第23話 ナノバブル
施術の終盤、部屋の空気はいつもより少しだけやわらかかった。
最初にあった緊張は完全には消えていない。
けれど、前回までのような張りつめた痛さはもう薄れていて、代わりに、言葉にしないまま互いの呼吸を探るような静かなぬくもりが漂っていた。
未沙は五条の腕にそっと触れながら、最後の流れを整えていく。
圧の入れ方。
手を離すタイミング。
呼吸に合わせたリズム。
施術者としての意識を保ちながらも、今日はどこか不思議なくらい、指先が落ち着いていた。
もちろん心の奥では揺れている。
触れるたびに昔を思い出してしまうことも変わらない。
それでも、ただ苦しいだけではなくなっていた。
五条がここへ来るたび、何も壊さずにいてくれること。
無理に過去を暴こうとしないこと。
それでいて、なかったことにもしていないこと。
その静かな誠実さが、未沙の中の強ばりを少しずつほどいていた。
腕から手首へと流すように触れたとき、未沙はふと小さく目を留めた。
肌がきれいだ、と思った。
男の人にしては、という言い方はあまり好きではないけれど、それでも五条の肌は昔からどこかきめが細かかった気がする。今こうして施術者として触れてみると、その印象はいっそうはっきりしていた。
乾きすぎていない。
ざらつきも少ない。
水分をちゃんと含んだような、なめらかな質感。
気づいた瞬間、未沙の口から言葉がこぼれた。
「……お肌、きれいですね」
言ってから、ほんの少しだけ自分で驚く。
施術中に肌の状態を褒めること自体は不自然ではない。
実際、保湿が行き届いている人や、生活習慣が整っていそうな肌には、そういう言葉をかけることもある。
けれど今の一言には、施術者としての観察だけではないものが混じっていた気がした。
昔から知っている人に向ける、どこか私的な驚き。
そんな響きが、自分の声の奥にわずかに滲んでしまった気がして、未沙は胸の内で小さく息を詰める。
五条はうつ伏せのまま、少しだけ笑う気配を見せた。
「そうですか」
「はい。きめが細かいというか……ちゃんとお手入れされてる感じがします」
未沙はできるだけ自然な調子を保ちながら言葉を足す。
仕事としての会話に戻すためでもあり、自分の動揺を隠すためでもあった。
すると五条は、穏やかな声でこう返した。
「ナノバブルの出るシャワーヘッドを使っているからかな」
その一言が落ちた瞬間、未沙の指先がほんのわずかに止まった。
ナノバブル。
その言葉だけで、胸の奥に沈めていた記憶が一気に浮かび上がる。
誕生日の夜だった。
まだ一緒にいた頃。
未沙が何気なく、最近ちょっと気になっているものがあると話したことがあった。美容家電や高価な化粧品みたいに大げさなものじゃなくて、毎日使うものが少しだけ心地よくなるような、そんな小さな憧れ。
シャワーヘッドを替えると、肌あたりが違うらしい。
ナノバブルって、なんだかすごそう。
でも自分で買うには少し贅沢で、後回しにしてしまう。
そんなふうに、半分冗談みたいに笑って話しただけだった。
未沙自身、数日もすれば忘れてしまう程度の、何気ない会話だったはずだ。
なのに誕生日、五条が差し出してくれた箱の中に入っていたのは、そのナノバブルのシャワーヘッドだった。
覚えていてくれたのだ、と驚いた。
あんな何気ない一言を。
自分でも忘れかけていたような願いを。
うれしくて、でも照れくさくて、未沙は箱を抱えたまま何度も「なんで覚えてるの」と笑った。
すると五条は、少しだけ得意そうに、
「毎日使うもののほうがいいかなと思って」
と答えたのだ。
そのときの声。
表情。
箱を渡す手の温度。
全部が、あまりにも鮮明に蘇る。
未沙は息を乱さないようにしながら、どうにか手を動かし続けた。
けれど胸の内側では、記憶が一気に押し寄せていた。
あれは大切な品だった。
値段の問題じゃない。
自分の何気ない言葉を、ちゃんと拾って、覚えて、形にしてくれたことがうれしかった。
自分は見てもらえているのだと、あの頃たしかに思えた。
その記憶を、未沙はずっとしまい込んでいた。
思い出せば苦しくなるから。
今さら触れても戻れないから。
だから、見ないふりをしていた。
なのに五条は、たった一言でその扉を開けてしまった。
ナノバブルの出るシャワーヘッド。
それはただの生活用品の話ではない。
少なくとも未沙にとっては、そうではなかった。
直接名前を呼ばれたわけじゃない。
「あのとき君に贈ったものだ」と言われたわけでもない。
思い出しているだろう、と確かめられたわけでもない。
それでも、その言葉は確かに届いていた。
君を覚えている。
そう、静かに伝えられた気がした。
「……そうなんですね」
未沙はようやくそれだけを返す。
声が少しでも揺れていなければいいと思った。
けれど自信はなかった。
「はい。なんとなく、ずっと使っていて」
五条の返事はあくまで穏やかだった。
何でもない会話の続きみたいに、自然で、押しつけがましさがない。
けれど未沙には分かってしまう。
たぶん彼は、分かったうえで言っている。
自分が覚えているかもしれないことを。
この言葉が、ただの美容の話では終わらないことを。
それでもあえて、説明しすぎない形で置いてくれたのだ。
未沙の胸が、じわりと熱を持つ。
ずるい、と思う。
でも、そのずるさはいつだってやさしい。
思い出させるのに、責めない。
覚えていると伝えるのに、追い詰めない。
ただ、そこに置いてくれる。
その距離の取り方が、未沙にはたまらなく苦しかった。
そして同時に、どうしようもなく救いでもあった。
未沙は手元に意識を戻しながら、そっと圧を流していく。
肌に触れる指先が、さっきより少しだけ熱い気がした。
自分の動揺のせいなのか、彼の体温のせいなのかは分からない。
ただ、もう何も知らないふりはできなかった。
ナノバブル。
その一言で蘇ったのは、品物そのものだけじゃない。
誕生日の夜の空気。
箱を開けたときの驚き。
笑いながら礼を言った自分。
そんな自分を見て、少し照れたように笑っていた彼。
あの頃の、たしかに大切だった時間。
未沙は目を伏せたまま、小さく息を吐く。
忘れたかったわけじゃない。
忘れなければ進めないと思っていただけだ。
でも本当は、消えたことなんて一度もなかったのかもしれない。
一方、五条もまた、彼女の沈黙の意味を感じ取っていた。
言いすぎたかもしれない、とは少し思う。
けれど後悔はしていなかった。
あのシャワーヘッドは、今でも使っている。
それは事実だ。
使い心地がいいから、という理由ももちろんある。
けれど、それだけではない。
手放せなかったのだ。
あのとき彼女が笑ってくれた記憶ごと、ずっと生活の中に残っていた。
だからこそ、さっきの言葉は嘘ではない。
ただ、その事実が彼女に何を思い出させるかを、五条はちゃんと分かったうえで口にした。
覚えている。
忘れていない。
でも、それを無理に答えさせるつもりはない。
その気持ちを、できるだけ静かな形で伝えたかった。
未沙の手が、ほんのわずかにやわらかくなる。
それは気のせいかもしれない。
けれど五条には、その小さな変化がひどく愛おしかった。
言葉にしなくても、届くものがある。
名前を呼ばなくても、伝わる記憶がある。
それはきっと、簡単に消えない時間を二人がたしかに持っていた証なのだろう。
施術の最後、未沙は静かに手を離した。
「お疲れさまでした」
いつも通りの言葉。
けれど、その声にはどこか遠い場所から戻ってきたような、かすかな余韻が混じっていた。
「ありがとうございました」
五条もまた、穏やかに返す。
それ以上は何も言わない。
けれど、もう十分だった。
ナノバブルの出るシャワーヘッド。
たったそれだけの何気ない言葉の中に、五条は確かに「君を覚えている」と込めていた。
そして未沙もまた、その意味を痛いほど正確に受け取ってしまっていた。
直接名前を呼ばずとも、過去を口にせずとも、記憶はこんなふうに静かに触れ合ってしまう。
そのことが、未沙の胸を苦しくする。
けれど同時に、もう消えないぬくもりとして、確かに残っていた。




