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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第2章 青空のその先
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第31話 出直しの空

 五条が来なくなってから、数ヶ月が過ぎていた。


 最初のころは、予約表を開くたびに胸がざわついた。

 もう自分から何かを望むつもりはないのに、もしかしたら、という気持ちだけが消えなかった。


 けれど、その名前がどこにもない日が続くうちに、未沙は少しずつ理解していった。


 あれは拒絶ではなかったのだと。


 踏み込まないこと。

 待つこと。

 何も求めずに距離を置くこと。


 それが今の彼なりのやさしさで、未沙の足で立てるようにと残してくれた余白なのだと、ようやく分かるようになった。


 寂しくないわけではなかった。


 夜、仕事を終えて部屋に戻ると、ふとした拍子に思い出す。

 施術のあと、静かに交わした言葉。

 昔と変わらない声。

 名もなく届いた贈り物。

 そして、自分の名前を呼ばれたあの瞬間。


 胸の奥がきゅっと痛むたび、未沙は何度も深く息を吐いた。


 会いたい、と思う。

 けれど同時に、その会いたさに甘えてはいけないとも思った。


 彼がくれたものは、寄りかかるためのやさしさではなかった。

 未沙が未沙として立ち上がるための、静かな肯定だった。


 だからこそ、今やるべきことはひとつしかない。


 自分の足で、もう一度立つこと。


 その思いは、日を追うごとに少しずつ輪郭を持ちはじめていた。


 朝、鏡の前で髪をまとめながら、未沙はぼんやりと自分の顔を見る。

 以前より少しだけ、力の抜けた顔をしている気がした。


 リオンとして笑うことには慣れていた。

 けれど未沙として息をすることには、まだどこかぎこちなさが残っている。


 それでも、もう戻りたくはなかった。


 あの夜、自分の中に落ちてきた決意は、思っていたよりも静かで、けれど確かなものだった。


 未沙として、生きていく。


 そのためには、まず仕事と向き合わなければならないと思った。


 好きだったはずの美容の仕事が、いつからこんなにも苦しくなっていたのか。

 夢だったはずの場所が、どうしてあんなふうに息苦しい城になってしまったのか。


 考えたくなくて、ずっと考えないふりをしてきたことだった。


 けれど今なら、少しだけ目をそらさずにいられる気がした。


 ノートを一冊、机の上に置く。

 真っ白なページを前にして、未沙はしばらくペンを持ったまま動けなかった。


 何から書けばいいのか分からない。


 失敗したこと。

 足りなかったこと。

 見えていなかったこと。

 認めたくなかったこと。


 どれも胸の奥に引っかかっていて、言葉にしようとすると痛みが先に立った。


 それでも未沙は、小さく息を吸って、最初の一行を書いた。


 ――私は、お客様のことをちゃんと見ていただろうか。


 書いた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。


 理想はあった。

 こういう空間にしたい、こういう施術を届けたい、こういう美しさを提案したい。

 その思いに嘘はなかったし、あの頃の自分は本気だった。


 けれど本気であることと、届くことは、同じではなかった。


 未沙はペン先を見つめたまま、ゆっくりと次の言葉を綴る。


 ――私は、自分が良いと思うものを、相手にとっても良いはずだと信じすぎていた。


 書いてしまえば、驚くほど単純なことだった。


 お客様が何を求めているのか。

 どんな時間を過ごしたいのか。

 何に困っていて、何に安心するのか。


 本当は、最初に耳を傾けるべきだったのはそこだった。


 けれどあの頃の未沙は、理想を守ることに必死だった。

 自分の思い描く“いい店”であることにこだわるあまり、目の前の一人ひとりの声を、きちんと受け取れていなかったのかもしれない。


 ページの上に、ぽつり、ぽつりと文字が増えていく。


 ――助けてもらうことを、負けだと思っていた。

 ――分からないと言うのが怖かった。

 ――うまくいかないことを認めたら、全部が崩れる気がしていた。


 そこまで書いて、未沙はペンを置いた。


 喉の奥が詰まる。

 目の奥がじんと熱くなる。


 あの頃の自分を責めたいわけではなかった。

 責めたところで、何かが戻るわけでもない。


 ただ、見ないふりをしたままでは、もう前に進めない気がした。


 未沙は椅子の背にもたれ、天井を見上げる。


 夢を叶えたかった。

 自分の手で、自分の場所を作りたかった。

 好きなものを詰め込んだ空間で、お客様にきれいになってもらいたかった。


 その願いは、今でも嘘ではない。


 けれど、夢は願うだけでは続かない。

 守りたいなら、変わらなければいけないこともある。

 自分の正しさより、相手の心地よさを優先しなければいけない瞬間もある。

 一人で抱え込まず、誰かの力を借りる強さも必要だった。


 それを知らなかった。

 あるいは、知ろうとしなかった。


 窓の外では、薄い雲の切れ間から光が差していた。

 晴れているとも、曇っているとも言い切れない、曖昧な空だった。


 未沙はその空を見つめながら、ふと笑う。


 今の自分みたいだ、と思った。


 すっかり晴れたわけではない。

 過去が消えたわけでもない。

 傷がなくなったわけでもない。


 それでも、もうずっと雨の中にいるわけではないのだと、そんなふうに思えた。


 スマートフォンを手に取り、求人情報を開く。

 以前から何度も見ては閉じていた画面だった。


 経験者歓迎。

 研修制度あり。

 スタッフ同士の連携を大切にする職場。


 いくつかの文言を目で追いながら、未沙は小さく唇を結ぶ。


 前なら、こういう場所をどこかで見下していたかもしれない。

 自分の理想とは違う、と。

 もっと自分らしいやり方があるはずだ、と。


 けれど今は違った。


 自分らしさだけでは足りなかったことを、もう知っている。

 好きだけでは続けられないことも。

 技術だけでは届かないことも。

 ひとりで守ろうとした城が、どれほど脆かったかも。


 だから、学び直したかった。


 今さら、と思う気持ちがないわけではない。

 年齢も、経験も、プライドもある。

 一から教わることに、怖さがないわけではない。


 それでも未沙は、画面の応募ボタンを見つめたまま、指を止めなかった。


 ここでまた見送ったら、きっと同じところを回り続ける。

 変わりたいと願うだけで、何も変えないまま終わってしまう。


 そんなのは、もう嫌だった。


 静かに息を吸って、送信を押す。


 画面が切り替わる。

 応募を受け付けました、という短い表示が現れる。


 たったそれだけのことなのに、心臓が大きく鳴った。


 未沙はスマートフォンを胸の上に置き、そのままソファに深く沈み込む。


 怖い。

 正直に言えば、すごく怖かった。


 またうまくいかなかったらどうしよう。

 期待に応えられなかったらどうしよう。

 今さら何もできない自分を思い知らされたらどうしよう。


 次々に浮かぶ不安に、胸の奥がざわつく。


 けれど、そのざわめきの底に、ほんの小さな熱もあった。


 やっと動けた、という感覚だった。


 失ったものを数えるだけではなく。

 誰かに見つけてもらった記憶にすがるだけでもなく。

 自分で、自分の明日を選ぼうとしている。


 そのことが、未沙には少しだけ誇らしかった。


 夕方、ベランダに出ると、空は朝よりも明るくなっていた。

 雲はまだ残っているのに、その向こうに青が見える。


 未沙は手すりに指先を置いたまま、しばらくその空を見上げる。


 出直しだ、と思った。


 何もかもをなかったことにして、別人になるわけじゃない。

 失敗を消して、きれいな最初からやり直せるわけでもない。


 あの頃の自分がいて、

 うまくいかなかった日々があって、

 守れなかった夢があって、

 それでもなお、好きだと思ってしまう仕事がある。


 その全部を抱えたまま、もう一度始めるのだ。


 それはきっと、前よりずっと不格好だ。

 前より慎重で、前より遅いかもしれない。

 けれど今度は、ちゃんと地面を踏んで進める気がした。


 未沙は空に向かって、そっと目を細める。


 ひかるん、と心の中で呼んでみる。

 声には出さない。

 返事を期待するわけでもない。


 ただ、あの人が残してくれた静かなやさしさが、今も自分の背中にある気がした。


 ありがとう、と思う。


 でも、もうそれだけじゃない。


 今度は自分で歩く。

 自分で選ぶ。

 自分で、未沙として立っていく。


 風が頬を撫でる。

 遠くで洗濯物が揺れ、どこかの家の窓がきらりと光った。


 未沙は小さく息を吐いて、それからまっすぐ前を向く。


 空はまだ途中だった。

 晴れ切ってはいない。

 けれど、その先に青があることだけは、もう分かっていた。


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