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残り香のゆくえ-novel version-  作者: 冬馬
第1章 泡の記憶
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第24話 壊れても捨てられないもの

 ナノバブル。


 その一言が落ちてから、部屋の空気は目に見えないまま、確かに変わっていた。


 静かなままだ。

 音楽も照明も、施術室の落ち着いた空気も何ひとつ変わらない。

 けれど未沙の胸の内側だけが、ひどく不安定に揺れていた。


 手は動かしている。

 施術者としての流れも崩していない。

 圧の入れ方も、呼吸の合わせ方も、きっと外から見ればいつも通りだ。


 それでも、心だけはまるでいつも通りではなかった。


 覚えていたのだ、と改めて思う。


 彼はあの誕生日のことを。

 自分が何気なく口にした願いを。

 そして、それを贈ったときの空気ごと、きっと今もどこかに残している。


 そうでなければ、あんなふうに穏やかに、何でもない会話の顔をして、その言葉を置けるはずがない。


 未沙は喉の奥に小さな熱を感じた。


 何も言わずに終えることもできる。

 今まで通り、施術者として微笑んで、何事もなかったように流してしまうこともできる。


 そのほうが安全だ。

 そのほうが、リオンでいられる。


 けれど今日は、どうしてもそれができなかった。


 胸の奥に押し込めてきたものが、もう黙ったままではいられないところまで浮かび上がってきていた。


 未沙は最後の流れを整えながら、ほんの少しだけ息を吸う。


「……私も」


 声にした瞬間、自分で驚くほど小さな声だった。


 五条がわずかに反応する気配がある。

 未沙は手を止めないまま、続けた。


「私も、同じの使ってます」


 言ってしまった、と思った。


 もう引き返せない。

 ただの施術中の雑談としては、少し踏み込みすぎている。

 しかもそれが、ただの商品の話ではないことを、自分がいちばんよく分かっていた。


 五条はすぐには何も言わなかった。


 その沈黙が、未沙にはかえってやさしかった。

 急かさない。

 続きを求めない。

 ただ、こちらが言葉を選ぶ時間をそのまま残してくれる。


 そのことに背中を押されるように、未沙はさらに言葉を継いだ。


「……大切な人にもらったもの、なので」


 最後のほうは、少しだけ声が揺れた。


 名前は言わない。

 いつのことかも言わない。

 誰からかも、はっきりとは言わない。


 けれど、それで十分だった。


 五条には伝わる。

 伝わってしまう。

 そう分かっていて、それでも未沙は口にした。


 もう隠しきれなかったのだ。


 壊れても、捨てられなかったことを。

 今もまだ使い続けていることを。

 それがただの物ではなかったことを。


 五条の胸の奥で、何かが静かに強く脈打った。


 未沙も、まだ持っていた。


 あのとき贈ったものを。

 しかも、ただしまい込んでいたのではなく、使い続けていた。


 その事実が、思っていた以上に深く胸へ落ちてくる。


「……そうなんですね」


 五条が返したのは、それだけだった。


 本当はもっといろんな言葉が浮かんでいた。

 うれしい、と言いたかった。

 まだ捨てていなかったのか、と驚きたかった。

 どうして、と聞きたくもなった。


 けれど、どの言葉も今ここでは違う気がした。


 彼女がようやく差し出してくれたものを、軽く扱いたくなかった。

 だから五条は、ただ静かに受け取るように、その一言だけを返した。


 未沙はその反応に、少しだけ救われた気がした。


 もしここで強く踏み込まれていたら、きっともう何も言えなくなっていた。

 けれど五条は、やはり急がない。


 そのやさしさが、未沙の胸の奥に残っていた最後のためらいを、少しだけほどいた。


「……もう、ナノバブルは出ないんですけど」


 未沙は苦笑するように、小さく言った。


 その言葉には、自嘲にも似た響きが混じっていた。

 壊れているのに使っているなんて、少しおかしいと思われるかもしれない。

 物として見れば、もう十分役目を終えているのかもしれない。


 それでも、替えられなかった。


「たぶん、だいぶ前に壊れてて……普通のシャワーみたいになってると思います」


 言葉にするほど、その事実が自分でも可笑しく思えてくる。

 機能としてはもう完全じゃない。

 新しいものに替えたほうが、きっと便利だし、肌にもいいのだろう。


 なのに、捨てられなかった。


 未沙は目を伏せたまま、最後のひと流しを整える。


「でも……なんとなく、そのまま使ってて」


 なんとなく、なんかじゃない。


 本当は分かっている。

 捨てられなかった理由を。

 手放せなかった理由を。


 それは、壊れたシャワーヘッドの中に、あの頃の自分が残っていたからだ。

 大切にされていた記憶が。

 見てもらえていた記憶が。

 ちゃんと愛されていたと思えた時間が。


 全部、そこに結びついていたから。


 壊れたからといって、簡単に捨てられるものではなかった。


 五条は目を閉じたまま、その言葉をひとつひとつ受け止めていた。


 ナノバブルはもう出ない。

 それでも使い続けている。


 その事実が、未沙の失っていなかった想いの深さを、何より雄弁に物語っていた。


 物は壊れる。

 機能は失われる。

 時間が経てば、形あるものは少しずつ古くなっていく。


 けれど、それでも捨てられないものがある。


 役目を終えたように見えても、手放せないものがある。


 それはきっと、物そのものではなく、そこに結びついた記憶や感情のほうが、ずっと大きいからだ。


 五条は胸の奥に込み上げるものを、どうにか静かに押さえた。


 うれしかった。

 痛いほど、うれしかった。


 自分だけが覚えていたわけじゃなかった。

 自分だけが手放せずにいたわけじゃなかった。


 彼女もまた、壊れてもなお捨てられないものとして、あの時間を抱えていたのだ。


「……大事にしてくれてたんですね」


 五条の声は、思っていたよりもずっと低く、静かだった。


 未沙の指先が、ほんのわずかに止まる。


 大事にしてくれてた。


 その言葉は、物に向けたもののようでいて、もっと別のものにも触れていた。


 未沙はすぐには返せなかった。


 大事にしていた。

 そうだと思う。

 でも、それを認めてしまうことは、まだ少し怖かった。


 壊れても使い続けていたのは、ただの執着かもしれない。

 前に進めていないだけかもしれない。

 そんなふうに、自分で自分をごまかしてきた時間も長かった。


 けれど今、五条のその一言を聞いた瞬間、未沙はもう言い逃れができない気がした。


 大事だったのだ。

 物も。

 記憶も。

 その人も。


「……はい」


 ようやく出た返事は、かすれるほど小さかった。


 でも、それで十分だった。


 五条はその一言を、胸のいちばん深いところで受け止める。


 はい。


 たったそれだけなのに、そこには何年分もの沈黙が含まれている気がした。


 未沙はもう、完全には隠れていなかった。

 名前を呼ばなくても。

 過去を説明しなくても。

 壊れても捨てられなかったものの話をするだけで、彼女の本心は静かに滲み出てしまっていた。


 施術の最後、未沙はそっと手を離した。


「お疲れさまでした」


 いつも通りの締めの言葉。

 けれど、その声は少しだけ震えていた。


 五条はゆっくりと身体を起こす。

 タオル越しに整えられた空気の中で、二人はまだ視線を合わせない。


 合わせてしまえば、今こぼれたものがもっとはっきり形になってしまいそうだった。


「ありがとうございました」


 五条が言う。


 その礼は施術に向けたものでもあり、今の告白に向けたものでもあった。


 未沙は小さく頷く。


 壊れても捨てられないものがある。


 それは未沙にとって、ただのシャワーヘッドではなかった。

 機能を失ってもなお手放せなかったその品には、失ったと思っていたはずの想いが、今も確かに息づいていた。


 そして五条もまた、その事実を受け取ってしまった。


 もう何もなかったことにはできない。

 けれど、だからこそ急がずにいたい。


 壊れてもなお残っていたものは、きっと簡単に扱っていいものではないと、二人とももう知っていた。


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