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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第2章 青空のその先
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第48話 朝の残り香、青空のその先

 朝の光が、レースのカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。


 白い壁に淡く反射したその明るさが、まだ少し眠たげな部屋の空気をゆっくりと起こしていく。

 窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。


 結婚して、数か月。


 未沙はその朝も、いつものように少し早く目を覚ました。


 隣を見ると、五条はまだ眠っている。

 規則正しい呼吸。

 穏やかな寝顔。

 無防備なのに、どこか静かな安心感をくれる横顔。


 未沙は枕に頬を預けたまま、しばらくその顔を見つめていた。


 こうして朝を迎えることが、いまだにときどき不思議に思える。


 遠回りした。

 失いかけた。

 何度もすれ違った。

 泡のように消えてしまいそうだった時間も、たしかにあった。


 それなのに今は、目を覚ませば隣にいる。

 手を伸ばせば届く場所にいて、

 名前を呼べば、ちゃんと振り向いてくれる。


 その当たり前が、未沙にはまだ少しだけ奇跡みたいだった。


 そっとベッドを抜け出し、寝室のドアを静かに開ける。

 足音を忍ばせてキッチンへ向かうと、朝のひんやりした空気が肌に心地よかった。


 トースターにパンを入れ、コーヒーを淹れる準備をする。

 やかんの湯気が立ちのぼり、豆の香ばしい香りが少しずつ部屋に広がっていく。


 しばらくすると、こんがり焼けたトーストの匂いが混ざった。


 トーストとコーヒーの香り。

 それだけで、朝がちゃんと始まっていく気がする。


 未沙はマグカップを並べながら、小さく息をついた。

 静かな朝だった。

 けれどその静けさは、もうひとりきりのものではない。


「……早いね」


 背後から声がして、未沙は振り返った。


 五条が、少し寝癖のついた髪のまま立っていた。

 まだ眠気の残る目でこちらを見ながら、やわらかく笑っている。


「起こしちゃった?」

「ううん。いい匂いがしたから」

「トーストとコーヒーです」

「最高だね」


 未沙は思わず笑った。


「顔、まだ寝てる」

「未沙もすっぴんだよ」

「朝ですから」

「うん、知ってる」


 そんなやり取りが、あまりにも自然で、未沙は胸の奥がじんわりあたたかくなるのを感じた。


 五条はキッチンへ入ってくると、未沙の隣に立った。

 肩が軽く触れそうな距離。

 それだけで、なぜだか少し落ち着く。


「何か手伝う?」

「じゃあ、お皿出して」

「了解」


 食器棚を開ける音。

 カップを置く小さな音。

 何気ない生活音が、朝の部屋に静かに重なっていく。


 未沙はふと、五条の左手に目を留めた。


 薬指に光る指輪。

 自分の指にも、同じように静かな輝きがある。


 二本の指輪は派手ではない。

 けれど、そこにあるだけで十分だった。


 約束は、もう言葉だけのものではない。

 日々の中にちゃんと形を持って存在している。


「どうしたの?」


 五条に聞かれて、未沙は小さく首を振った。


「ううん。……なんでもない」

「そう?」

「ただ、ちゃんとあるなって思って」

「何が?」

「いろいろ」


 五条は一瞬だけ目を瞬かせ、それから未沙の視線の先を追って、自分の指輪を見た。

 そして少しだけ笑う。


「あるね」

「うん」

「消えなかった」

「……うん」


 その一言に、未沙も笑った。


 消えなかった。


 かつて泡のように消えそうだった記憶は、

 いまでは消えない日常の光へと変わっていた。


 朝食を並べ終えると、二人は小さなテーブルを挟んで向かい合った。

 窓から差し込む光が、テーブルの上を明るく照らしている。


「いただきます」

「いただきます」


 トーストをひとくちかじる。

 外はさくっとしていて、中はやわらかい。

 コーヒーを飲むと、少し苦くて、でもその苦みが心地よかった。


「今日、帰り遅くなる?」


 未沙が聞くと、五条はコーヒーカップを置いて少し考えた。


「たぶんそこまで遅くならないと思う」

「ほんと?」

「うん。未沙は?」

「今日は最後の予約が少し長引くかも」

「じゃあ、迎えに行こうか」


 その言葉に、未沙は目を上げた。


「いいの?」

「いいよ」

「疲れてるかもしれないのに」

「会いに行くのは、疲れることに入らないから」


 あまりにもさらりと言うので、未沙は少しだけ困ったように笑った。


「そういうこと、普通に言うよね」

「だめ?」

「だめじゃないけど……慣れない」

「結婚して数か月なのに?」

「そういう問題じゃないの」


 五条は楽しそうに笑った。


 未沙はトーストをもうひとくち食べながら、視線を窓の外へ向けた。

 青空が広がっている。

 高くて、まっすぐで、どこまでも澄んでいる空。


 昔、自分はずっと別々の空の下にいるような気がしていた。

 同じ場所にいても、同じ時間を過ごしていても、どこか届かないものがあるような気がしていた。


 けれど今は違う。


 それぞれの青空を越えて、

 ようやく同じ未来の下に立っている。


 そのことが、未沙には静かにうれしかった。


 朝食のあと、未沙はマグカップを流しに運び、そのまま洗面所へ向かった。

 鏡の中には、まだ少し眠たげな自分の顔が映っている。


 髪を軽くまとめ、バスルームの扉を開ける。


 そこには、あのシャワーヘッドが今も大切に使われていた。


 かつて二人をつないだ、小さなきっかけ。

 何気ないようでいて、たしかに運命の流れを変えたもの。


 未沙はそれを見つめながら、そっと指先で触れた。


 特別な宝物みたいに飾ってあるわけではない。

 今もちゃんと、日常の中で使われている。

 それがなんだか、二人らしいと思った。


 思い出は、しまい込むためだけのものじゃない。

 こうして生活の中に溶け込みながら、静かに残っていくものなのだ。


「未沙?」


 リビングのほうから五条の声がする。


「はーい」

「そろそろ出る準備する?」

「する」


 未沙はもう一度だけシャワーヘッドに目をやってから、バスルームを出た。


 リビングでは、五条がネクタイを整えていた。

 未沙はその前に立つと、自然な動作で結び目を少し直してやる。


「曲がってる」

「ほんとだ」

「朝、ぼんやりしてるから」

「未沙に直してもらえるなら、少しくらいぼんやりしててもいいかな」

「だめです」

「厳しい」

「当然です」


 そう言いながらも、未沙の口元は笑っていた。


 五条はそんな未沙を見つめて、ふっと目を細める。


「今日もきれいだね」

「すっぴんですけど」

「知ってる」

「それ、さっきも言った」

「何回でも言うよ」


 未沙は少しだけ照れて、視線を逸らした。


 こういう何気ない会話のひとつひとつが、

 今の自分たちをつくっているのだと思う。


 劇的なことは、もういらないのかもしれない。

 大きな奇跡も、派手な約束も。


 朝にトーストを焼くこと。

 コーヒーの香りを分け合うこと。

 仕事帰りに迎えに行く約束をすること。

 薬指の指輪が、ふとした瞬間に光ること。


 そういう小さな日常の積み重ねこそが、

 かつて願い続けた幸せの形なのだと、今なら分かる。


 玄関で靴を履きながら、未沙はふと振り返った。


「じゃあ、帰り」

「うん、迎えに行く」

「無理しないでね」

「無理じゃないよ」

「でも」

「未沙」


 名前を呼ばれて、未沙は顔を上げる。


 五条はやわらかく笑っていた。


「約束したでしょ。ちゃんとここにいるって」

「……うん」


 その言葉は、今でも変わらず胸の奥にやさしく響く。


 未沙は小さくうなずいて、笑った。


「じゃあ、待ってる」

「うん。行ってらっしゃい」

「行ってきます」

「行ってきます」


 二人はほとんど同時にそう言って、思わず顔を見合わせた。

 それだけのことが、少しおかしくて、少しうれしい。


 扉を開けると、外には朝の光が満ちていた。


 青空が広がっている。

 どこまでも高く、澄みきった空。


 未沙はその空を見上げて、静かに息を吸った。


 かつて泡のように消えそうだった記憶は、

 いまでは消えない日常の光へと変わっている。


 失いかけた時間も、

 遠回りした日々も、

 痛みも、願いも、祈りも。


 そのすべてを越えて、

 二人はようやくここまで来た。


 それぞれの青空を越え、

 同じ未来の下で穏やかに生きていく。


 それはきっと、誰かに見せるための幸せではない。

 ただ静かに、確かに、自分たちの中で育っていくものだ。


 未沙は薬指の指輪にそっと触れた。

 その隣には、もうひとつのぬくもりがあることを知っている。


 朝の残り香が、まだ部屋の中にやさしく残っていた。

 トーストとコーヒーの香り。

 眠たげな声。

 何気ない約束。

 消えない光。


 未沙はもう一度だけ空を見上げ、それから前を向いて歩き出す。


 青空のその先にも、

 きっと今日と同じように、

 やわらかくて、あたたかな日々が続いていく。


 そう信じられる朝だった。


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