第34話 残り香のある場所
その日は、いつもより少しだけ帰りが遅かった。
閉店間際に入ったお客様の施術が長引いたわけではない。ただ、営業後に先輩たちと少しだけ残って、備品の配置を見直したり、次のキャンペーンの話を聞いたりしていたら、気づけば時計の針が思っていたより先へ進んでいた。
「おつかれさまです」
「おつかれさま。気をつけて帰ってね」
店を出ると、夜の空気は昼間より少しだけやわらかかった。
湿った風が頬をなで、遠くで車の走る音が途切れ途切れに聞こえる。
未沙はバッグの持ち手を握り直し、駅へ向かって歩き出した。
新しい職場に通う道にも、少しずつ慣れてきた。
朝はまだ緊張することがあるけれど、帰り道には前ほど肩の力が入っていない。今日うまくできたこと、迷ったこと、先輩に教わったこと、お客様の表情。そんなものをひとつずつ思い返しながら歩く時間が、いつの間にか嫌いではなくなっていた。
その日も、ぼんやりと今日の施術を振り返っていた。
呼吸の浅いお客様。
足のむくみを気にしていたお客様。
「ここに来ると少し眠れる気がする」と笑ったお客様。
誰かの身体に触れながら、その人のしんどさに耳を澄ませる。
それは思っていた以上に、静かで、深い仕事だった。
未沙は信号待ちで立ち止まり、ふと顔を上げる。
見慣れたはずの街並みの中に、見覚えのある角があった。
あ、と思ったときには、足が止まっていた。
少し先の通りを曲がれば、そこにある。
かつて、自分の店があった場所。
わざわざ避けていたわけではない。
けれど積極的に近づこうともしてこなかった。通れないほどではない。でも、通ってしまったら何かが胸に触れそうで、無意識に別の道を選んでいたのだと思う。
信号が青に変わる。
人の流れに押されるように一歩踏み出して、それでも未沙は、いつもとは違う角を曲がった。
夜の通りは静かだった。
昼間なら気にならない店の看板や、ビルの隙間から漏れる灯りが、妙にくっきり見える。
歩幅が少しずつ遅くなる。
あの場所が近づくにつれて、胸の奥に小さな緊張が生まれていく。
懐かしい、とはまだ言えない。
痛くない、とも言い切れない。
ただ、もう目をそらしたくないと思った。
やがて、その場所が見えた。
未沙は数歩手前で立ち止まる。
そこにはもう、昔の店はなかった。
見慣れていたはずの外観は塗り替えられ、ガラス越しに見える内装もまるで違う。以前は落ち着いた間接照明を選んでいた場所に、今は明るい白い灯りが満ちている。入口脇に置いていた小さなグリーンも、季節ごとに替えていたディスプレイも、当然のように何ひとつ残っていなかった。
別の店の名前が、そこにあった。
未沙はその文字をしばらく見つめたあと、静かに息を吐く。
当たり前だ、と思う。
時間が経てば、場所は別の誰かのものになる。
自分だけの記憶に、街がいつまでも付き合ってくれるわけじゃない。
分かっていたことなのに、実際に目の前にすると、胸の奥が少しだけ空くような感じがした。
ここに、確かにあったのだ。
自分の城が。
小さくても、自分で選んだものを並べて、自分で灯りを決めて、自分で香りを選んで。
お客様が扉を開けた瞬間、少しだけ呼吸をゆるめられるような場所にしたいと願っていた。
最初に契約書へサインした日のことを思い出す。
まだ何もない空っぽの室内に立って、胸が震えるほど嬉しかった。
ここを自分の店にするのだと、何度も何度も壁を見回した。
床の色も、タオルの質感も、流す音楽も、置くボトルの形も。
細かいところまで、自分の好きと理想を詰め込んだ。
あの頃の自分は、たしかに幸せだった。
大変なことが何も見えていなかったわけではない。
不安もあった。資金のことも、集客のことも、技術以外に覚えなければならないことが山ほどあるのも分かっていた。
それでも、それ以上に夢のほうが大きかった。
自分の手で、自分の場所を作る。
誰かが少しだけ楽になれる空間を、自分の名前で持つ。
その願いは、あの頃の未沙にとって、何よりまっすぐなものだった。
ガラス越しに、今の店のスタッフらしい人影が横切る。
笑い声がかすかに漏れて、すぐに消えた。
未沙はその音を聞きながら、胸の奥に浮かんだ感情の名前を探す。
悔しさ。
寂しさ。
懐かしさ。
少しの痛み。
どれもある。
けれど、前みたいにそれだけではなかった。
以前なら、この場所を見るだけで、自分の失敗を突きつけられた気がしただろう。
守れなかったこと。
続けられなかったこと。
理想だけでは足りなかったこと。
そういうものばかりが胸に刺さって、立ち尽くすことしかできなかったかもしれない。
でも今は、少し違った。
未沙は店の前までゆっくり歩み寄り、ガラスに映る自分の姿を見た。
昔ここにいた自分は、もっと尖っていた気がする。
きれいでいたかった。正しくありたかった。誰にも負けたくなかった。
弱いところを見せたら終わる気がして、必死に背筋を伸ばしていた。
あの頃の自分を思い出すと、痛々しいと思う気持ちはある。
もっと周りを見ればよかった。
もっと頼ればよかった。
もっと、お客様の声を聞けばよかった。
反省はいくらでもできる。
けれど、それと同じくらい確かなこともあった。
あの頃の私も、本気だった。
未沙は心の中で、ゆっくりと言葉にする。
本気で夢を信じていた。
本気で守ろうとしていた。
本気で、誰かのためになる場所を作りたいと思っていた。
やり方は未熟だった。
視野も狭かった。
ひとりで抱え込みすぎて、結果的に大事なものを壊してしまった。
それでも、あの時間まで嘘だったわけじゃない。
失敗したからといって、あの頃の情熱まで偽物になるわけではないのだと、今なら思える。
未沙は目を閉じる。
記憶の中の店は、まだそこにあった。
やわらかな照明。
清潔なタオルの匂い。
オイルに混じるほのかな香り。
開店前の静かな空気。
最初のお客様を待つ、少し張りつめた時間。
そして、営業を終えたあとの、誰もいなくなった店内。
ひとりで片づけをしながら、今日もなんとか終えたと息をつく夜。
うまくいかなかった日もあった。
泣きたくなる日もあった。
それでも毎日、扉を開けていた。
守りたかったからだ。
あの場所を。
あの夢を。
あの頃の自分が、ようやく手にしたものを。
未沙はゆっくり目を開ける。
ガラスの向こうには、もう自分の知らない景色がある。
けれどここには確かに、自分の時間の残り香があった。
もう形はない。
手を伸ばしても戻らない。
それでも、何もなかったことにはならない。
夢を見たことも。
傷ついたことも。
必死だったことも。
全部、ここにあった。
未沙は小さく笑った。
不思議だった。
もっと苦しくなるかと思っていたのに、胸の奥にあるのは、思っていたより静かな感情だった。
たぶん、自分で自分を少しだけ許せるようになったのだ。
あの頃の未沙は、未熟だった。
でも、愚かだっただけではない。
空回りしていた。
でも、怠けていたわけではない。
間違えた。
でも、真剣だった。
それを認めることは、過去を美化することとは違う。
失敗をなかったことにすることでもない。
ただ、あの頃の自分を恥じないでいること。
転んだ自分ごと、ちゃんと自分の人生として引き受けること。
それが今の未沙には、前へ進むために必要なことのように思えた。
店の前に立ったまま、未沙はそっと頭を下げる。
誰に向けてなのか、自分でもよく分からなかった。
あの場所にか。
あの頃のお客様にか。
必死だった自分自身にか。
たぶん、その全部だった。
「……ありがとう」
声に出すと、夜の空気に溶けるように消えた。
未沙はもう一度だけその場所を見て、それから踵を返す。
振り返らなかった。
振り返れなかったのではなく、もうそれでよかった。
過去は消えない。
でも、過去に立ち尽くしたままでもいない。
歩き出した足は、思っていたより軽かった。
通りを抜けると、夜風が少しだけ強く吹いた。
どこかの店から、やさしい柑橘系の香りが流れてくる。
それが一瞬、昔自分が選んでいたオイルの香りに似ていて、未沙はふと目を細めた。
残り香みたいだ、と思う。
もうそこにはないのに、たしかに覚えている。
消えたはずなのに、ふとした瞬間に胸の奥へ戻ってくる。
夢も、痛みも、きっとそうなのだろう。
完全には消えない。
だからこそ、人はまた歩けるのかもしれない。
駅へ向かう道の先に、ビルの隙間から夜空が見えた。
深い群青の中に、まだ若い月が浮かんでいる。
未沙はその光を見上げながら、静かに息を吸った。
あの頃の私も、間違いなく本気だった。
その事実が、今夜は少しだけあたたかかった。
未沙は胸の奥にその温度を抱えたまま、まっすぐ前を向いて歩いていく。
もう戻らない場所がある。
けれど、戻らないからこそ残るものもある。
それを知れた夜だった。




