第45話 僕はもういなくならない
次に五条が店を訪れたのは、それから少ししてからのことだった。
いつもと同じように予約が入り、
いつもと同じように夜の時間帯に現れて、
いつもと同じようにやわらかく「こんばんは」と言った。
未沙もまた、いつもと同じように応じた。
「こんばんは」
「今日もお願いね」
「はい。こちらへどうぞ」
声は落ち着いていた。
手順も変わらない。
案内の足取りも、タオルを整える指先も、何ひとつ乱れてはいなかった。
けれど未沙は、自分の胸の奥にまだ小さな揺れが残っていることを知っていた。
また会えたことはうれしい。
こうして変わらない顔で来てくれたことも、胸のどこかをやわらかくする。
それでも、ふとした瞬間に思ってしまう。
この時間は、またいつか終わるのだろうか。
この人は、また自分の前からいなくなってしまうのだろうか。
施術室の照明は落ち着いていて、室内には精油の香りが静かに満ちていた。
五条はベッドにうつ伏せになり、未沙はいつものように肩からゆっくり手を入れていく。
「今日は少し張ってますね」
「そう?」
「肩の上が、少しだけ」
「最近ちょっと忙しかったからかな」
「そうかもしれませんね」
短いやりとり。
穏やかな声。
何も変わらないように見える時間。
けれど未沙の手は、ほんのわずかにだけ慎重だった。
触れるたびに、自分でも気づかないほど小さく、確かめるような気持ちが混じってしまう。
ここにいる。
今、ここにいる。
そんなふうに、手のひらの下の体温を確かめてしまう自分がいた。
五条はしばらく黙っていた。
未沙もまた、必要以上の言葉は挟まない。
静かな時間だった。
けれどその静けさの中で、未沙の胸の奥だけが、かすかに落ち着かない。
自分では隠しているつもりだった。
仕事中に感情を出すつもりはなかった。
いつも通りでいようとしていた。
それでも、五条には伝わってしまったのかもしれない。
五条は、うつ伏せのまま静かに言った。
「未沙」
「……っ」
名前を呼ばれただけで、未沙の手が一瞬止まる。
あのころと同じ、心の奥をそっと撫でられるような響きだった。
「僕はもういなくならないよ。君が前に進んでるなら、それを邪魔しない距離で、ちゃんとここにいる」
未沙は返事ができなかった。
その言葉は、まっすぐ胸の奥へ落ちてきた。
長いあいだ触れないようにしていた場所へ、静かに届いてしまった。
いなくならない。
ちゃんとここにいる。
たったそれだけのことが、どうしてこんなにも深く響くのだろうと思った。
「…………」
未沙は俯いたまま、小さく息を吸った。
涙は出ない。
でも、涙よりも深い感情が胸を満たしていく。
「……ありがとう」
「うん」
それ以上、五条は何も言わなかった。
言葉を重ねすぎないことが、今はたぶんいちばんやさしいと知っているように。
未沙もまた、黙ったまま施術を続けた。
肩から背中へ、
背中から腕へ、
いつもの流れで手を入れていく。
けれどさっきまでとは、何かが違っていた。
胸の奥にあった固いものが、少しずつほどけていく。
長いあいだ置き去りにされていた痛みが、やわらかく息をし始める。
完全に消えたわけではない。
それでも、もう一人で抱えている感じではなかった。
施術が終わると、未沙は五条に温かいハーブティーを差し出した。
湯気がゆらゆらと揺れ、二人のあいだの沈黙をやさしく包む。
五条はカップを受け取り、未沙を見上げた。
未沙は向かいに腰を下ろしたものの、すぐには口を開けなかった。
さっきもらった言葉が、まだ胸の中で静かに響いている。
その余韻の中で、自分の中にあるものまで、隠しきれなくなっていた。
「……私ね」
未沙はカップに立つ湯気を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「最近、少し怖いの」
五条は何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「幸せになっていいのかなって思うときがある」
「……うん」
「また全部失うんじゃないかって。前みたいに、強がって、無理して、気づいたら誰もいなくなってるんじゃないかって」
言葉にしてしまうと、思っていたよりずっと弱く聞こえた。
けれど今は、取り繕う気持ちになれなかった。
五条は彼女の言葉を遮らなかった。
急いで慰めることもしない。
ただ、その不安がここにあっていいものだと認めるように、静かに受け止めていた。
「未沙」
「……うん」
「幸せって、誰かに許可をもらうものじゃないよ」
未沙はゆっくり顔を上げた。
五条の声は穏やかで、けれど迷いがなかった。
「未沙が、幸せになりたいって思った瞬間から、もうその道を歩き始めてるんだよ」
未沙は目を伏せたまま、唇を噛んだ。
その横顔には、もう何かを隠すための仮面はなかった。
強さも、弱さも、痛みも、願いも、そのまま抱えた未沙がそこにいた。
五条はそんな彼女を静かに見つめていた。
「……もし、私がまた強がっても?」
未沙の声は小さかった。
試すようでいて、ほんとうは確かめたいだけの声だった。
「見つけるよ」
五条は少しだけ笑った。
「どんなふうに取り繕っても、僕はたぶん分かる」
「……そういうの、ずるい」
「未沙のほうがずるいよ」
「なんで」
「そんな顔で不安だって言うから」
未沙は思わず小さく笑った。
その笑いは、泣きそうな気持ちのすぐ隣にある、やわらかなものだった。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
全部が解決したわけではない。
不安がなくなったわけでもない。
それでも、消えずにいてくれると言ってくれた人がいる。
そのことが、未沙の中に小さな灯りをともしていた。
五条が帰ったあと、店の片づけを終えた未沙は、休憩スペースでひとりグラスを手にしていた。
中には炭酸水が入っている。
細かな泡が、静かな音もなく立ちのぼっては消えていく。
未沙はその泡を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……幸せになりたい、か」
その言葉は、まだ少しだけ不慣れだった。
けれど口にしてみると、不思議と胸の奥にすっと馴染んだ。
怖さがなくなったわけではない。
失うことへの不安も、きっとすぐには消えない。
それでも、
幸せになりたいと思っていい。
そう思った瞬間から、もう歩き始めているのだと。
未沙はグラスを傾け、炭酸水をひとくち飲んだ。
舌の上ではじける泡が、胸の奥に残る言葉とどこか似ていた。
僕はもういなくならない。
ちゃんとここにいる。
その声を思い出すと、未沙は目を閉じたまま、ほんの少しだけ笑った。
夜は静かだった。
けれど今夜の静けさは、ひとりきりのものではない気がした。
見えない場所にいても、
すぐそばにいなくても、
消えずに在り続けようとする気配が、確かに胸の中に残っている。
未沙はもう一度、小さく呟く。
「……幸せになりたい」
今度はさっきより、少しだけまっすぐに言えた。
その願いはまだ繊細で、
触れれば壊れてしまいそうなほどやわらかい。
それでも確かに、未沙の未来のほうを向いていた。




