第44話 泡のない夜、泡のある朝
店を出るころには、夜はすっかり深くなっていた。
最後の確認を終え、スタッフたちを見送り、戸締まりをして外へ出る。昼間の熱を失った空気は思ったよりもやわらかく、頬に触れる風は静かだった。通りにはまだ人の気配が残っているのに、不思議と未沙のまわりだけが少し遠くなったように感じる。
さっきまで店の中には、声があった。
人の動きがあった。
やることがあって、考えることがあって、気持ちを置いていく場所があった。
けれど一人になると、胸の奥にしまっていたものが、静かな水面の下からゆっくり浮かび上がってくる。
未沙は駅までの道を歩きながら、小さく息をついた。
今夜は、うれしかった。
五条に見てもらえたこと。
今の自分を、ちゃんと見て、言葉にしてもらえたこと。
あの「すごいね」が、思っていた以上に深く胸に残っている。
それは、ただ褒められたからではなかった。
頑張ってきたことを知っている人に、
昔の自分を知っている人に、
今ここに立っている自分を見てもらえたこと。
そのことが、未沙の中のどこか長い時間触れられずにいた場所へ、静かに届いたのだ。
だからこそ、だった。
満たされた気持ちの奥に、ほんの小さな影のようなものが残っていることに、未沙は気づいてしまった。
電車に揺られ、窓に映る自分の顔をぼんやり見つめる。
少し疲れていて、けれどどこかやわらかい表情をしている。
そんな自分を見ながら、未沙は胸の奥にある違和感の輪郭を、少しずつ確かめていく。
怖いのだ、と思った。
何が、と問われれば、すぐにはうまく答えられない。
けれど確かに、怖かった。
五条がまた、自分の前からいなくなってしまうのではないか。
その思いが形を持った瞬間、未沙はそっと目を伏せた。
昔、失ったことがある。
手を伸ばしかけたものが、届く前に遠ざかっていったことがある。
大切にしたかったものを、大切だと認めるより先に失ってしまったことがある。
あのころは、まだ何も持っていなかった。
夢の途中で、立つ場所も定まらなくて、自分のことで精一杯だった。
だから失うことは痛かったけれど、どこか現実味のない傷でもあった。
けれど今は違う。
今の未沙には、積み重ねてきたものがある。
ここまで来るために費やした時間がある。
ようやく手にした居場所がある。
自分の足で立てているという実感がある。
そして、その先でまた五条とこうして言葉を交わせる時間がある。
だからこそ、失うことが前よりずっと具体的だった。
幸せになりかけた瞬間に、
また何かを失ってしまうのではないか。
そう思ってしまう自分がいた。
駅を降り、マンションまでの道を歩く。
夜は静かで、足音だけがやけに近く聞こえる。
部屋に戻って灯りをつけると、見慣れたはずの空間がひどく静かに感じられた。バッグを置き、靴を脱ぎ、髪をほどく。いつもと同じ動作をしているのに、胸の奥だけが落ち着かない。
喉が渇いて、冷蔵庫を開ける。
中に入っていた炭酸水を一本取り出しかけて、未沙はふと手を止めた。
今夜は、そんな気分ではなかった。
店で飲んだ炭酸水の泡を思い出す。
立ちのぼっては消えていく、小さな透明の粒。
あのときは、自分の中にあるやわらかな幸福とよく似ている気がした。
けれど今は、その軽やかさが少しだけ遠い。
未沙は炭酸水を戻し、代わりにミネラルウォーターを取り出した。
グラスに注いでも、音はほとんどしない。
泡も立たない。
ただ静かな水面が、部屋の灯りを受けてかすかに揺れるだけだった。
ソファに腰を下ろし、グラスを両手で包む。
どうしてこんなふうに不安になるのだろう、と未沙は思う。
今日、何か悪いことがあったわけではない。
むしろ逆だ。
うれしいことがあった。
満たされるような言葉をもらった。
今の自分を見てもらえた。
それなのに、心はそのまま素直に満たされきってはくれない。
幸せに近づくと、怖くなる。
それはたぶん、未沙の中にずっと残っている癖のようなものだった。
何かを大切だと思った瞬間に、それを失う可能性まで一緒に見えてしまう。
手に入るかもしれないと思った瞬間に、なくなる未来まで想像してしまう。
期待しすぎなければ傷つかない。
信じすぎなければ失ったときに壊れずに済む。
そんなふうに、自分でも気づかないうちに心のどこかで身構えてきたのかもしれない。
未沙はグラスの水をひとくち飲んだ。
冷たさが喉を通っていく。
けれど胸の奥のざわめきは、少しも静まらなかった。
五条は、何も約束していない。
これから先のことを言ったわけでもない。
特別な言葉をくれたわけでもない。
ただ、今の未沙を見て、やわらかく「すごいね」と言ってくれただけだ。
それだけだ。
それだけのはずなのに。
未沙は目を閉じた。
それだけのことが、こんなにも自分を揺らす。
こんなにも、うれしくて、怖い。
またいなくなってしまったらどうしよう。
その思いは、口に出した途端に幼く、弱く聞こえてしまいそうで、誰にも言えない。
自分に対してさえ、あまり認めたくない感情だった。
もう昔の自分ではない。
仕事もある。
居場所もある。
ひとりで立てる。
そう思えるようになった今でも、
たった一人の存在に、こんなふうに心を揺らされてしまう。
それが少し悔しくて、
でも、どうしようもなく本当だった。
未沙はソファにもたれ、天井を見上げた。
静かな部屋だった。
時計の針の音さえ、今夜はやけに遠い。
泡の立たない水を見つめながら、未沙は思う。
満たされることと、安心することは、同じではないのかもしれない。
うれしい。
たしかにうれしい。
でも、うれしいからこそ失うのが怖い。
何も持っていなかったころより、
何かを手にした今のほうが、
失うことはずっと現実味を帯びて胸に迫ってくる。
仕事もそうだ。
この場所もそうだ。
ようやく築いてきたものは、壊れない保証なんてどこにもない。
そして人の気持ちは、もっとそうだ。
未沙は指先でグラスの縁をなぞった。
五条がまた自分の前からいなくなる未来を、考えたくないのに考えてしまう。
今の距離が、今のやわらかさが、ある日ふいに終わってしまうかもしれないと想像してしまう。
そんなこと、まだ何も起きていないのに。
未沙は小さく笑った。
笑ったつもりだったが、その音はひどく頼りなかった。
「……やだな」
ぽつりとこぼれた声は、誰に向けたものでもない。
こんな夜に限って、自分の弱さばかりがよく見える。
満たされた気持ちのすぐ隣に、こんなにも脆い不安が座っていることが、少し情けなかった。
けれど、否定しても消えるものではないのだろう。
未沙はグラスをテーブルに置き、膝を抱えるようにしてソファの上で小さく丸くなった。
幸せになりかけた瞬間に、また何かを失ってしまうのではないか。
その恐れは、過去の傷の名残なのかもしれない。
あるいは、今ようやく大切なものを大切だと認められるようになった証なのかもしれない。
どちらなのかは、まだ分からない。
ただ一つ分かるのは、
今夜の未沙が、思っていたよりずっと五条の存在を大きく受け取ってしまっているということだった。
部屋の中は静かだった。
炭酸の泡がはじける音もない。
胸の奥だけが、行き場のない思いでかすかに揺れている。
未沙は目を閉じた。
眠ってしまえば、少しは薄れるだろうか。
朝になれば、またいつもの自分に戻れるだろうか。
そう思いながらも、胸の奥に残る不安は、簡単にはほどけそうになかった。
泡のない夜だった。
やわらかく満たされたはずの心の底に、
沈むように残った小さな不安だけが、
静かな水面の下で、いつまでも揺れていた。
それでも、朝は来る。
薄い光がカーテンの隙間から差し込み、未沙はゆっくりと目を開けた。
眠りが浅かったせいか、胸の奥にはまだ昨夜の名残がかすかに残っている。
けれど、目覚めた瞬間に思った。
会いたいな。
未沙はしばらく天井を見つめたまま、その気持ちを胸の中でそっと確かめた。
不安が消えたわけではない。
怖さがなくなったわけでもない。
また失うかもしれないという思いは、まだ胸のどこかに残っている。
それでもなお、最初に浮かんだのがその言葉だった。
会いたい。
それは、昨夜の不安に引きずられた弱さではなかった。
寂しさにすがるような気持ちでもない。
まして、過去に戻りたいという未練でもなかった。
今の自分で、
今ここに立っている自分で、
もう一度あの人に会いたいと思った。
見てもらえたことがうれしかった。
言葉をもらえたことがうれしかった。
そして、自分もまた、今の五条にちゃんと向き合いたいと思った。
それは、依存でも、未練でもなかった。
失うことを怖がる夜を越えた先で、それでもなお胸に残っていた、まっすぐな感情だった。
未沙はゆっくりと起き上がり、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開け、今度は迷わず炭酸水を取り出す。
グラスに注いだ瞬間、透明な泡がいっせいに立ちのぼった。
小さな粒が光を受けて揺れながら、静かな朝の中でやわらかく弾けていく。
未沙はその音に耳を澄ませた。
昨夜には遠く感じた軽やかさが、今は少しだけ胸に近い。
不安が消えたわけではないのに、心のどこかに細い光が差している。
グラスを手に取り、ひとくち飲む。
舌の上ではじける泡が、眠りきらなかった胸の奥をそっと起こしていくようだった。
会えたらいい。
また話せたらいい。
今の自分で、もう一度ちゃんと向き合えたらいい。
そんなふうに未来へ手を伸ばすような感情が、朝の光の中で静かに息づいていた。
未沙は窓の外へ目を向けた。
新しい一日が、何事もなかったように始まっていく。
不安があることと、前を向けないことは、きっと同じではない。
怖さを抱えたままでも、人は未来を望んでいいのだと、今朝の自分が教えてくれている気がした。
泡のない夜を越えて、
泡のある朝が来た。
そのきらめきはまだ小さい。
けれど確かに、未沙の胸の中で生まれていた。
会いたいな。
その気持ちはもう、過去に引かれるためのものではなく、
未来へ向かうための、まっすぐな感情だった。




