぶつかっている。

 なのに自分は、その半分しか渡していない。


「ねえ、ひかるん」


 未沙が静かに言った。


「私ね、ずっと怖かったの」

「……何が?」

「夢が叶わないことも怖かったけど、それより、夢を選んだら大事なものを失うかもしれないって思うのが、ずっと怖かった」


 五条は黙って彼女の言葉を待った。


 未沙はカフェラテの表面を見つめたまま、ぽつりぽつりと続ける。


「でも、たぶん今行かなかったら、私はずっと後悔する。ひかるんと一緒にいる未来を選んでも、きっとどこかで、自分で自分を許せなくなる気がするの」

「……うん」

「そんなふうになったら、たぶん私は、ひかるんの隣でちゃんと笑えない」


 その言葉は、静かだった。

 静かなのに、逃げ場がなかった。


 五条はようやく理解する。

 これは、夢を取るか恋を取るか、そんな単純な話ではないのだと。


 未沙は、自分の人生をちゃんと自分で選ぼうとしている。

 その選択の中に、五条を嫌いになった気持ちなんてひとつもない。

 むしろ、好きだからこそ中途半端にしたくないのだ。


「未沙」


 五条は彼女の名前を呼んだ。


 呼んだだけで、その先が続かなかった。


 好きだよ。

 待ってるよ。

 離れても、ずっと大事だよ。


 言いたいことはたくさんあるのに、どれも今のこの場では正解にならない気がした。


 未沙はそんな五条を見つめて、少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「ごめんね」

「謝らないで」

「でも……」

「謝らないでよ」


 思ったより強い声が出て、自分でも驚いた。


 未沙も目を丸くしている。


 五条は一度視線を落とし、ゆっくり息を整えてから言った。


「未沙がちゃんと考えて決めたことを、謝られるのは嫌だ」

「……ひかるん」

「寂しいけどね。すごく寂しい。でも、それとこれとは別だから」


 未沙の瞳が、じわりと潤む。


 五条はそれを見ないふりをして、できるだけ穏やかに笑った。


「夢、叶えてよ」

「……うん」

「未沙ならできる」

「……うん」

「だから、ちゃんと行っておいで」


 その瞬間、未沙の頬を一筋の涙が伝った。


 慌てて拭おうとして、でも拭いきれず、彼女は困ったように笑う。


「やだな……今日、泣かないって決めてたのに」

「無理でしょ、それは」

「ひかるんが優しいこと言うからだよ」

「優しくなんかないよ」


 五条は苦く笑った。


 本当に優しいなら、こんなに苦しくない。

 本当に強いなら、笑って送り出せる。


 けれど実際の自分は、彼女の夢を応援したい気持ちと、手放したくない気持ちのあいだで、ただ立ち尽くしているだけだった。


「ねえ」


 未沙がそっと手を伸ばし、テーブルの上で五条の指先に触れた。


 そのぬくもりに、胸の奥が大きく揺れる。


「私、頑張るね」

「うん」

「ちゃんと、やりきる」

「うん」

「だから……」


 未沙はそこで言葉を切った。


 だから、何だろう。

 待っていてほしい、だろうか。

 忘れないでいてほしい、だろうか。

 それとも、幸せでいてほしい、だろうか。


 けれど彼女は、どれも口にしなかった。


 たぶん五条も、聞かないほうがいいと分かっていた。


 約束は、ときに希望になる。

 でも同時に、未来を縛る鎖にもなる。


 今の二人には、どちらも似合わなかった。


 未沙は小さく笑って、言い直した。


「……ううん。なんでもない」

「そっか」

「うん」


 窓の外では、夕暮れの光が少しずつ色を変えていた。

 昼と夜のあいだの、曖昧でやさしい時間。

 まるで今の二人みたいだと、五条はぼんやり思った。


 好きなのに、手を離す。

 大事だからこそ、引き止めない。


 そんな選択が本当に正しいのか、誰にも分からない。

 それでも二人は、自分たちなりに相手を思った結果として、この別れを選ぼうとしていた。


 会計を済ませて店を出ると、外の風は少しだけ冷たくなっていた。


 駅までの道を、二人は並んで歩く。

 いつもなら他愛もない話をする距離なのに、その日はどちらも言葉が少なかった。


 やがて改札が見えてくる。


 ここで、本当に終わるのだと思った。


「じゃあ……行くね」


 未沙が立ち止まり、五条を見上げる。


「ああ」

「見送り、ここまででいいよ」

「うん」

「そのほうが、ちゃんと行けそうだから」


 五条は頷いた。


 頷くことしかできなかった。


 未沙は少しだけ迷うように視線を揺らし、それからふわりと笑った。

 泣きそうなのに、やっぱり笑うのだ。


「ひかるん」

「ん?」

「今まで、ありがとう」

「……こちらこそ」

「すごく、幸せだったよ」


 その言葉に、五条の胸の奥で何かが音を立てて崩れそうになる。


 けれど彼は、最後まで笑った。


「僕もだよ」

「……うん」


 未沙は唇をきゅっと結び、それから小さく手を振った。


 五条も手を上げる。


 たったそれだけの仕草なのに、どうしようもなく遠い。


 未沙は踵を返し、改札へ向かって歩き出す。

 一度も振り返らないまま、その背中は人波の中へ溶けていった。


 五条はしばらく、その場から動けなかった。


 追いかけようと思えば、追いかけられたかもしれない。

 名前を呼べば、彼女は立ち止まったかもしれない。


 それでもしなかったのは、彼女の夢を信じたかったからだ。

 そして同時に、自分がその夢の重さを受け止めきれるほど強くないことも、どこかで分かっていたからだった。


 春の終わりの風が、頬を撫でていく。


 さっきまで隣にいたはずのぬくもりは、もうどこにもない。


 それなのに、指先にはまだ、テーブル越しに触れた未沙の体温が残っていた。


 消えないな、と五条は思う。


 こんなふうに別れてしまっても、きっと簡単には消えない。

 好きだった気持ちも、幸せだった記憶も、引き止められなかった後悔も。


 全部、消えないまま残っていくのだろう。


 五条はゆっくりと息を吐き、暮れかけた空を見上げた。


 その空はどこまでも静かで、青くて、残酷なくらい綺麗だった。


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