第32話 お客様の声
新しい職場で働き始めて、二週間が過ぎた。
未沙はまだ、毎朝少しだけ緊張していた。
駅から店までの道を歩きながら、無意識に肩へ力が入る。
ガラス張りの入口に映る自分の姿を見つけるたび、深く息を吸って、吐く。それを何度か繰り返してから、ようやく扉を押すのが日課になっていた。
「おはようございます」
そう声をかけると、店の奥から明るい返事が返ってくる。
「おはよう、未沙さん」
「今日ちょっと予約詰まってるから、困ったらすぐ言ってね」
「昨日の引き継ぎ、すごく丁寧だったよ」
先輩たちの何気ない言葉に、未沙はそのたび少しだけ救われる。
前の店では、朝の空気はもっと張り詰めていた。誰にそうさせられたわけでもない。自分が、自分でそうしていたのだ。完璧でいなければならないと、誰よりも自分に強く言い聞かせていた。
ここでは、空気が違った。
忙しくても、誰かが誰かを気にかけている。
小さな行き違いがあっても、責めるより先に「大丈夫?」と声が飛ぶ。
そのやわらかさに、未沙はいまだに少し戸惑ってしまう。
制服に着替え、髪をまとめ、鏡の前で名札を整える。
そこに書かれた「未沙」の二文字を見て、ほんの少しだけ背筋が伸びた。
今日の一人目は、三十代後半くらいの女性だった。
予約内容は、全身ボディーケア九十分。カルテには「肩・首の重だるさ」「眠りが浅い」「強圧は苦手」と簡潔に書かれている。
案内した個室には、やわらかな間接照明が落ちていた。
清潔なリネンの匂いに、ほのかに柑橘系のアロマが混じっている。以前の未沙なら、その空間をどう整えるか、自分の理想どおりに見せることばかり考えていたかもしれない。けれど今は、まず目の前の人の呼吸を見ようと思った。
「本日はご来店ありがとうございます。担当します、未沙です」
女性は小さく会釈を返したが、表情には疲れがにじんでいた。
肩がわずかに上がり、バッグを抱える指先にも力が入っている。座ったまま息を吐くその様子だけで、体だけではなく気持ちも張りつめているのが伝わってきた。
「今日は、どのあたりがいちばんおつらいですか?」
未沙がそう尋ねると、女性は少し迷うように視線を落とした。
「肩と首、ですかね……でも、たぶん背中も張ってると思います」
「そうなんですね」
「仕事でずっとパソコンを見ていて。気づくと息を止めてるみたいで」
「ああ……」
「寝ても疲れが抜けなくて。朝からもう重い感じがするんです」
未沙はうなずきながら、急いで結論を出さないようにした。
以前の自分なら、ここで「では肩甲骨まわりをしっかり流していきますね」と、すぐ施術の組み立てを口にしていたかもしれない。自分の中にある“効く流れ”を先に差し出して、それが親切だと思っていた。
けれど今日は、もう少しだけ聞いてみる。
「施術の強さは、やさしめのほうがお好みですか?」
「はい。強いと、その場では効いた気がするんですけど、あとでぐったりしてしまって」
「分かりました。しっかり触れつつ、無理のない圧で整えていきますね」
「お願いします」
女性の肩が、ほんの少しだけ下がった。
「あと、もし差し支えなければなんですが」
「はい?」
「今日は、とにかく疲れを取りたい感じですか? それとも、少しでも気持ちをゆるめたい感じのほうが近いですか?」
女性は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「……気持ち、かもしれません」
「気持ち」
「体もつらいんですけど、なんだかずっと気が張っていて。誰かに“力抜いていいですよ”って言ってもらいたいみたいな」
「そうだったんですね」
その言葉に、未沙の胸が静かに揺れた。
体の不調を訴えていても、本当に求めているものは別のところにあることがある。
ほぐしてほしいのではなく、安心したい。
軽くなりたいのではなく、少し休みたい。
きれいになりたいのではなく、自分を雑に扱わない時間がほしい。
そういう声を、以前の自分はどれだけ聞けていただろう。
「では今日は、首肩や背中を中心にしながら、呼吸がしやすくなるように全体をゆるめていきますね」
「はい」
「途中で強さや室温が気になったら、遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます」
施術が始まると、未沙はまずタオル越しに背中全体へ静かに手を置いた。
その人の体温、張り、呼吸の浅さを確かめるように、急がず触れる。
硬い、と思った。
肩だけではない。背中の中央から腰の上まで、薄く板が入っているみたいに力が抜けていない。
けれど、だからといって強く押せばいいわけではないことを、未沙は今は知っていた。
硬さの向こうにある緊張をほどくには、まず「この人が安心して体を預けられるか」が大事なのだ。
「圧、大丈夫ですか」
「はい……ちょうどいいです」
女性の声はまだ少し硬かった。
未沙は手の速度を変えず、呼吸を乱さないように肩から背中へゆっくり圧を流していく。
数分後、女性の吐く息が少し長くなった。
それに気づいて、未沙は内心でそっと息をつく。
うまくいっているかもしれない、と思った。
以前の自分は、結果を急ぎすぎていた。
どれだけほぐれたか。
どれだけ変化を出せたか。
どれだけ満足してもらえたか。
もちろんそれも大切だ。
けれど今、未沙の手の下で起きている小さな変化は、数字にも言葉にもならない種類のものだった。
呼吸が深くなる。
肩の力が少し抜ける。
触れられることへの警戒が、ほんの少しほどける。
そういう変化の先に、ようやく本当の意味での“楽になる”があるのかもしれない。
「肩、かなり頑張ってますね」
施術の途中、未沙が静かに言うと、女性がうつ伏せのまま小さく笑った。
「やっぱり分かりますか」
「分かります。たぶん、無意識にずっと力が入ってる感じです」
「そうなんです。気づくと歯も食いしばってて」
「眠りが浅いのも、その影響があるかもしれませんね」
「……なんか、そう言ってもらえるだけで少し安心します」
未沙の手が、ほんのわずかに止まりそうになる。
そう言ってもらえるだけで、少し安心する。
その言葉は、施術の技術そのものとは別のところで、未沙の胸に届いた。
分かってもらえること。
状態を決めつけられずに受け取ってもらえること。
無理に元気づけられるのではなく、今のしんどさをそのまま認めてもらえること。
お客様が求めているのは、案外そういうことなのかもしれなかった。
「今日は、終わったあと少しぼんやりするかもしれません」
「はい」
「でも、それだけ体が緩んだ証拠でもあるので、水分をしっかり取ってゆっくりしてくださいね」
「分かりました」
施術の後半には、女性の呼吸はすっかり穏やかになっていた。
首まわりに触れるころには、最初にあった細かな緊張もかなり薄れている。完全に眠ってはいないけれど、起きていることを頑張らなくていい状態に入っているのが分かった。
未沙はその変化を壊さないよう、最後まで静かに手を動かした。
施術が終わり、女性がゆっくり体を起こす。
髪を整えながら、何度か瞬きをして、それから不思議そうに肩を回した。
「あれ……」
「いかがですか?」
「軽い、です。軽いんですけど……それより、なんか」
女性は言葉を探すように笑った。
「久しぶりに、ちゃんと息ができた感じがします」
その一言に、未沙の胸の奥がじんわりと熱くなった。
軽くなった、ではなく。
楽になった、でもなく。
ちゃんと息ができた感じがする。
それはきっと、この人が今日いちばん欲しかったものに近い言葉だった。
「それなら、よかったです」
未沙はそう返すのが精いっぱいだった。
うれしさをうまく言葉にできないまま、温かいものだけが胸に広がっていく。
「強く押されるのは苦手なんですけど、今日はすごく安心できました」
女性はそう言って、肩をもう一度回した。
「ちゃんと聞いてもらえた感じがして」
「ありがとうございます」
「こうしてほしいって、うまく言えないこともあるじゃないですか。でも、くみ取ってもらえた気がしました」
「……そう言っていただけると、すごくうれしいです」
女性は会計を済ませ、最後にもう一度「またお願いしたいです」と言って帰っていった。
扉が閉まったあとも、その余韻はしばらく個室に残っていた。
未沙は新しいタオルを取りに行く前に、ひとりで小さく息を吐く。
胸の奥が、静かに満たされていた。
「いい空気だったね」
背後から声をかけられ、未沙が振り向くと、先輩の真帆が笑っていた。
「え?」
「最初、すごく緊張してるお客様だったでしょう」
「はい」
「でも出てくるとき、顔が全然違った」
「……そう見えましたか」
「見えたよ。未沙さん、今日はちゃんと“聞いてた”もん」
その言葉に、未沙は少しだけ目を見開く。
ちゃんと聞いてた。
それは当たり前のようでいて、以前の自分にはいちばん足りなかったことかもしれない。
「前は、聞いてるつもりだったんです」
未沙はぽつりと言った。
「でもたぶん、答えを急いでたんだと思います。こうしたほうがいい、こっちのほうが合うって、自分の中で先に決めてしまって」
「うん」
「それが悪いわけじゃないんでしょうけど……今日は、違った気がして」
真帆はやわらかくうなずいた。
「提案って、正解を渡すことじゃないからね」
「正解を渡すことじゃない……」
「相手が何を求めてるか、一緒に見つけること。未沙さん、そこがちゃんとできてた」
一緒に見つける。
その言葉を、未沙は心の中でそっと繰り返した




