第40話 それでも前へ
オーナーに店を引き継いでほしいと言われてから、一週間ほどが過ぎていた。
未沙はすぐに答えを出せなかった。
考えようとすればするほど、自分の中に残っている怖さの輪郭ばかりがはっきりしていったからだ。
失敗が怖いわけじゃない。
うまくいき始めたものを、また失うことが怖い。
ようやく手にしたと思ったものが壊れる未来を、先回りして怖がってしまう。
そのことに気づいてからも、未沙の迷いがすぐ消えたわけではなかった。
むしろ、正体が見えたぶんだけ、簡単にはごまかせなくなった。
怖いものは、やっぱり怖い。
それでも、未沙は以前の自分とは少し違っていた。
その日の午後、店内は珍しく予約の切れ目ができていた。
真帆は備品の確認をし、紗英は洗濯の追加を回している。
受付にはやわらかな音楽が流れ、窓際に置かれた観葉植物の葉が、空調の風にかすかに揺れていた。
未沙は予約表を見ながら、ふと店内を見渡した。
ここで過ごす時間は、もうずいぶん長くなった。
最初はただ、自分の居場所を探すような気持ちで立っていた。
うまくやれるかどうかより、ちゃんと壊れずにいられるかのほうが大事だった時期もある。
けれど今は違う。
この店の空気が少し乱れれば気づく。
誰かが無理をしていれば分かる。
お客様が言葉にしない違和感も、前より拾えるようになった。
それは、未沙がこの場所を自分の外側のものとして見ていないからなのかもしれなかった。
ただ働く場所、ではない。
毎日を重ねるうちに、未沙の中でも少しずつ大事な場所になっていた。
「未沙さん、これ発注しておいたよ」
真帆が伝票を持ってくる。
「ありがとうございます。助かります」
「いいのよ。あ、あと明日の遅番、少し長めでも私は大丈夫」
「本当ですか。助かります」
「最近ほんと、未沙さんが真ん中にいると全体がきれいに回るのよね」
さらっと言われたその言葉に、未沙は少しだけ目を瞬いた。
「そんなことないです」
「あるわよ。前よりみんな、変に慌てなくなったもの」
真帆はそう言って笑い、伝票を受付に置いた。
「未沙さんって、前に出すぎないのに、ちゃんと見てるでしょう。ああいうの、簡単そうでなかなかできないのよ」
先輩らしい落ち着いた口調だった。
持ち上げるでもなく、ただ見てきたことをそのまま言うような言い方に、未沙は少しだけ視線を落とす。
「……ありがとうございます」
「褒められ慣れてない顔してる」
真帆はくすっと笑って、また奥へ戻っていった。
未沙はその背中を見送りながら、静かに息をつく。
ひとりで全部を背負っているわけではない。
そう思える場面が、今は前よりずっと増えていた。
少しして、紗英が洗濯かごを抱えたまま受付へ顔を出した。
「未沙さん、タオルの並べ方、これで大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。見やすくなってる」
「よかった。前に言ってもらった通り、長さごとに分けてみました」
「ありがとうございます。すごく分かりやすいです」
紗英はほっとしたように笑った。
「未沙さんって、ちゃんと見てくれるから助かります」
「そうですか?」
「はい。直したほうがいいところは言ってくれるけど、頭ごなしじゃないから」
その言葉に、未沙は少しだけ遠い気持ちになる。
昔の自分は、こうではなかった気がする。
余裕がなくて、正しさばかりを急いでいた。
ちゃんとしなければと思うほど、周りを見る目が狭くなっていた。
完璧にやろうとしていたのだと思う。
自分ひとりで、崩れないように、間違えないように、全部を抱え込んでいた。
でも今は、違う。
誰かに任せることができる。
助けてもらうことを、前ほど怖がらずにいられる。
ひとりで守るのではなく、一緒に整えていく感覚を、少しずつ知ってきた。
そのことに気づいたとき、未沙の胸の奥で何かが静かにほどけた。
もし、この店を引き継ぐのだとしても。
前と同じやり方をしなければいけないわけじゃない。
ひとりで完璧を目指さなくていい。
全部を自分の責任にしなくていい。
仲間と一緒に作る場所にすればいいのだ。
その考えは、未沙の中にすっと入ってきた。
もちろん、それで怖さが消えるわけではない。
失うことへの不安がなくなるわけでもない。
またうまくいき始めたときに、壊れる未来を想像してしまう自分が、急にいなくなるわけでもない。
それでも、怖いから進めない、だけではない気がした。
怖いままでも、進んでいいのかもしれない。
その日の営業後、未沙はオーナーに声をかけた。
「少し、お時間いいですか」
「ええ、もちろん」
バックヤードに入ると、オーナーは未沙の表情を見て、何かを察したように椅子を引いた。
「答え、急がせてしまったかしら」
「いえ。考える時間をいただけて、ありがたかったです」
未沙は一度息を整えてから、まっすぐ顔を上げた。
「まだ、怖さがなくなったわけではありません」
オーナーは黙って聞いている。
「正直に言うと、以前一人でサロンをやってた時と同じことになったらどうしようって思います。うまくいき始めたものを、また失ったらどうしようって」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、もう目をそらさずに言いたかった。
「でも、それでも考えました。今の私は、前の私とは少し違うかもしれないって」
オーナーの表情がやわらぐ。
「前みたいに、ひとりで全部を抱え込んで、完璧にやろうとするんじゃなくて。ちゃんと人に頼って、一緒に作っていくことが、今なら少しはできる気がするんです」
未沙はそこで一度言葉を切った。
怖さはある。
自信が満ちているわけでもない。
絶対に大丈夫だと言い切れるわけでもない。
それでも、前とは違うやり方なら、進めるかもしれない。
そう思えたことが、未沙にとっては大きかった。
「だから……もし本当に、私でいいと思ってくださるなら」
未沙は小さく息を吸う。
「この店を、引き受けたいです」
言った瞬間、胸の奥が静かに震えた。
決意というものは、もっと晴れやかで、迷いのないものだと思っていた。
けれど実際には違う。
怖さを抱えたまま、それでも言葉にするしかない瞬間がある。
オーナーはしばらく何も言わずに未沙を見つめ、それからゆっくりとうなずいた。
「ありがとう」
その一言は、思っていたよりずっとあたたかかった。
「未沙さんなら、そう言ってくれるんじゃないかって、どこかで思ってた」
「……期待に応えられるかは、まだ分かりません」
「ええ。最初から全部うまくやれる人なんていないもの」
オーナーはやわらかく笑う。
「でも、未沙さんはひとりで抱え込まないやり方を、もう知り始めてるでしょう。それが何より大事だと思うの」
その言葉に、未沙は目を伏せた。
ひとりで抱え込まないやり方。
それはたしかに、昔の自分にはなかったものだった。
「私も最初からうまくできたわけじゃないのよ」
とオーナーは続ける。
「失敗もしたし、遠回りもした。でも、場所ってひとりで作るものじゃないの。結局、そこにいる人たちと一緒に育っていくものだから」
未沙は静かに聞いていた。
「だから、完璧じゃなくていいの。ちゃんと大事にしようと思えることのほうが、ずっと大切」
その言葉は、未沙の胸の奥へゆっくりと落ちていった。
完璧じゃなくていい。
昔の自分がいちばん聞けなかった言葉かもしれない。
いや、聞いても受け取れなかった言葉かもしれない。
けれど今は、その意味が少し分かる。
完璧でなければ守れないのではない。
ひとりで背負わなければ続かないのでもない。
むしろ逆なのだ。
誰かと一緒に支え合える場所のほうが、きっと長く続いていく。
話を終えてバックヤードを出ると、店内にはもう片づけの静かな音だけが残っていた。
真帆がタオルをまとめ、紗英が受付まわりを拭いている。
「未沙さん、こっちは私が見ておくから」
と真帆が言う。
「最後の確認だけ一緒にしたら、あとは大丈夫よ」
「ありがとうございます」
「そういうときに全部残ろうとするの、未沙さんの癖でしょう」
少し笑うように言われて、未沙もわずかに笑った。
「……ばれてますね」
「見てるもの」
真帆のその一言は、軽いのに不思議とあたたかかった。
そのやりとりが、未沙にはひどく自然に思えた。
ひとりで全部をやらなくても、店は回る。
誰かがいて、声をかけ合って、少しずつ整えていける。
そういう当たり前を、今の未沙はちゃんと信じられる。
閉店後、店の灯りを落とす前に、未沙は受付の前で一度立ち止まった。
見慣れた椅子。
整えられたカウンター。
静かになった施術室。
ここには、毎日の積み重ねがある。
誰かが大事にしてきた時間がある。
そしてこれから、自分もその続きを担っていくのだと思う。
怖くないわけではない。
たぶん、これからも何度も怖くなる。
うまくいき始めたときほど、不安になる自分は簡単には消えないだろう。
それでもいいのかもしれない、と未沙は思う。
怖いままでも、前に進んでいい。
不安があることと、進めないことは同じではない。
傷が残っていることと、もう何もできないことも同じではない。
失敗した過去があるからこそ、今度は違うやり方を選べる。
壊れた経験があるからこそ、壊れないために誰かと支え合うことを覚えられる。
あのころの自分がいたから、今の自分がいる。
未沙は受付の灯りに手を伸ばし、ひとつずつスイッチを落としていく。
暗くなっていく店内の中で、不思議と心は静かだった。
迷いが消えたわけではない。
未来への不安がなくなったわけでもない。
それでも、自分で選んだのだと思えた。
譲られた場所に、今度は自分の足で立ってみようと。
最後の灯りを落とす前に、未沙はもう一度だけ店内を見渡した。
ここを、ひとりの城にはしない。
誰かを締めつける場所にも、自分を追い詰める場所にもしたくない。
ここにいる人たちが、少しずつ安心して働けて、お客様もほっとできるような、そんな場所にしたい。
その願いは、昔の願いとは少し違っていた。
もっとやわらかくて、もっと広い。
自分だけのためではなく、ここに関わる人たちと一緒に育てていく願いだった。
未沙は小さく息を吐き、最後の電気を落とした。
暗がりの中に立ちながら、胸の奥にまだ残る怖さを確かめる。
消えてはいない。
けれど、その隣には確かに、前へ進もうとする気持ちもあった。
それで十分なのだと、今は思えた。
怖いままでもいい。
揺れたままでもいい。
それでも、自分で選んだ一歩なら、きっと前に進んでいける。
未沙は扉に鍵をかけ、夜の空気の中へ出る。
街の灯りは静かに続いていた。
その先に何があるのか、まだ全部は分からない。
けれど未沙は、もう立ち止まるだけではいなかった。
胸の奥に小さな震えを抱えたまま、
それでも確かに、前を向いていた。




