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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第2章 青空のその先
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第43話 ……偶然よ

 営業を終えた店内には、一日の熱が静かに引いていくような落ち着きがあった。


 最後の客を見送り、照明を少し落としたフロアには、片づけの気配だけがやわらかく残っている。使い終えたタオルがまとめられ、グラスの音が小さく重なり、スタッフたちの声ももう接客用の張りをほどいていた。


 未沙は受付まわりを整えながら、いつも通りの手つきで伝票を重ねていた。

 気持ちはもう落ち着いているつもりだった。

 けれど胸の奥には、まだあの一言の余韻が静かに残っている。


 ――すごいね。


 思い出すだけで、胸の内側が少しだけ熱を持つ。

 大げさな言葉ではなかった。

 けれど、だからこそ深く残った。


「未沙さん」


 呼ばれて顔を上げると、片づけを終えたスタッフが、どこか含みのある顔でこちらを見ていた。


「さっきのお客様」

「うん?」

「いつもの方ですよね」


 未沙は一瞬だけ目を瞬いたが、すぐに何でもない顔で伝票を揃え直した。


「そうね」

「やっぱり」


 そのやりとりをきっかけに、近くにいたスタッフたちまで、面白がるように視線を向けてくる。


「なんか、今日ちょっと違いませんでした?」

「分かる。未沙さん、あのお客様のときだけ空気やわらかい気がする」

「え、前から思ってました」

「そうそう、なんていうか……ちょっと特別っていうか」


 未沙は思わず苦笑した。


「何それ」

「いや、だって分かりやすいですよ」

「そんなことないと思うけど」

「ありますって」


 返しながらも、未沙は少しだけ困っていた。


 からかわれているのは分かる。

 悪意がないことも分かる。

 けれど、軽く笑って流してしまうには、今夜の自分の気持ちは少しだけやわらかすぎた。


「ただの常連のお客様でしょう?」

「ほんとにそれだけですか?」

「それだけよ」


 未沙はそう言って笑ったが、追及するような視線はまだ消えない。


「でも、今日お見送りしたあと、ちょっとぼんやりしてませんでした?」

「してないわよ」

「してましたよ」

「してないってば」


 言い返す声が、自分でも少しだけ弱いと思った。


 そのとき、少し離れたところでグラスを拭いていた美咲が、何気ない調子で口を開いた。


「さっきのお客様のとき、未沙さん、いつもよりやさしい顔してました」


 未沙は不意を突かれたように、ぴたりと手を止めた。


 からかうような言い方ではなかった。

 探るような響きもない。

 ただ見えたことを、そのまま口にしただけの無邪気な声だった。


「……そう?」


 未沙がそう返すと、美咲は素直にうなずいた。


「はい。なんか、うれしそうっていうか」

「へえ」

「見てて、いいなって思いました」


 その言葉に、周りのスタッフたちが一斉に「ほらやっぱり」と笑い出す。


「美咲ちゃん、そういうのよく見てるよね」

「新人なのに鋭い」

「未沙さん、観念したらどうですか」


 未沙は小さく息をついて、困ったように笑った。


 否定しようと思えば、いくらでもできる。

 ただの思い込みだと流すこともできる。

 けれど今は、強く打ち消したい気持ちにはならなかった。


 カウンターの端に置かれていたグラスを手に取る。

 中の炭酸水には、細かな泡が絶えず立ちのぼっていた。


 未沙はその泡を見つめながら、ふと昔のことを思い出す。


 まだ何も知られたくなくて、

 気づかれたくなくて、

 自分の正体も、気持ちも、過去も、全部うまく隠していたかったころ。


 問いかけられるたび、笑ってかわすように使っていた言葉がある。


 ――偶然よ。


 あのころは、見つからないための言葉だった。

 踏み込ませないための、やわらかな壁だった。


 けれど今は、少し違う。


 見つけられてしまったことが、嫌ではない。

 むしろ、あの人に今の自分を見てもらえたことが、胸の奥で静かにうれしい。

 隠したいのではなく、全部を言葉にしてしまうのが惜しいだけだ。


 未沙はグラスを指先で軽く回し、立ちのぼる泡を見つめたまま、小さく笑った。


「……偶然よ」


 一瞬、場が静かになる。


 けれどその言い方が、あまりにもやわらかく、少しだけ悪戯っぽかったからだろう。

 次の瞬間、スタッフたちはいっせいに声を上げた。


「絶対ちがう」

「その言い方は怪しいです」

「今の、認めたようなものじゃないですか?」

「未沙さん、ずるい」


 未沙は肩をすくめるようにして笑った。


「どうかしら」

「どうかしら、じゃないですよ」

「でも、なんかいいですね」

「うん、ちょっと分かる気がする」


 にぎやかな声が重なる。

 未沙はそれを聞きながら、グラスの中の泡がひとつずつ消えていくのを見ていた。


 偶然よ。


 同じ言葉なのに、昔とはまるで響きが違う。


 あのころは、自分を守るために使っていた。

 今は、守るためではない。

 見つけてもらえたことへの愛しさと、そこにちゃんと立てていたことへの小さな誇りを、やわらかく包むための言葉だった。


「未沙さん、なんか今日ほんとに機嫌いいですね」

「そう見える?」

「見えます」

「だって、笑い方がちがう」


 未沙は少しだけ目を伏せた。


 笑い方が違う。

 そうかもしれない、と思う。


 何かが始まったわけではない。

 何かを確かめ合ったわけでもない。

 それでも、今の自分を見てもらえて、そのうえで言葉をもらえたことが、思っていた以上にうれしかった。


「……もう、片づけ終わったの?」

 

 少しだけ話を逸らすように言うと、スタッフたちは「ごまかした」と笑いながら、それぞれの持ち場へ戻っていく。


 美咲もまた、拭き終えたグラスを棚へ戻しながら、どこか満足そうに笑っていた。


 未沙は炭酸水をひとくち飲んだ。

 舌の上ではじける泡が、胸の奥に残る熱とどこか似ている気がした。


 受付の向こう、もう客のいない静かな店内を見渡す。

 やわらかく落ちた照明の下で、今日という一日がゆっくり閉じていく。


 あの人に見つけてもらえたこと。

 今の自分を、ちゃんと見てもらえたこと。

 そして、それをこんなふうに誰かに気づかれてしまうくらい、自分の中で大切に思っていたこと。


 未沙はグラスを置き、ふっと小さく笑った。


 ――偶然よ。


 心の中でもう一度つぶやくと、その言葉はやはり少しだけ甘く、やわらかく響いた。


 隠すための言葉だったはずなのに、

 今はもう、隠しきれないものをそっと包むための言葉になっている。


 営業を終えた夜の店で、

 未沙の胸には、見つけてもらえたことへの愛しさと、言葉にしすぎない幸福が、炭酸の泡のように静かに満ちていた。


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