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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬美沙
第1章 泡の記憶
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第30話 泡の記憶

 その後、五条は来くなった。


 けれど未沙の毎日から、彼の気配が消えたわけではなかった。


 夜、ひとりで湯を浴びるたびに思い出す。


 名もなく届いた、あのシャワーヘッド。

 肌に触れる湯はやわらかく、細かなナノバブルが薄い膜のように全身を包む。

 目に見えるほどではないのに、たしかにそこにあると分かる感触が、不思議と彼のやさしさに似ていた。


 強く主張するわけではない。

 けれど、触れたあとにだけ残るものがある。


 未沙は目を閉じる。


 泡は消える。

 けれど、肌が覚えるやわらかさは消えない。


 見えないものでも、人に何かを残すことがある。


 ひかるんのやさしさも、きっとそうだった。


 会おうとも言わない。

 確かめようともしない。

 あの日のことを蒸し返すこともしない。


 ただ、未沙が受け取れる分だけを、静かに差し出してくる。


 もし彼がもっと強く踏み込んできていたら、未沙はきっとまた身を引いていた。

 昔のことを持ち出されても、今の自分を問い詰められても、たぶん耐えられなかった。


 けれど彼は、そうしなかった。


 名前を呼んだあとも、その先を急がなかった。

 署名の二文字に気づいても、何かを求めたりはしなかった。

 贈り物をしても、名乗らなかった。


 その静けさの中で、未沙はようやく、自分の心の奥にあるものを見つめる余裕を持てた。


 湯を止めた浴室は、しんと静かだった。

 鏡には薄く曇りが残り、その向こうに自分の顔がぼんやり映っている。


 リオン。


 この場所で使ってきた名前。

 自分を守るために必要だった名前。

 過去から切り離されるために、そうしていなければ立っていられなかった頃の、自分の殻。


 その名前が間違いだったとは思わない。

 あの頃の自分には必要だった。

 未沙のままでは、きっと立てなかった。


 けれど今、その名前の内側で息をしている自分が、少しずつ苦しくなっていることにも、もう気づいていた。


 ひかるんは、リオンを見ていなかった。


 作った名前でも、整えた距離でもなく、その奥にいる自分を、最初から静かに見つめていた。


 未沙、と呼ばれたあの日から、何かが戻り始めていた。

 夜のメッセージの最後に、自分でその名前を書いたとき、それはもうただの揺らぎではなくなっていた。

 そして名もない贈り物は、言葉にしなくても、自分が未沙として受け取っていいものなのだと、静かに教えてくれた。


 彼が見ていたのは、ずっと未沙だった。


 そのことが、未沙の胸を深く揺らした。


 誰かに好かれることよりも。

 やさしくされることよりも。

 自分がもう一度、自分の名前で見つけられてしまったことのほうが、ずっと大きかった。


 未沙は鏡の端を指でぬぐう。

 曇りの向こうに、自分の顔が少しだけはっきりした。


 逃げていたわけではない、とずっと思っていた。

 ただ必要だっただけだと。

 生きるために、そうするしかなかったのだと。


 それはきっと本当だ。

 けれど同時に、いつからかその名前に隠れたまま、戻ることを先延ばしにしていたのかもしれない。


 怖さが消えたわけではない。

 過去がなくなったわけでもない。

 未沙として立てば、また傷つくかもしれない。

 昔の自分を知る誰かに触れられることもあるかもしれない。

 今よりもっと、心が揺れることもあるだろう。


 それでも、と思う。


 もう、目をそらしたくなかった。


 ひかるんに名前を呼ばれたからではない。

 彼のために変わりたいわけでもない。

 けれど、彼が何度も静かに差し出してくれたもののおかげで、未沙はようやく、自分の中に残っていた本当の名前の重みを受け止められるようになっていた。


 リオンではなく、未沙として。


 その言葉が胸の内に落ちたとき、不思議と派手な感動はなかった。

 ただ、長いあいだどこかに置き去りにしていたものを、ようやく自分の手に戻したような感覚があった。


 サロンの名前をすぐに変えるわけではない。

 何もかもを一度に変えられるわけでもない。

 明日から急に別人のようになれるわけでもない。


 けれど、少なくとも自分の中では、もう決めていい気がした。


 これから先、少しずつでもいい。

 取り繕った名前の奥に隠れるのではなく、自分の足で立つことを選びたい。


 未沙として、生きていきたい。


 その思いはまだ静かで、誰にも聞こえないほど小さい。

 けれど、確かだった。


 浴室を出ると、部屋の空気は少しひんやりしていた。

 髪を拭きながら窓辺に立つと、夜の街の灯りが遠くに滲んで見える。


 会わない時間は、空白ではなかった。


 言葉にしなかった思いが沈み、

 受け取ったやさしさが馴染み、

 見ないふりをしていた自分の名前が、少しずつ輪郭を取り戻していく時間だった。


 名前を呼ばれた夜。


 自分の名前を書いた夜。


 名もない贈り物が届いた午後。


 振り返れば、そのひとつひとつが、未沙を少しずつ前へ運んでいた。


 次に会うとき、自分がどこまで変われているのかは分からない。

 まだ怖さはある。

 まだ迷いもある。


 それでも、もう前と同じではいられないことだけは分かっていた。


 未沙は静かに目を閉じる。


 泡は消える。

 けれど、触れられた感覚は残る。


 見えないものでも、人を変えることがある。

 あの夜の声も、あの署名も、あの名もない贈り物も、きっとそうだった。


 未沙はゆっくりと目を開ける。


 大丈夫。

 すぐでなくていい。

 少しずつでいい。


 でも、もう逃げない。


 リオンではなく、未沙として。


 その決意は、もう泡のようには消えなかった。


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