第42話 最後のお客様
夜の営業は、終わりの時間に近づいていた。
昼間の明るさを残していた店内も、外の暗さが深まるにつれて、少しずつ落ち着いた表情に変わっていく。受付の照明はやわらかく、施術室の扉が開くたびに精油の香りが静かに流れた。スタッフたちの声も、昼間よりひとつ低く、店全体が一日の終わりへ向かって静かに整っていくような空気があった。
未沙は受付カウンターの内側に立ち、店内へ目を配っていた。
「いらっしゃいませ」
「こちらへどうぞ」
「ありがとうございます。少々お待ちくださいね」
「お疲れさまでした。お足元、お気をつけて」
声はやわらかい。
けれど、迷いがない。
未沙がひとつ声をかけるたび、店の空気は自然に整っていく。誰かを急かすわけでも、強く引っ張るわけでもない。ただそこに立ち、必要なところへ静かに手を添えるだけで、店全体に落ち着きが生まれていた。
スタッフたちもまた、そんな未沙の気配を当たり前のように受け取って動いている。
目立つわけではないのに、気づけば中心にいる。
そんな立ち方だった。
入口のベルが鳴ったのは、そのときだった。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた未沙は、すぐにその姿を見つけた。
五条だった。
見慣れたはずのその姿に、未沙の胸の奥で、静かな灯りがともる。
「こんばんは」
「こんばんは」
五条はやわらかく返し、受付の前で足を止めた。初めて来た客のような遠慮もなければ、馴れすぎた気安さもない。ただ自然に、この場所へ来る人の立ち方だった。
「本日も同じコースでよろしいですか」
「うん。お願いね」
「かしこまりました」
そのとき、近くのスタッフが未沙へ小さく声をかけた。
未沙はそちらへ顔を向け、短く返す。
「はい、大丈夫です」
「ありがとうございます」
「こちらはそのままで大丈夫ですよ」
それだけのやりとりだった。
けれど、声を受けた相手の表情がすっとやわらぐのを、五条は見ていた。
「申し訳ありません。少しだけお待ちいただけますか」
「大丈夫だよ」
五条はそう言って、受付の脇へ静かに身を寄せた。
未沙は別の客へやわらかく声をかけ、戻ってきたスタッフへ短く何かを伝え、また別の方向へ目を向ける。
その動きには慌ただしさがなかった。
忙しい時間のはずなのに、不思議と店の空気は静かなままだった。
五条はその様子を、黙って見ていた。
月に一度ここへ来るようになってから、未沙の働く姿を見ることは何度もあった。施術に入る前や、会計のとき、受付越しに交わす短いやりとりの中で、少しずつ変わっていくものを見てきたつもりだった。
けれど今夜は、少し違って見えた。
営業終わりの店は、昼間よりも全体の輪郭が見えやすい。
誰がどこを支え、どこに気を配り、何がこの場所の空気を整えているのかが、静かなぶんだけよく分かる。
その中心に、未沙がいた。
誰かを押しのけるような強さではない。
声を張って場を支配するような存在感でもない。
ただ、未沙がそこに立ち、ひとつ声をかけるだけで、店の空気が自然に整っていく。
スタッフたちもまた、それを当たり前のように受け取っていた。
未沙の言葉を待っているというより、未沙が見ている先を信じているように見える。
五条は小さく目を細めた。
昔の未沙を、知っている。
夢を守ることに必死で、ひとりで抱え込み、傷ついても立ち止まれなかったころの未沙を。
まっすぐで、強くて、けれどどこか危うかった背中を。
今、目の前にいる未沙は、そのころと同じものをまだ失っていなかった。
仕事を大切に思う気持ちも、誰かに渡す手のぬくもりも、きっと変わっていない。
ただ、立ち方が違っていた。
ひとりで守ろうとしていた人ではなく、
人の中で、この場所を支えながら立っている人だった。
それは、簡単なことではない。
自分のことだけで精一杯になってしまいそうな場所で、周りを見て、人に安心を渡しながら立つこと。
しかもそれを、無理をしているように見せず、自然にやっていること。
五条は、静かに息をついた。
すごいね、と思った。
口にしてしまえば軽くなる気がして、言葉にはしなかった。
けれど胸の内には、はっきりとした敬意があった。
ここまで来たのだと、思う。
あのころの未沙が、ただ夢を追って前だけを見ていた未沙が、こんなふうに人の中で立てるようになったのだと。
そして同時に、どうしようもなく愛しかった。
頑張ってきた時間も、
うまくいかなかった時間も、
それでも手放さずにここまで来たことも、
何も言わずに伝わってくる気がした。
「お待たせしました」
未沙が戻ってきて、五条へやわらかく声をかける。
「ご案内します」
「うん」
施術室へ向かう途中も、未沙はすれ違うスタッフへ軽く会釈し、短く言葉を交わしていた。
そのどれもが自然で、店の空気にきれいに馴染んでいる。
五条は未沙の背中を見ていた。
細い背中だった。
昔と同じように華奢で、強く押せば簡単に折れてしまいそうにも見える。
それなのに今は、不思議なくらい揺らいで見えなかった。
施術室に入ってからの時間は、静かに過ぎた。
未沙はいつものように必要なところへ手を入れ、五条もまた、いつものように余計な言葉を挟まない。
「今日は少し、首が強いですね」
「そうみたいだね」
「少し広めにゆるめますね」
「お願いね」
それだけのやりとりで十分だった。
この時間ももう、二人のあいだに自然に馴染んでいる。
何かを確かめるためではなく、ただ静かにそこにある時間だった。
施術が終わり、未沙は五条を受付まで見送った。
店内はちょうど最後の波を越えたあとの静けさに入っていた。片づけに入るスタッフたちの動きもどこか落ち着いていて、今日一日の流れを静かに閉じていくような空気がある。
未沙が会計を整えているあいだ、五条は受付越しに店内を見ていた。
整えられた椅子。
静かに行き交うスタッフたち。
やわらかい照明。
その中に立つ未沙。
さっき見たものが、まだ胸の中に残っている。
未沙はもう、この場所でちゃんと立っていた。
誰かに守られるだけではなく、誰かを安心させる側に立っていた。
そのことが、五条にはうれしかった。
未沙が顔を上げる。
「本日はありがとうございました」
五条は少しだけ笑った。
「……すごいね」
未沙は目を瞬いた。
「え?」
「店のこと。ちゃんと見て、回していて」
五条の声は静かで、やわらかかった。
「みんな、君を頼りにしてるのが分かるよ」
未沙はすぐに言葉を返せなかった。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
褒められたいわけではなかったのに、その言葉は胸の奥へまっすぐ届いた。
「……そんなこと、ないです」
「あるよ」
五条は穏やかに言った。
「すごく自然だったけど、だからこそ分かるんだよね」
押しつけるような言い方ではなかった。
ただ見たままを、そのまま渡してくれる声だった。
「未沙、ちゃんとここにいるね」
その一言に、未沙の胸の奥が静かに熱を持つ。
昔、見せたかった。
夢を叶えて笑っている自分を。
ちゃんと立っている自分を。
失わずに進んだ先にいる自分を。
その願いは、あのころ思い描いていた形とは少し違ってしまったのかもしれない。
けれど今、こうしてこの場所に立ち、彼の言葉を受け取っている自分は、たしかにあの願いの続きにいた。
「……ありがとうございます」
未沙はそれだけ言って、小さく笑った。
五条もまた、やわらかく目を細める。
敬意と、愛しさと。
言葉にしきれないものが、その静かな表情に滲んでいた。
「じゃあ、失礼しますね」
「はい。ありがとうございました」
五条が扉の向こうへ消えていくのを見送ったあとも、未沙はしばらくその場に立ったままだった。
近くを通ったスタッフが、不思議そうにこちらを見る。
「どうしたんですか」
「いえ……なんだか、少しうれしそうだったので」
未沙は一瞬だけ目を瞬いたあと、困ったように笑った。
「そう見えた?」
「はい。なんか……よかったですね、って顔してました」
その言葉に、未沙はすぐには返せなかった。
よかった。
たしかに、そうだった。
何かが始まったわけではない。
何かを取り戻したわけでもない。
それでも、今の自分を見てもらえたことが、ただ静かにうれしかった。
「……うん」
未沙は小さくうなずいた。
「そうだったのかも」
スタッフはよく分からないまま、それでもつられるように笑って、また持ち場へ戻っていく。
未沙は受付カウンターに手を添え、静かになっていく店内を見渡した。
ここで働く自分。
人に囲まれながら、この場所を支えている自分。
夢を追うだけだったころには知らなかった、やわらかくて確かな立ち方。
その姿を、見てもらえた。
胸の奥には、派手ではないけれど、たしかな喜びが静かに灯っていた。
それは認められたかった過去の願いとは少し違う、もっと穏やかな感情だった。
営業最後のお客様を見送った夜。
未沙の胸には、長い時間をかけてたどり着いた静かな光が、やわらかく残っていた。




