第33話 一人で背負わない練習
新しい職場に入って、ひと月が過ぎた。
未沙はまだ毎日、少しずつ覚えている途中だった。
施術の流れ。
お客様ごとの好み。
使うオイルの種類と香り。
力加減の癖。
予約の組み方。
スタッフ同士の動き方。
覚えることは多かったけれど、不思議と前のような息苦しさはなかった。
忙しさはある。失敗しそうになる瞬間もある。自分の未熟さに落ち込む日だってある。
それでもここでは、うまくできないことが、そのまま自分の価値のなさにはつながらなかった。
それが未沙には、まだ少しだけ信じきれないことでもあった。
「未沙さん、午前の三番のお客様、肩まわりかなり張ってるから、もし途中で圧の相談迷ったら呼んでね」
朝の準備をしていると、先輩の真帆がタオルをたたみながらそう言った。
「はい、ありがとうございます」
「あと、昨日のカルテ見たよ。すごく丁寧だった」
「……まだ書き方、これでいいのか自信なくて」
「いいんだよ。細かく見ようとしてるの、ちゃんと伝わるから」
真帆はそう言って笑い、何でもないことのように次の作業へ戻っていく。
未沙はその背中を見ながら、小さく息をついた。
前の自分なら、こういう言葉にすら身構えていたかもしれない。
褒められても、試されている気がした。
気にかけられても、できないと思われたくなくて、つい「大丈夫です」と先に言ってしまっていた。
大丈夫じゃなくても、大丈夫だと言う癖は、思っていたより深く染みついている。
その日も、午後に入ってから少しずつ店内が慌ただしくなっていった。
予約が立て込み、電話が鳴り、受付と施術室のあいだをスタッフたちが行き来する。
未沙の担当するお客様は、デスクワーク続きで首と肩のこわばりが強い三十代の女性だった。
「今日は特に、右の肩甲骨のあたりがつらくて……」
「右側ですね。普段、マウスを使う時間は長いですか?」
「かなり長いです。あと、気づくとずっと息を止めてるみたいで」
「分かります。集中してると、呼吸浅くなりやすいですよね」
カウンセリングをしながら、未沙は相手の表情を見た。
疲れている人特有の、うまく力を抜けない感じがあった。
肩のつらさを訴えてはいるけれど、たぶん問題はそこだけじゃない。背中全体が緊張していて、呼吸も浅い。強く押せば一時的に“やってもらった感”は出るかもしれないが、今日はそれより、まず身体が安心して緩める状態を作ったほうがよさそうだった。
施術に入り、未沙は呼吸のリズムを見ながら、背中からゆっくり触れていく。
最初はわずかに強張っていた身体が、少しずつ重みを預けてくるのが分かった。
けれど肩甲骨の内側に入ったあたりで、未沙はほんの少し迷った。
張りが強い。無理に深く入れれば痛みが出るかもしれない。けれど浅すぎると届かない。
自分の感覚だけで決めていいのか、一瞬判断が揺れる。
前なら、その迷いを押し隠していた。
分からないと思った瞬間ほど、分かったふりをして進めていた。
止まることが怖かった。誰かに聞くことは、できない自分を認めることのようで嫌だった。
けれど今、未沙の頭に浮かんだのは、真帆の朝の言葉だった。
――迷ったら呼んでね。
その一言を思い出した瞬間、胸の奥で何かが少しだけほどけた。
「少し失礼しますね」
お客様にそう声をかけてから、未沙は施術室の外へ出た。
ちょうど近くを通りかかった真帆に、小さな声で相談する。
「右の肩甲骨の内側、かなり張りが強くて……深く入れたいんですけど、今日は無理にいかないほうがいい気がして」
「呼吸は?」
「まだ浅めです。でも最初よりは落ち着いてきてます」
「じゃあ、今はほどくより、逃がす感じで周りから緩めたほうがいいかも。脇と腕、あと首の付け根も見てみて」
「……あ、はい」
「大丈夫。判断、合ってるよ。無理に押さないほうがいい」
その言葉に、未沙ははっとした。
判断、合ってるよ。
教えてもらったこと以上に、その一言が胸に残った。
迷った自分が間違いだったわけではない。分からないから止まったことも、ちゃんと見ていたからこその迷いだったのだと、そう言ってもらえた気がした。
「ありがとうございます」
「うん。行っておいで」
施術室へ戻る足取りは、さっきより少しだけ軽かった。
真帆に言われた通り、未沙は肩そのものを攻めるのではなく、腕から脇、首の付け根へと順に緩めていく。
すると、しばらくしてお客様の呼吸がふっと深くなった。
背中の張りも、最初よりわずかにやわらいでいる。
未沙はその変化に耳を澄ませるように、丁寧に手を動かした。
施術後、お客様はベッドから起き上がると、何度か肩を回して目を丸くした。
「え、すごい……肩だけじゃなくて、なんか背中全体が軽いです」
「よかったです。今日は肩まわりがかなり頑張っていたので、周辺から緩めるようにしてみました」
「なるほど……押されて痛い感じがなかったのに、ちゃんと楽になってる」
その言葉に、未沙はほっと息をついた。
「あと、呼吸しやすいです」
お客様はそう言って、小さく笑った。
「さっきまで、自分がこんなに力入ってたんだって気づいてなかったかも」
その笑顔を見送りながら、未沙は胸の奥にじんわりとした温かさを感じていた。
自分ひとりで正解を出せたわけじゃない。
迷って、聞いて、助けてもらって、その先で届いた結果だった。
それなのに、不思議と悔しさはなかった。
むしろ、前よりずっと素直にうれしかった。
休憩に入る前、バックヤードで真帆に会うと、未沙は頭を下げた。
「さっき、ありがとうございました」
「どうだった?」
「周りから緩めたら、呼吸が深くなって。終わったあと、すごく楽になったって言ってもらえました」
「よかったじゃん」
「……前の私だったら、たぶん聞けなかったです」
真帆はペットボトルの水を開けながら、未沙を見た。
「聞けなかった?」
「はい。迷ってるって思われるのが嫌で。できないって思われるのも怖くて」
「そっか」
真帆は少しだけ笑った。
「でもさ、聞かないまま無理するほうが、よっぽど危ないよ」
「……はい」
「一人で抱え込む人って、真面目なんだよね。ちゃんとやりたいから、自分で何とかしなきゃって思っちゃう」
「……」
「でも、ここは一人で回してる店じゃないから。頼っていいし、こっちも頼るし」
その言葉は、やさしいのに、妙にまっすぐだった。
頼っていい。
こっちも頼る。
未沙はその響きを、心の中で何度もなぞる。
頼ることは、甘えることではないのかもしれない。
弱いからすがるのではなく、ちゃんと仕事をするために手を借りること。
自分ひとりで抱え込まないことで、守れるものもあるのだと、少しずつ分かり始めていた。
その日の夕方、もうひとつ小さな出来事があった。
次のお客様の案内時間と、前の施術の片づけが重なってしまい、未沙は一瞬あたふたした。
タオルの補充も足りない。受付では電話が鳴っている。しかも次のお客様は初回来店で、カウンセリングに少し時間がかかりそうだった。
胸の奥がざわつく。
こういうとき、以前の未沙は無理に全部を抱え込んでいた。
焦りを顔に出さず、平気なふりをして、結果的にどこかで綻びを出していた。
けれど今日は、ほんの一拍だけ迷ってから、口を開いた。
「すみません、タオル補充だけお願いしてもいいですか」
「あ、いいよー」
「ありがとうございます。あと受付、今出られなくて」
「こっちは取るね」
返事はあっけないほど自然だった。
誰も嫌な顔をしない。恩着せがましくもしない。ただ、必要なところへ手が伸びる。それだけだった。
未沙は一瞬、拍子抜けするような気持ちになって、それから少しだけ笑ってしまった。
こんなふうで、よかったのだ。
全部を自分で抱えなくても、仕事は回る。
むしろ、そのほうがちゃんと回る。
誰かに助けてもらったぶん、自分もまた別の誰かを助ければいい。
それだけのことを、前の自分は知らなかった。
営業後、片づけを終えてから、未沙は一人でカルテを書いていた。
今日のお客様の状態、施術内容、反応、次回気をつけたいこと。
その端に、ふと小さく書き足す。
――迷ったら、聞いていい。
――一人で背負わない。
書いた文字を見つめながら、未沙は少しだけ目を細めた。
たぶんこれは、仕事のことだけじゃない。
つらいときに、つらいと言うこと。
分からないときに、分からないと認めること。
助けてほしいときに、ちゃんと手を伸ばすこと。
それは未沙にとって、施術の技術を覚えることより、ずっと難しいことだった。
弱さを見せたら、見放される気がしていた。
頼ったら、がっかりされる気がしていた。
だから先に強がって、平気な顔をして、自分で自分を追い詰めてきた。
けれど本当は、そうやって固くなったままでは、誰かのやさしさも受け取れないのかもしれない。
店を出るころには、外はすっかり夜になっていた。
昼間の熱を少しだけ残した風が、頬をなでていく。
未沙は歩きながら、今日一日のことを思い返す。
迷ったこと。
聞けたこと。
助けてもらえたこと。
そして、そのあとでちゃんとお客様に向き合えたこと。
どれも小さなことだった。
けれど未沙にとっては、そのひとつひとつが、今までの自分にはなかった選び方だった。
空を見上げると、雲の切れ間に細い月が浮かんでいた。
一人で立つことと、一人で抱え込むことは違う。
そんな当たり前のことを、今さらみたいに思う。
自分の足で立ちながら、誰かに支えられてもいい。
誰かを支えながら、自分もまた支えてもらっていい。
そういうやわらかさを、未沙はまだ練習している途中だった。
でも、きっとそれでいいのだと思えた。
完璧じゃなくていい。
ちゃんとできない日があってもいい。
そのたびに助けを借りて、少しずつ覚えていけばいい。
未沙は小さく息を吐き、夜道をまっすぐ歩いていく。
背負うものがなくなったわけではない。
それでも、ひとりきりで背負わなくていいのだと思えるだけで、世界は少しやわらかく見えた。




