第29話 差出人不明の贈り物
数日後の午後、未沙は玄関先で小さな荷物を受け取った。
予約と予約のあいだの、短い空き時間だった。
白を基調に整えた室内には、まだ次の客を迎えるための静けさが残っている。音楽も流していないその時間に、段ボールの軽い手触りだけが妙にはっきりしていた。
宛名には自分の名前とサロンの住所。
けれど差出人の欄は空白だった。
未沙は箱を抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くす。
こんなふうに何も書かれていない荷物が届くことは、ほとんどない。
備品なら自分で頼むし、心当たりのないものが来ることもない。
それなのに、なぜか強い警戒より先に、胸の奥に小さなざわめきが立った。
「……何でしょう」
誰に聞かせるでもなくつぶやいて、未沙はテーブルの上に箱を置く。
カッターで封を切り、緩衝材をそっとよける。
その下から現れたものを見た瞬間、未沙の手が止まった。
シャワーヘッドだった。
しかも、あの日話題にのぼったばかりの最新モデル。
未沙は息を止めたまま、しばらく動けなかった。
ほんの何気ない会話だった。
施術のあと、少しだけ空気がやわらいだ時間に、美容や身体の話の流れで口にしただけだ。
最近こういうものが気になっていること。
肌あたりがやわらかいらしいこと。
毎日使うものだから、少し気になっていたこと。
ただ、それだけだった。
欲しいと言ったわけではない。
ねだったわけでもない。
買ってほしいなど、もちろん一言も口にしていない。
それなのに今、その話題に出したものが、こうして何も言わずに届いている。
未沙はそっと箱に触れた。
新品の、きれいな外装。
余計なカードもない。
送り主を示すものもない。
ただ静かに、それだけがここにある。
誰が送ったのか、考えるまでもなかった。
こんなふうに、相手が何気なくこぼしたことを覚えていて。
必要以上に踏み込まず。
恩着せがましさもなく。
礼も見返りも求めず。
ただ、そっと置いていくようなことをする人。
未沙の知る限り、そんなことをするのは一人しかいない。
「……ひかるん」
小さくこぼれた声に、自分で少しだけ胸が熱くなる。
けれど、確かめるものは何もない。
名乗っていないのだから、こちらから決めつけるのも違う気がした。
それでも、この静けさごと彼らしいと思ってしまう。
もし彼が正面から手渡してきたなら、未沙はきっとこんなふうには受け取れなかった。
驚いて、戸惑って、何か返さなければと身構えたはずだ。
どうしてそこまで、と思ってしまったかもしれない。
けれど、名もなく届いたことで、この贈り物は押しつけにならなかった。
受け取るかどうかを委ねている。
礼を言わせようともしていない。
気づいてほしいのか、気づかれなくてもいいのか、その境界さえ曖昧なまま、ただ静かに置かれている。
そのやさしさが、どうしようもなく胸にしみた。
未沙は椅子に腰を下ろし、箱を見つめる。
何気なく口にしたことを、こんなふうに覚えている人がいる。
しかも、覚えていただけではなく、形にしてしまうほど大事に拾っている。
それがうれしくて、少し苦しい。
どうしてそんなふうにできるのだろうと思う。
どうして何も求めずに、こんなに静かに寄り添えるのだろうと思う。
大きな言葉ではない。
分かりやすい好意の示し方でもない。
けれど、この小さな箱の中には、それ以上に深いものがきちんと収まっている気がした。
あなたがふと口にしたことを、覚えていました。
あなたの毎日が少しでもやわらげばと思いました。
でも、それを負担にはしたくありませんでした。
そんな声にならない思いが、箱の重さの中に静かに沈んでいるようだった。
未沙は目を伏せる。
見返りを求めないやさしさほど、人の心を揺らすものはないのかもしれない。
何かをしてもらったら返せばいい。
言葉で好意を向けられたなら、どう受け止めるか考えればいい。
けれど、ただ何も言わずに差し出される思いやりは、そのまま胸の奥に残る。
逃がしようがないほど、まっすぐに。
未沙はスマートフォンを手に取った。
連絡をするべきだろうか、と考える。
ありがとう、と打ちかけて、止まる。
もし本当に彼が名乗らないつもりで送ったのなら、その沈黙をこちらから破るのは違う気がした。
礼を言えば、彼はきっと気にしないでくださいと返すだろう。
そして、その言い方まで容易に想像できてしまう。
未沙はメッセージ画面を閉じ、また開いた。
何も送らないこともできる。
けれど、それでは自分の胸に残ったものの行き場がない気がした。
少し考えてから、未沙は短く文字を打つ。
今日は、なんだか少しやさしい気持ちになれました。
ありがとうございます。
それだけの文面だった。
何についての礼なのかは書かない。
荷物のことにも触れない。
受け取ったと断定することもしない。
けれど、もし彼ならきっと分かる。
そして分かったとしても、きっと何も誇らない。
未沙はしばらく画面を見つめ、それから送信した。
送ったあと、胸が少しだけ速く打つ。
返事を待っている自分に気づいて、未沙は小さく息を吐いた。
ほどなくして届いた返信は、やはり短かった。
それはよかったです。
未沙ちゃんが穏やかに過ごせるなら、僕もうれしいです。
その文面を見た瞬間、未沙は静かに目を閉じた。
やっぱり、と思う。
認めるわけでもなく、否定するわけでもなく。
名乗らないまま。
ただ、こちらの気持ちだけを受け取って返してくる。
そのやさしさに、また胸が震える。
未沙はスマートフォンを胸元に引き寄せるように持った。
差出人不明の小さな荷物。
けれど、その中に入っていたのは、ただの品物ではなかった。
言葉にしすぎない思い。
押しつけないやさしさ。
何も求めず、ただそっと寄り添おうとする静かな愛。
それらすべてが、あの箱の中にきちんと収められていたのだと思う。
未沙は窓の外へ目を向ける。
午後の光が、白い壁にやわらかく滲んでいた。
自分の心が、少しずつ変わっていく気がする。
大きくではなく、本当に少しずつ。
けれど確実に。
名前を呼ばれた日があって。
自分の名前で署名した夜があって。
そして今、名もない贈り物に胸を揺らしている。
どれも派手な出来事ではない。
けれど未沙にとっては、どれも確かに、自分の心が動いた証だった。
「……ずるいです」
こぼれた声は小さく、けれどやわらかかった。
責めているわけではない。
むしろ、その逆だった。
こんなふうに何も言わずに寄り添われたら、心が動かないはずがない。
守ろうとしていた距離も、簡単には元のままでいられなくなる。
それでも彼は、越えてこない。
こちらが怖がるような踏み込み方はしない。
ただ、届く場所にだけ、そっと思いを置いていく。
その慎重さが、やさしさが、未沙には痛いほど分かった。
未沙はもう一度、箱へ視線を落とす。
ひかるん、と心の中で呼ぶ。
その響きはもう、懐かしさだけのものではなかった。
今の自分の胸を、こんなにも静かに震わせる人の名前になっている。
サロンの静かな空気の中で、未沙はそっと息を吐く。
差出人不明の贈り物は、何も言わないまま、たしかに彼の想いだけを残していた。




