第39話 怖いのは失敗じゃない
オーナーに店を引き継いでほしいと言われてから、数日が過ぎた。
未沙はいつも通り出勤し、いつも通りお客様を迎え、いつも通り店の流れを整えていた。
表面だけ見れば、何も変わっていない。
スタッフたちも普段通りで、店の空気も変わらない。
けれど未沙の中だけが、静かに落ち着かないままだった。
考えないようにしようとしても、ふとした瞬間に思い出す。
この店を引き継いでほしい。
未沙さんなら、この場所を大事にしてくれると思ってる。
その言葉は、うれしいはずなのに、胸の奥にやさしく刺さったまま抜けなかった。
引き受けるべきなのかもしれない。
今の自分なら、前とは違うやり方ができるのかもしれない。
そう思う瞬間もある。
けれど、そのたびに、心のどこかで別の声がする。
やめたほうがいい。
また同じことになるかもしれない。
手に入れたと思った途端に、壊れるかもしれない。
未沙はその声を、ただの弱気だと思おうとしていた。
自信がないだけだと。
責任の重さに怯えているだけだと。
けれど、何度考えても、どこか違う気がしていた。
失敗が怖いのだろうか、と未沙は思う。
もちろん怖くないわけではない。
任された場所をうまく守れなかったらどうしよう、という不安はある。
期待に応えられなかったら、申し訳ないとも思う。
でも、それだけではなかった。
もし本当に失敗だけが怖いのなら、もっと単純だったはずだ。
向いていないからやめておこう。
自信がないから断ろう。
そう割り切ってしまえば済む話だった。
なのに未沙は、断ることにも、進むことにも、同じように苦しさを感じている。
欲しいと思ってしまうからだ。
手を伸ばしたいと思ってしまうからだ。
自分の場所を、もう一度持てるかもしれないと、どこかで願ってしまうからだ。
その願いがあるからこそ、怖い。
営業の合間、受付で予約表を見ながら、未沙はぼんやりとそんなことを考えていた。
「未沙さん、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは紗英だった。
「え?」
「すみません、ちょっとぼーっとしてたから」
「ああ……ごめんなさい。大丈夫です」
「お疲れですか?」
「少し考えごとをしていただけです」
そう答えると、紗英は気を遣うように小さく笑った。
「未沙さんでも、そういうことあるんですね」
「ありますよ」
「なんか、いつも落ち着いてるから」
未沙は苦笑した。
落ち着いて見えるだけだ。
胸の内側では、思っているよりずっと揺れている。
「でも、無理しないでくださいね」
「ありがとう」
紗英が離れていったあと、未沙は小さく息をついた。
無理をしているつもりはない。
ただ、考えれば考えるほど、自分の中の輪郭が見えなくなる。
その日の帰り道、未沙はまっすぐ家に帰る気になれず、駅前から少し離れた川沿いの遊歩道を歩いた。
夜風はぬるく、川面には街の灯りがぼんやり揺れている。
足を止め、手すりに軽く触れながら、未沙はようやく自分の心の奥を見ようとした。
何がそんなに怖いのだろう。
失敗すること。
期待に応えられないこと。
また無理をしてしまうこと。
どれも本当だ。
けれど、どれも少しずつ違う。
未沙は目を閉じる。
昔、自分の場所を持とうとしたときのことを思い出す。
最初はうれしかった。
やっとここまで来たと思った。
自分の手で整えて、自分の力で守っていける場所があるのだと、信じたかった。
うまくいかないことばかりだったわけではない。
むしろ、うまくいっていた時期もあった。
少しずつ形になっていく手応えもあった。
このまま続いていくのかもしれないと、思えた瞬間も確かにあった。
だからこそ、失ったときの痛みが深かった。
何も始まらなければ、失うこともない。
最初から手にしていなければ、壊れたときにこんなに傷つかずに済んだのかもしれない。
そんなふうに思ってしまったことが、一度や二度ではなかった。
未沙はゆっくりと目を開けた。
ああ、と心のどこかで小さく声がした。
怖いのは、失敗じゃない。
うまくいき始めたときが怖いのだ。
少しずつ整っていくこと。
ようやく手の中に収まってきたと思えること。
このまま大丈夫かもしれないと、心が緩みそうになること。
その瞬間に、未沙の中ではいつも別の影が差す。
でも、どうせまた失う。
どうせまた壊れる。
どうせ最後には、手の中からこぼれていく。
そうやって、まだ起きてもいない未来を先回りして怖がってしまう自分がいる。
未沙は手すりを握る指先に、少しだけ力を込めた。
癒えたと思っていた。
もうあのころとは違うと思っていた。
過去の傷は、ちゃんと時間の中に沈んでいったのだと信じたかった。
けれど本当は、消えていたわけではなかったのだ。
普段は静かに沈んでいるだけで、似た形の幸せや希望が目の前に差し出された瞬間、すぐに顔を出す。
期待するな、と言うように。
安心するな、と言うように。
どうせまた失うのだから、と囁くように。
未沙はそのことに、ようやく気づいた。
自分は、前に進みたくないわけではない。
責任から逃げたいだけでもない。
ただ、手に入るかもしれないものを、また失うのが怖いのだ。
幸せも、信頼も、場所も。
手にしたと思った瞬間に壊れる未来を、先に想像してしまう。
だから最初から深く望まないほうが安全だと、心のどこかで思ってしまう。
それはたぶん、臆病なのではなく、傷ついたことのある人間の癖だった。
未沙は苦く笑った。
自分では、もう少しうまく立ち直れているつもりだった。
もっと前を向けているつもりだった。
けれど、こうして立ち止まってみると、心の奥にはまだはっきりと影が残っている。
どうせまた失う。
その言葉は、誰かに言われたわけではない。
自分の中で、いつの間にか育ってしまった声だ。
失った経験のあとに、静かに根を張ってしまった考え方だ。
それがある限り、何かを望むたびに怖くなる。
うまくいきそうになるたびに、足がすくむ。
大事なものほど、手を伸ばすのが怖くなる。
川面を渡る風が、髪を揺らした。
未沙は空を見上げる。
夜の色は深いのに、どこかやわらかかった。
失うのが怖いから、最初から受け取らない。
壊れるのが怖いから、最初から望まない。
そうやって生きていけば、たしかに大きな傷は避けられるのかもしれない。
でもそれは同時に、何も手にしないまま立ち尽くすことでもある。
未沙はまだ、その先の答えまでは出せなかった。
怖さが消えたわけではない。
引き受けられると決められたわけでもない。
ただ、自分が何に怯えているのかだけは、ようやく少し見えた気がした。
失敗が怖いんじゃない。
失うのが怖いのだ。
うまくいかなかったことよりも、
うまくいきかけたものが壊れた記憶のほうが、ずっと深く残っている。
そのことを認めるのは、少し痛かった。
けれど同時に、どこかでほっとしている自分もいた。
正体の分からない不安は、ただ苦しい。
けれど、名前のついた痛みは、少しだけ抱えやすくなる。
未沙はもう一度、ゆっくり息を吐いた。
怖いのだと思う。
幸せになりかけることが。
うまくいき始めることが。
このまま続くかもしれないと信じそうになることが。
そして、その先でまた失うことが。
それでも、そうやって怖がっている自分を、今は否定しなくてもいいのかもしれない。
消えていない傷があるのだと認めることは、弱さではなく、たぶん今の自分をちゃんと知ることなのだろう。
スマートフォンの画面を見ると、時刻は二十二時を回っていた。
そろそろ帰らなければと思いながらも、未沙はすぐには歩き出さなかった。
川の流れは、何も言わずに暗がりの中を進んでいく。
止まっているように見えても、少しずつ先へ流れている。
未沙はその水面を見つめながら、胸の奥に残る影を静かに見つめ返した。
どうせまた失う。
その声は、まだ消えない。
けれど今夜の未沙は、ただその声に飲まれるのではなく、
ああ、自分はこれを怖がっていたのだと、ようやく認めることができていた。
それだけでも、昨日までとは少し違う気がした。
未沙は手すりから手を離し、ゆっくりと歩き出す。
答えはまだ出ていない。
怖さも、まだそのままある。
それでも、自分の恐れの形を知ったことで、暗闇の輪郭がほんの少しだけ見えた気がした。
夜道を進む足音は、静かだった。
未沙の胸の奥にはまだ影がある。
けれどその影は、もう名前のないものではなかった。




