第35話 笑顔の理由
そのお客様は、三度目の来店だった。
最初に担当したのは、未沙がこの店に入って間もないころだった。
四十代の半ばくらいの女性で、細身なのに肩まわりだけが妙に固く、いつもどこか気を張っているような空気をまとっていた。初回のカウンセリングでは「肩と首がつらくて」と簡潔に話しただけで、あまり多くを語る人ではなかった。
けれど二度目、三度目と重なるうちに、少しずつ言葉が増えていった。
「最近、夜中に何度か目が覚めるんです」
「気づくと歯を食いしばってるみたいで」
「仕事が立て込むと、呼吸が浅くなる感じがして」
未沙はそのたびに、必要以上に踏み込まず、でも聞き逃さないように耳を澄ませた。
身体のつらさとして口にされるものの奥に、言葉になりきらない疲れがあることを、今の未沙は前より少しだけ分かるようになっていた。
その日も、お客様は予約時間ぴったりに現れた。
「こんにちは」
「こんにちは。本日もありがとうございます」
コートを脱ぐ仕草はきちんとしているのに、指先だけが少し落ち着かない。
目元には薄く疲れがにじんでいて、笑顔を作ってはいるけれど、どこか呼吸が浅い。
施術室へ案内しながら、未沙はやわらかく声をかけた。
「その後、お身体の感じいかがでしたか」
「前回のあと、すごく楽だったです」
「よかったです」
「肩もなんですけど……なんというか、帰ってから久しぶりにちゃんと眠れた気がして」
その言葉に、未沙は小さく目を上げた。
「眠れた、ですか」
「はい。ぐっすりってほどじゃないんですけど、いつもより途中で起きなくて」
女性は少し照れたように笑う。
「こういうのって、気のせいかもしれないですけど」
「いえ、全然。お身体が少し緩むと、眠りやすくなる方も多いです」
そう答えながら、未沙は胸の奥に静かなうれしさが広がるのを感じていた。
肩が軽くなった、首が回るようになった、そういう反応ももちろんうれしい。
けれど“眠れた”という言葉には、また別の深さがあった。
この人の生活の中に、ほんの少しでも楽な時間が戻ったのだとしたら。
それはきっと、施術のあと数時間だけの変化より、ずっと大きい。
カウンセリングを進めると、今日は肩と首に加えて、背中の真ん中あたりにも張りが強いことが分かった。
仕事で人と話す時間が長く、気を遣う場面も多いらしい。無意識に背中を固めたまま一日を過ごしているのだろうと想像できた。
「今日は、前回より少し背中全体も見ながら進めますね」
「お願いします」
「もし途中で強さが気になったら、遠慮なく言ってください」
「はい」
ベッドにうつ伏せになったお客様へタオルを整え、未沙はそっと背中へ手を置いた。
最初に触れた瞬間、その日の状態が少し伝わってくる。
表面のこわばりだけではなく、奥のほうに抜けきらない緊張が残っている感じ。頑張りすぎた人の身体だ、と未沙は思う。
以前の自分なら、こういう身体を見ると、どうにかして“結果”を出したくなっていたかもしれない。
しっかりほぐしたい。
変化を感じてもらいたい。
満足して帰ってもらいたい。
その気持ちは今もある。
けれど今は、それだけでは足りないことを知っている。
この人は、何に疲れているのだろう。
どこまで触れられると安心して、どこから先は無理になるのだろう。
今日は軽さがほしいのか、それともただ、少し気を抜ける時間がほしいのか。
未沙は呼吸のリズムを見ながら、背中から肩、首へとゆっくり手を進めていく。
急がない。
無理に深く入らない。
身体がこちらを受け入れる速度に合わせて、少しずつ緩めていく。
しばらくすると、お客様の呼吸が最初より深くなった。
肩の力も、ほんのわずかに抜けてくる。
未沙はその変化に気づきながら、手のひらに意識を集中させた。
この人が、少しでも安心できますように。
その願いは、以前のような気負った祈りではなかった。
自分の技術を証明したいわけでも、自分の理想を見せたいわけでもない。
ただ目の前の一人が、今この時間だけでも、張りつめたものを下ろせたらいいと思った。
施術の途中、お客様がうとうとと眠りに落ちかける気配があった。
首元へ触れたとき、ふっと息が長く抜ける。
その小さな変化が、未沙には何より雄弁に思えた。
言葉にしなくても、身体はちゃんと教えてくれる。
安心しているか。
まだ緊張しているか。
無理をしているか。
少しずつほどけているか。
未沙はその声なき声を聞くように、静かに施術を続けた。
終わるころには、最初にあった背中の張りがだいぶやわらいでいた。
タオルを整え、ゆっくり起き上がってもらうと、お客様は何度か瞬きをしてから、ほっとしたように息をついた。
「……なんか、すごく楽です」
「よかったです」
「肩もなんですけど、胸のあたりが少し開いた感じがして」
「呼吸、しやすくなりましたか」
「はい。そんな感じです」
女性は自分の肩にそっと触れ、それから未沙を見た。
「不思議ですね」
「え?」
「強く押してもらったわけじゃないのに、ちゃんと軽い」
未沙は小さく笑った。
「今日は無理に深く入れるより、全体の緊張が抜けるほうを優先してみました」
「ああ……」
女性は納得したようにうなずいて、それから少し言いにくそうに視線を落とした。
「私、こういうところに来ても、いつもあんまり気が抜けなくて」
「……」
「ちゃんとしなきゃって思っちゃうんです。施術してもらってる間も、寝ちゃいけない気がしたり、反応しなきゃって思ったり」
未沙は黙って耳を傾ける。
「でも、未沙さんに担当してもらうと安心するんです」
その言葉は、静かだった。
大げさでもなく、飾り気もなく、ただ素直に置かれた一言だった。
けれど未沙の胸には、それがまっすぐ深く届いた。
安心する。
未沙は一瞬、うまく言葉が出なかった。
技術があると言われるのとは少し違う。
センスがいいと言われるのとも違う。
理想としていた“満足”より、もっと奥にあるもののように思えた。
安心する。
それはたぶん、その人が無理をしなくていいということだ。
気を張らなくていいということだ。
ちゃんとしていなくても、そのままでいていいと思えるということだ。
未沙が本当に渡したかったものは、もしかしたら最初からそれだったのかもしれない。
「……ありがとうございます」
ようやくそう言うと、声が少しだけやわらかく震えた。
「そう言っていただけるの、すごくうれしいです」
女性は少し笑って、肩の力を抜いた。
「ここに来ると、やっと息ができる感じがするんです」
「……」
「たぶん、身体だけじゃなくて、気持ちも張ってたんでしょうね」
未沙はその言葉を聞きながら、胸の奥に何かが静かにほどけていくのを感じていた。
笑顔がほしかった。
お客様に喜んでほしかった。
満足して帰ってほしかった。
その気持ちは、ずっと本物だった。
けれど以前の自分は、笑顔そのものを追いかけすぎていたのかもしれない。
笑ってもらえれば成功。
満足してもらえれば正解。
そんなふうに結果ばかりを見て、その笑顔がどうして生まれるのかを、ちゃんと考えられていなかった。
安心したから笑える。
ほっとしたから表情がゆるむ。
無理をしなくてよかったから、また来たいと思える。
笑顔には理由がある。
その理由を作ることこそが、自分の仕事なのだと、未沙はようやく正しい形で掴みかけていた。
会計を終え、お客様を見送るとき、女性は扉の前で振り返った。
「またお願いします」
「はい。お待ちしています」
扉が閉まったあとも、未沙はしばらくその場に立っていた。
胸の奥が、じんわり熱い。
泣きたいわけではないのに、なぜか少しだけ目の奥があたたかくなる。
「どうしたの、未沙さん」
受付の横を通りかかった真帆が、不思議そうに声をかけた。
「……いえ」
未沙は小さく笑う。
「ちょっと、うれしくて」
「いいこと言ってもらえた?」
「はい。安心するって」
真帆は一瞬目を丸くして、それからやわらかく笑った。
「それ、いちばんうれしいやつだね」
「……はい」
「技術ってもちろん大事だけど、安心して身体を預けられるって、簡単なことじゃないから」
未沙はその言葉に、静かにうなずいた。
本当にそうだと思った。
触れられる仕事だからこそ、安心は何より大切だ。
どれだけ手技があっても、どれだけ知識があっても、相手が気を張ったままでは届かないものがある。
そして今、自分の手が少しずつそこへ届き始めているのだとしたら。
それは、前の自分が欲しかった評価より、ずっと深くうれしいことだった。
営業後、未沙はいつものようにカルテを書いた。
身体の状態、施術内容、反応、次回の提案。
そして最後に、少しだけ迷ってから一行を足す。
――安心して力を抜ける時間を作る。
書いた文字を見つめながら、未沙はそっと息を吐いた。
これだ、と思った。
自分の原点は、たぶんここにあったのだ。
誰かをきれいにしたい。
誰かを笑顔にしたい。
誰かのためになる仕事がしたい。
その願いの根っこにはきっと、相手が少しでも楽になれる時間を渡したいという気持ちがあった。
ただ以前は、その形をうまく掴めていなかっただけだ。
理想や結果に目を奪われて、いちばん大事な“ほっとできること”を見失っていた。
けれど今は、少し分かる。
笑顔は、作らせるものじゃない。
無理に引き出すものでもない。
安心の先に、自然と生まれるものだ。
店を出ると、夜風が昼間の熱を少しだけさらっていた。
空を見上げると、薄い雲の向こうに月がにじんでいる。
未沙は歩きながら、今日の言葉を何度も思い返した。
あなたに担当してもらうと安心する。
その一言は、今の未沙にとって、何より確かな灯りのようだった。
まだ学ぶことはたくさんある。
迷う日もある。
うまくできない日だって、きっとこれからもある。
それでも、自分が進んでいる方向は間違っていないのだと、今日は少しだけ信じられる。
笑顔がほしかったんじゃない。
その人が心からほっとできる時間を、作りたかったのだ。
未沙は胸の奥にその答えを抱えたまま、静かな夜道を歩いていく。
ようやく掴み直した原点は、派手ではなかった。
けれど、だからこそ簡単には揺らがない気がした。




