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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第2章 青空のその先
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第41話 新しい城

 店を引き継いでから、いくつかの季節が静かに過ぎた。


 最初のころは、何をするにも少しだけ緊張があった。

 朝、店の鍵を開けるとき。

 売上表に目を通すとき。

 スタッフのシフトを組むとき。

 小さな判断をひとつ下すたびに、未沙は胸の奥でかすかな揺れを感じていた。


 自分がこの場所を預かっているのだという実感は、思っていた以上に重かった。

 オーナーから譲られた場所。

 誰かが長く守ってきた時間の続き。

 そこに自分の手を重ねていくことは、うれしさと同じくらい、慎重さを必要とした。


 けれど不思議なことに、未沙はもう、以前のようにひとりきりではなかった。


「未沙さん、今日の予約、午後の流れちょっと変わりそうです」

「ありがとう。じゃあこの枠、少し調整しようか」

「はい。紗英ちゃんにも伝えておきます」

 

 真帆が受付で予約表をのぞき込みながら言う。

 その横で紗英が、施術室の準備をしながら顔を上げた。


「タオル、追加で出しておきました」

「助かります。ありがとう」

「あと、フェイシャルのお客様、前回より乾燥強めかもしれないです。カルテにメモ入れてあります」

「見ておきますね」

 

 そんなやりとりが、今では自然に店の中を流れていた。


 未沙はこの店を、少しずつ変えていった。

 大きく壊して作り直すのではなく、もともとあった良さを残しながら、自分たちらしい形へ整えていくように。


 施術メニューも見直した。

 これまで中心だったマッサージに加えて、フェイシャルやヘッドケア、ボディトリートメントとの組み合わせを増やし、お客様がその日の体調や気分に合わせて選べるようにした。

 疲れを取るだけではなく、見た目の美しさや、気持ちがほどける感覚まで含めて寄り添える店にしたかった。


 未沙が目指したのは、ただ技術を提供する場所ではない。

 来たときより少し呼吸がしやすくなって、鏡を見たときに少しだけ自分を好きになれるような、そんな場所だった。


「トータルで見てもらえるの、うれしいです」

 

 ある日、長く通っているお客様がそう言って笑った。


「前は肩こりがつらくて来てたんですけど、最近はここに来ると気持ちまで整う感じがして」

「そう言っていただけると、すごくうれしいです」

「なんだか、お店の空気も前よりやわらかくなりましたよね」

 

 未沙は一瞬だけ目を瞬き、それから静かに笑った。


「そうだったら、いいなと思います」

 

 お客様が帰ったあと、その言葉はしばらく未沙の胸に残っていた。


 空気がやわらかくなった。


 それはたぶん、未沙がいちばん大事にしたかったことのひとつだった。


 昔の未沙は、場所を守ることに必死だった。

 崩れないように。

 間違えないように。

 失わないように。


 その思いが強すぎるあまり、いつの間にか自分ひとりで城壁を高くしていたのかもしれない。

 誰にも頼らず、弱さも見せず、完璧でいようとしていた。

 けれど、そんなふうに守ろうとした城は、結局、未沙自身を孤独にしていった。


 今の店は違う。


「未沙さん、これ新しいハーブティーのサンプルです」

と紗英が小さな箱を持ってくる。

「待ち時間に出したらどうかなって」

「いいですね。香りもやさしい」

「でしょ? 真帆さんと、これならお客様も飲みやすいかもって話してたんです」

 

 少しして真帆も加わる。


「あと、入口のところ、季節の案内もう少し見やすくしてもいいかも」

「たしかに。今のままだと少し情報が多いですね」

「じゃあ、写真の位置変えてみる?」

「やってみます」

 

 誰かが気づき、誰かが提案し、誰かが手を貸す。

 その積み重ねで、店は少しずつ育っていく。


 未沙はその流れの真ん中に立ちながら、前のような息苦しさを感じていなかった。

 自分が全部決めなくてもいい。

 自分だけが正解を持っていなくてもいい。

 大事なのは、ここにいる人たちが同じ方向を見られることなのだと、今は分かる。


 昼休憩のあと、真帆がコーヒーを片手に受付の椅子へ腰かけた。


「こうして見ると、ほんと変わったわね」

「何がですか?」

「店の空気。前も悪くはなかったけど、今はちゃんと“みんなの場所”って感じがする」

 

 未沙は少し照れたように笑う。


「まだまだです」

「そうやってすぐ足りないところ探すの、未沙さんの癖よね」

 

 真帆は呆れたように言ってから、でもすぐにやわらかく笑った。


「でも、前よりずっといい顔してる」

 

 その一言に、未沙は返事をしなかった。

 できなかった、というほうが近いかもしれない。


 前よりいい顔をしている。

 そんなふうに言われる日が来るとは、少し前まで思っていなかった。


 怖さがなくなったわけではない。

 今でも、ときどき胸の奥に影が差すことはある。

 順調な日が続くほど、ふとした拍子に不安になることもある。

 このままで本当に大丈夫だろうか、と考えてしまう夜もある。


 けれど、未沙はもう知っていた。

 怖さがあることと、壊れることは同じではない。

 不安があることと、失う未来が決まっていることも同じではない。


 そして何より、今の自分はひとりではない。


 夕方、最後のお客様を見送ったあと、店内にはふっとやわらかな静けさが落ちた。

 紗英が片づけをしながら、施術室の奥から笑い混じりの声を上げる。


「真帆さん、それそっちじゃなくてこっちです」

「え、うそ、また逆?」

「さっきも同じことしてましたよ」

「やだ、疲れてるのかも」

 

 そのやりとりに、未沙も思わず笑った。


「大丈夫ですか、真帆さん」

「未沙さんまで笑う」

「でも、ちょっと面白かったです」

「ひどい」

 

 三人の間に、小さな笑い声が広がる。


 その音を聞いた瞬間、未沙はふと立ち止まった。


 ああ、と思う。


 今のこの場所には、笑い声がある。

 気を張りつめた沈黙ではなく、自然にこぼれる声がある。

 それはたぶん、誰かと一緒に働いて、信頼を重ねてきたからこそ生まれるものだった。


 昔の未沙の店は、もっと静かだった。

 悪い意味ではない。ただ、そこにある空気のすべてを、自分ひとりで受け止めなければならなかった。

 誰かの声に救われることも、何気ないやりとりに肩の力を抜くこともなかった。

 静かなのに、いつもどこか張りつめていた。


 予約の空き時間も、閉店後の片づけも、次の日の準備も、全部ひとりだった。

 店の空気が重い日も、気持ちが沈む日も、それを切り替えるきっかけは自分で作るしかなかった。

 誰かと少し笑ってほどけるような余白は、あのころの未沙にはほとんどなかったのだと思う。


 でも今は違う。


 今の店は、未沙ひとりの城ではない。

 みんなで育てていく場所だ。

 誰かの力を借りて、誰かの思いつきを受け取りながら、少しずつ形になっていく場所だ。


 それは昔思い描いていた夢とは少し違う。

 けれど、たぶん今の未沙にとっては、こちらのほうがずっと本物だった。


 閉店後、スタッフたちが帰ったあとで、未沙はひとり受付に立った。


 静かな店内を見渡す。

 やわらかな照明。

 整えられた椅子。

 鏡に映る落ち着いた空間。

 ほのかに残るアロマの香り。


 ここはもう、ただ譲られた場所ではなかった。

 受け取ったあとに、自分たちの手で少しずつ育ててきた場所だった。


 未沙はカウンターにそっと手を置く。


 新しい城なのだと思った。


 けれどそれは、昔のように孤独を閉じ込める城ではない。

 自分だけで守り抜こうとする場所でもない。

 人の気配があって、声があって、信頼が静かに積み重なっていく城だった。


 未沙は目を閉じる。


 ここまで来るのに、遠回りをした。

 失ったものもある。

 壊れたものもある。

 もう二度と手に入らないと思った時間もあった。


 それでも、あの過去があったからこそ、今の自分はこの場所をこんなふうに見られるのかもしれない。

 ひとりで抱え込まないこと。

 完璧でなくても続けていけること。

 誰かと一緒に育てるほうが、ずっとあたたかいこと。


 それを知った今だからこそ、未沙はようやく本当に新しく始められる。


 自分だけの夢ではなく、

 みんなで育てる未来として。


 未沙は目を開け、静かに笑った。


 まだ完成なんてしていない。

 これから迷うこともあるだろうし、思い通りにいかない日もきっとある。

 それでも、この場所なら大丈夫かもしれないと思えた。


 完璧だからではない。

 支え合える人たちがいるからだ。


 店の灯りをひとつずつ落としながら、未沙は胸の奥にある小さなあたたかさを確かめる。


 夢を叶えた、というにはまだ早いのかもしれない。

 けれど、手に入れ始めているのだと思う。


 自分だけのためではない未来を。

 ひとりでは育てられなかった場所を。

 そして、失うことばかりを怖がっていたころには見えなかった、やわらかな希望を。


 最後の灯りを落とし、未沙は店の扉に鍵をかけた。


 胸の奥には、まだ小さな揺れが残っていた。

 けれどそれはもう、立ち止まるためのものではなかった。


 新しい城には、人の気配がある。

 信頼がある。

 誰かと一緒に明日を作っていける、やわらかな強さがある。


 未沙は静かな夜道を歩き出す。

 その足取りは、もう以前のような孤独の重さを引きずってはいなかった。


 翌朝、店へ向かう途中で、未沙はふと足を止めた。


 空は高く、どこまでも晴れ渡っていた。


 出直しの空だと思った日があった。

 あのころの自分は、ただもう一度立ち上がることだけで精いっぱいだった。

 失ったものの痛みを抱えたまま、それでも前を向こうとしていた。


 けれど今、未沙の前に広がっているのは、あの日見上げた空の続きだった。


 出直した先にある空。

 やり直した先にある景色。

 青空のその先に、ようやく自分の足で立っているのだと思った。


 怖さが消えたわけではない。

 未来が約束されたわけでもない。

 それでも、この空の下でなら、また歩いていける気がした。


 未沙は目を細める。


 その先には、まだ名前のない未来が広がっている。

 それでももう、怖さだけに足を止めることはない。


 未沙は小さく息を吸い、やわらかな光の中を歩き出した。


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