第26話 呼び戻す名前
施術が終わったあとの部屋には、いつもより深い静けさが残っていた。
未沙は最後のタオルを整え、使ったものをひとつずつ片づけながら、どうにか呼吸を平らに戻そうとしていた。さっき、背中に両手を添えたまま一瞬動けなくなったこと。その沈黙を、五条が何も言わずに受け止めてくれたこと。謝った自分に、彼が「大丈夫です」と返してくれたこと。
その全部が、まだ胸の奥にやわらかい熱として残っている。
仕事としては、もう終わっている。
あとはアフターケアの案内をして、部屋を出ればいい。
それだけのはずなのに、未沙の心はまだどこか施術の途中に取り残されたままだった。
「お疲れさまでした」
さっきも言ったはずのその言葉を、未沙はもう一度、少しだけ小さな声で口にした。
五条はベッドからゆっくり身体を起こし、整えられた空気の中で静かに息をつく。
「ありがとうございました」
その返事も穏やかだった。
けれど今日は、その穏やかさの奥に、何かを決めたような静かな気配があることを、未沙は感じ取ってしまう。
胸が、わずかに強く鳴る。
何か言われるかもしれない。
でも、何を言われるのかは分からない。
分からないまま、未沙はトレーを持つ手に少しだけ力を込めた。
五条はすぐには立ち上がらなかった。
未沙もまた、すぐには扉へ向かわなかった。
その短い沈黙のあと、五条が静かに口を開く。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
未沙は一瞬だけ息を止めた。
「……はい」
声が少しだけ硬くなる。
けれど五条は、その硬さごと受け止めるように、変わらない調子で続けた。
「リオンさんって呼ぶの、少しだけ……まだ慣れなくて」
未沙の指先が、トレーの縁をそっとつかむ。
その言い方はやわらかかった。
否定するでもなく、責めるでもなく、ただ正直に伝えるような声だった。
けれど、その先に続く言葉を、未沙の心はもう予感してしまっていた。
五条はほんの少しだけ間を置いてから、穏やかに言った。
「未沙ちゃんって呼んでいい?」
その名前を耳にした瞬間、未沙の中で張り詰めていたものが、ついに音もなく崩れた。
未沙。
ずっと聞かないようにしていた名前。
ここでは呼ばれないはずの名前。
自分で自分を守るために、そっと奥へしまい込んでいた名前。
それを、五条がこんなにもやさしい声で呼び戻す。
責めるためじゃない。
暴くためでもない。
昔に引き戻すためでもない。
ただ、そこにいていいのだと確かめるみたいに。
今の自分ごと受け止めるみたいに。
未沙は何も言えなかった。
喉の奥が熱くなる。
胸の奥に押し込めていたものが、一気にほどけていく。
泣くつもりなんてなかった。
ここで崩れるつもりもなかった。
けれど、その名前はあまりにもまっすぐで、やさしかった。
未沙は視線を落としたまま、唇をきゅっと結ぶ。
それでも目の奥に滲んだ熱は、もう隠しきれない。
五条は急かさなかった。
返事を求めるような顔もしない。
ただ、未沙がその名前を受け取る時間を、静かに待っている。
その待ち方が、また未沙の心を揺らす。
どうしてこの人は、こんなふうに待てるのだろう。
どうしてこんなふうに、何も奪わずに近づいてくるのだろう。
未沙は目を閉じた。
リオンとしてここに立っているあいだ、自分はずっと、未沙であることを少しずつ薄くしてきた気がする。そうしなければやっていけなかった。そうしなければ、過去に引きずられずに済むと思っていた。
名前は輪郭だ。
呼ばれるたびに、自分が誰なのかを思い出してしまう。
だからこそ、ここでは別の名前でいた。
けれど今、五条の口から呼ばれたその名前は、過去の痛みだけを連れてくるものではなかった。
懐かしさ。
あたたかさ。
見つけてもらえた安堵。
そして、隠れなくてもいいのかもしれないという、かすかな希望。
その全部を連れて、未沙の胸に落ちてくる。
「……ずるいです」
ようやくこぼれた声は、涙の手前で震えていた。
五条が小さく目を細める気配がする。
「そうかもしれないです」
否定しない返事に、未沙は思わず泣きそうなまま少しだけ笑ってしまう。
本当にずるい。
こんなふうに、逃げ道を残したまま大事なところだけをまっすぐ触れてくる。
無理にこじ開けないのに、閉じたままでもいさせてくれない。
未沙は目元を伏せたまま、小さく息を吐いた。
その息と一緒に、張りつめていたものが少しずつほどけていく。
「……未沙、で」
声がかすれる。
「ここでは……そう呼ばれないようにしてたけど」
そこまで言って、未沙は一度言葉を切った。
胸の奥がまだ熱い。
でも、もう逃げたくなかった。
「……あなたがそう呼ぶのは、嫌じゃないです」
言い終えた瞬間、目の奥に滲んでいた涙がついにこぼれそうになる。
未沙は慌てて顔を少し伏せた。
五条はその様子を見ても、やはり何も急がなかった。
ただ、ひどく静かな声で言う。
「じゃあ、未沙ちゃん」
もう一度、その名前が呼ばれる。
今度はさっきよりも、もっとやわらかく胸に届いた。
未沙は小さく頷く。
涙が滲んでいるのが分かる。
でも、もう隠しきれないことが、少しも怖くなかった。
未沙としてここにいていい。
そのことを、ようやく少しずつ受け入れ始めている自分がいた。
リオンであることを否定するわけではない。
ここで積み重ねてきた時間も、仕事も、全部ちゃんと自分のものだ。
けれどその奥にいる未沙まで消さなくていいのだと、五条のその呼び方が教えてくれる。
未沙は目元をそっと押さえ、困ったように笑った。
「……こんな顔、見せるつもりなかったのに」
「見せてくれて、うれしいですよ」
五条の返事は、どこまでも穏やかだった。
未沙はまた少しだけ笑って、でもその笑みはすぐに涙で揺れる。
泣いてしまうのは悔しい。
けれど、泣けることがどこか救いでもあった。
ずっと張っていた。
ずっと、崩れないようにしていた。
見つからないように、思い出しすぎないように、未沙である自分を奥へ押し込めてきた。
でも本当は、呼び戻してほしかったのかもしれない。
誰かに勝手に暴かれるのではなく、ちゃんと大事に扱われながら、自分の名前をもう一度受け取りたかったのかもしれない。
五条はその願いを、言葉にされる前から知っていたみたいに、ただやさしく差し出してくれた。
未沙はゆっくりと顔を上げる。
視線が合う。
前なら、その視線はもっと痛かった。
見つめられるだけで、過去ごと暴かれてしまいそうで怖かった。
けれど今は違う。
まだ怖さはある。
まだ言えないこともたくさんある。
それでも、その視線の中にあるのが責める色ではなく、待つ色だと分かるから、逃げずにいられる。
「……ありがとう」
未沙が言う。
その言葉には、施術後の礼では足りないものがたくさん含まれていた。
見つけてくれたこと。
急がなかったこと。
壊れたまま捨てられなかったものを、笑わずに受け止めてくれたこと。
そして今、未沙という名前を、やさしく呼び戻してくれたこと。
五条は小さく頷く。
「こちらこそ」
それだけで十分だった。
部屋の中には、まだ静かな音楽が流れている。
照明も変わらない。
けれど未沙の中では、確かに何かが変わっていた。
未沙としてここにいていい。
未沙として呼ばれてもいい。
その名前を聞いて揺れてしまう自分ごと、否定しなくていい。
それはまだ、ほんの小さな受け入れにすぎない。
けれど、長いあいだ張りつめていた心にとっては、十分すぎるほど大きな一歩だった。
五条が呼び戻したのは、ただの名前ではない。
未沙が未沙として息をしていい場所そのものだったのかもしれない。
未沙は涙の残る目元のまま、もう一度だけ小さく頷いた。
その頷きは、五条への返事であると同時に、自分自身への許しでもあった。




