第27話 ひかるん
未沙として呼ばれたあとの静けさは、不思議なくらいやわらかかった。
施術室には変わらず穏やかな音楽が流れ、照明も落ち着いた明るさのままだった。けれど未沙の胸の内側では、さっきまで張りつめていたものが、少しずつほどけ始めている。
未沙としてここにいていい。
そのことを、まだおそるおそるではあるけれど、受け入れ始めている自分がいた。
五条は急かさなかった。
何かを確かめようともしない。
ただ、未沙が自分の名前を受け取ったことを、静かに大切にしてくれている。
そのやさしさが、胸の奥にじんわりと残っていた。
「……不思議です」
未沙は目元の熱を落ち着かせるように、小さく息を吐いて言った。
「何がですか」
五条の声は穏やかだった。
「あなたが目の前にいるのに、ずっと違う名前で呼ばれていたことが」
未沙は少しだけ視線を落とす。
「それでよかったはずなのに、苦しくもありました」
言葉にしてみると、自分でもようやく輪郭が見える気がした。
リオンでいることは、未沙にとって必要なことだった。過去から距離を取るために。今の自分を守るために。仕事として立ち続けるために。
けれど同時に、その名前の奥に未沙を閉じ込めていたのも事実だった。
五条の前でだけ、その閉じ込め方がうまくいかなくなる。
見つけられてしまったから。
忘れられていなかったから。
そして、自分もまた忘れていなかったから。
「未沙ちゃんって呼ばれたとき……」
そこまで言って、未沙は少しだけ言葉を切る。
「もう隠れなくていいのかもしれないと、思いました」
五条はすぐには何も言わなかった。
その沈黙は、未沙が自分の気持ちを最後まで言葉にできるように待っている静けさだった。
未沙はふと、五条の顔を見る。
昔と変わったところもある。
大人になった輪郭もある。
知らない時間を生きてきた気配もある。
それでも、変わらないものもたしかにあった。
こうして黙って待ってくれるところ。
大事なことほど、無理に奪わないところ。
やさしいくせに、肝心なところでは逃がしてくれないところ。
その全部が、ひどく懐かしい。
胸の奥で、ある呼び名が静かに浮かび上がる。
ずっと使っていなかった。
思い出さないようにしていたわけではない。
けれど、口にしたら何かが決定的に戻ってきてしまいそうで、触れずにいた名前だった。
昔、自分だけが呼んでいた名前。
少し照れくさくて、でも二人のあいだでは自然だった呼び方。
未沙は唇をわずかに開き、ためらうように息をつく。
呼んでしまっていいのだろうか。
今さら。
こんなふうに。
ここで。
けれど、未沙ちゃん、と呼び戻された今なら。
自分もまた、ひとつだけ戻してみてもいいのかもしれないと思った。
「……ひかるん」
こぼれた声は、驚くほど小さかった。
けれど、その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が静かに揺れた気がした。
五条が、わずかに目を見開く。
未沙は自分で口にしてから、少しだけ視線を伏せた。
「今のは……忘れてください」
「無理ですよ」
やわらかい声だった。
けれど迷いはなかった。
未沙はほんの少しだけ眉を寄せる。
「そう言うと思いました」
「もう聞けないと思っていましたから」
その言葉に、未沙はすぐには返せない。
自分も同じだった。
もう二度と口にしないと思っていた。
呼ぶことも、呼ばれることもない名前だと思っていた。
「……口が覚えていたみたいです」
「うれしいです」
まっすぐ返されて、未沙は目を上げきれないまま静かに息を吐く。
「そんなふうに、まっすぐ言うんですね」
「ごまかしたくないんです」
短い沈黙が落ちる。
未沙はその静けさの中で、もう一度だけ彼を見る。
そして今度は、さっきより少しだけ自然に呼んだ。
「ひかるん」
「はい」
短い返事。
それだけなのに、胸の奥が静かに熱くなる。
「……少し、不思議です」
「何がですか」
「もうずいぶん前の呼び方なのに、なくなっていなかったことが」
五条は静かに頷いた。
「僕も、そう思っていましたよ」
未沙は小さく目を伏せる。
「でも……嫌ではないです」
その言葉に、五条の表情がやわらかくほどける。
未沙はその変化を見て、胸の奥がまた少しだけ熱くなるのを感じた。
ひかるん。
たったそれだけの呼び名なのに、失われていた年月のあいだに積もっていた距離が、少しずつ埋まっていく気がする。
もちろん、何もかもが元に戻るわけではない。
離れていた時間は消えない。
知らないままのことも、まだたくさんある。
傷ついた記憶だって、簡単にはなくならない。
それでも、この呼び名だけは、時間の向こうからそのまま戻ってきた。
忘れていなかった。
消えていなかった。
二人のあいだにたしかにあったものとして、今もちゃんと残っていた。
「……変わっていませんね」
未沙がぽつりと言う。
「何がですか」
「そういう顔をするところです」
「どういう顔ですか」
「うれしいのを隠せていない顔です」
そう言うと、五条は少しだけ困ったように笑った。
「未沙ちゃんも、変わってないよ」
「私もですか」
「照れたとき、少しだけ言い方がきつくなるところです」
未沙は思わず目を瞬かせ、それから小さく笑う。
「……そんなことまで覚えているんですね」
「覚えていますよ」
迷いのない返事だった。
その一言が、また未沙の胸をやわらかく揺らす。
覚えている。
忘れていない。
名前だけではなく、癖も、言い方も、笑い方も。
そんなふうに見つめられることが、今はもう怖いだけではなかった。
未沙はゆっくりと息を吐く。
さっきまでの涙の熱はまだ少し残っている。
けれど今、その熱は苦しさだけではなくなっていた。
仮面越しではない時間が、ここにある。
リオンとして整えた受け答えではなく、未沙としてこぼれる言葉。
客としての五条ではなく、ひかるんとしてそこにいる彼。
その時間が、ようやく静かに動き出している。
「……ひかるん」
未沙はもう一度、今度は確かめるように呼んだ。
五条の目元がやわらかくなる。
「はい」
たったそれだけの返事なのに、未沙の胸はまたじんと熱くなる。
呼べるのだと思った。
もう一度。
この名前で。
この人を。
それは過去に戻ることとは少し違う。
失った時間をなかったことにすることでもない。
むしろ、離れていた時間も、傷ついた記憶も、そのまま抱えたうえで、それでもなお呼べる名前があるのだと知ることだった。
未沙はそのことが、ひどくうれしかった。
「……今日は、少しだめです」
未沙が小さく言う。
「何がですか」
「いろいろです」
五条はその言葉に、やわらかく笑った。
「僕もかもしれません」
未沙は思わず少しだけ笑ってしまう。
こんなふうに笑えるなんて、少し前までは思わなかった。
見つかったことが怖くて、名前を呼ばれることが苦しくて、過去に触れるたび胸が痛かったのに。
今はまだ、全部が解けたわけじゃない。
でも、痛みの中にちゃんとぬくもりがある。
苦しさの中に、確かな安堵がある。
未沙は五条を見つめる。
ひかるん、と心の中でもう一度呼ぶ。
その名前はもう、失ったものの象徴ではなく、これから少しずつ取り戻していく時間の入口のように思えた。
仮面越しではない、本当の未沙と五条の時間が、ここでようやく再び動き出す。
その始まりは、とても静かで、でも二人にとっては何より確かなものだった。




